第7章 安らぎの裏側で②

「ごちそうさま。美味しかったね。」

愛子も食事を終えた。

「うん、愛子のカレー史上過去最高更新したかもね。……片付け、手伝……」

そう言いかけた湊に、愛子は手をひらひらと振って制した。

「いいから。休んでて。ほとんど片付いてるし、このお皿だけだから。大丈夫。ありがと。」

「……うん。ありがと。」

色んな意味で心からそう思った湊はソファにもたれかかる。愛子はその横顔をちらりと見て、穏やかに食器を片付けていった。

数十分後、キッチンの音がやみ、部屋にゆるやかな静けさが戻る。

ふたりはソファに並んで座り、各々のカップを手にしていた。愛子は紅茶、湊はミルクティー。その香りが静かに部屋を包んでいた。

「……はぁ、しあわせ」

愛子がぽつりとつぶやくと、湊も小さく笑った。

「ほんと、お腹も満足、ゆったりティタイム。」

しばらく、テレビもつけずに静かな時間が流れる。やがて、愛子がふと思い出したように手を叩いた。

「そういえば――」

テーブルの上のリモコンを取って、ぴっとテレビの電源を入れる。

「一緒に見たい映画あったんだよね。ちょうど今、配信されてるんだ」

「へぇ、何系?」

湊がカップを置いて身を乗り出すと、愛子はいたずらっぽく笑った。

「ゾンビ」

「……マジか」

「ふふっ、怖いの苦手だったっけ?」

「別に、苦手じゃないけどさ……このまったりからゾンビ?」

そんなやりとりに、ふたりの笑い声がゆるやかに広がっていく。

映画が始まってから、ふたりはソファに並んで寄り添うように座っていた。

愛子が毛布を取り出して膝にかけ、湊は毛布の中で自然と手を絡ませる。画面の明かりが、照明を落とした部屋にちらちらと揺れていた。

しばらくすると、湊がゆっくりとソファに身体を預け、横になる。それに合わせるように、愛子もその隣にごろんと寝転び、湊のお腹に頭を乗せるようにして並んだ。

まるで一枚の毛布にくるまった、静かな生き物のように、ふたりはソファの上でぴったりと寄り添い、画面に集中していた。

ストーリーが進むにつれ、ゾンビとの攻防が激しさを増していく。湊は、何気なく観ていたはずのその映像に、わずかに心が揺れた。

主人公がショットガンを構え、目の前のゾンビに銃口を向ける。

発砲の瞬間――

ドクン。

心臓が大きく脈打った。

(……あんな撃ち方じゃダメだ)

目線、構え、呼吸――

画面の中の“演技”が、どこか不自然に思えてしまう。

(あれじゃ、反動に負けて命中率が下がる。『リアル』なら、もっと……)

考えかけて、ハッとする。いま、自分は愛子の隣で、ただの映画を観ているだけのはずだった。

(……なに考えてんだ、俺……)

そう思いながらも、心の奥で何かがざわついたままだった。

やがて映画が終わり、エンドロールが静かに流れ出す。

「ふぁ〜、面白かったね〜」

愛子が伸びをしながら、ソファの上で身体を起こす。湊も続くように上半身を起こして、笑いながら頷いた。

「うん、テンポよかったし、ゾンビの造形も意外とリアルだったかも」

「でしょ?なんかああいうB級ホラーにしては、ちゃんとしてた」

いくつかのシーンを振り返りながら、軽く感想を言い合う。その空気が、なんとも言えず心地よかった。

「ねぇ、湊。先にシャワー浴びちゃう?」

「え?」

「今日は早く寝ないとでしょ。明日もまた寝坊したらヤバいよ?」

「あ……うん。だよね」

湊はソファから立ち上がり、少し伸びをしながら浴室の方へ向かった。

「じゃ、浴びちゃおっかなー」

その背中を、愛子は微笑みながら見送った。

湊はシャワーを浴びながら、さっき観た映画のワンシーンを思い返していた。主人公のショットガンの構えが妙に気になって、思わず脳内で補正してしまう。

(いや、今日「あちら」のことは考えない)

熱い湯を肩に流しながら、そう自分に言い聞かせる。

(にしても……シャワー、何日ぶりだ?)

ぼんやりそんなことを考えていたとき、脱衣所の向こうから声がした。

「湊ー、私も入っていーい?」

「えっ?」

戸惑う間もなく、スライドドアが開き、湯気の向こうから愛子がひょっこり顔を出す。タオルで、身体を隠し、笑いながら少しだけ頬を赤らめている。

「もう入っちゃったけど。」

その言い方が妙に優しくて、湊は言葉を失う。

――別に、初めてじゃない。お風呂なんて、何度も一緒に入ってる。なのに、なぜか今日は心臓がやたらと騒がしい。

「時短だよ、じたん」

悪戯っぽく笑いながら、愛子はそのまま浴室へと入ってくる。

タオルを外し、髪をまとめながらシャワーのお湯を浴びる仕草。その自然な動きにさえ、目が離せなくなる。

(やば……)

視界に映る肌の艶、鎖骨の陰影、その下の曲線に流れ落ちるお湯。鼓動が一気に早まり、血の気が下腹に集まっていくのがわかる。思考よりも先に、身体が正直に反応していた。

彼女は何も意識していない――

それがまた、どうしようもなく刺激だった。

「え……湊?」

愛子が湊の下半身の変化に気づいた。目を見開き、次の瞬間には、はにかむような笑みが浮かんだ。

湊のてはもう伸びていた。彼女の肩をそっと抱き寄せ、そのまま唇を重ねる。

「ちょ、み、湊……!」

愛子の驚いた声。それでも湊の衝動は止まらなかった。濡れた髪に指を絡め、頬を撫で、肌に触れる。触れた分だけ、愛おしさと興奮が混ざり合っていく。

「……待って、まだ体……洗ってないから……」

愛子がそっと制するように、胸に手を当てる。

「後でね、後で……」

湊ははっとして、ようやく我に返った。

「……ごめん」

「ううん、……ちょっと嬉しかった」

小さな声に、ふと愛子が目をそらした。

――もしかして、飽きられたんじゃないか。そんな不安がほんの少しだけ、胸の奥にあった。

「ね、先、あがってて。すぐ行くから」

湯気の向こうで、愛子がやわらかく微笑んだ。

「……うん」

湊は頷き、火照りの残る身体をそっとタオルで覆いながら、浴室をあとにした。

煩悩をかき消すように、湊は夢中で歯を磨いた。鏡に映る自分の顔がどこか火照って見え、無意識に水で口をすすぐ回数が増えていた。

軽く頭をタオルで拭いて、リビングに戻る。ベッドで待っているのはあまりにもあからさますぎて、湊はソファに腰を下ろし、何気ないそぶりでテレビをつけた。

(……落ち着け)

そう思っているのに、身体の奥に残る熱は消えなかった。画面の内容はほとんど頭に入ってこない。

(なんか……愛子との初めての夜もこうだったな……。)

(カレーを食べて、先にシャワーを浴びて……。)

ふっ、と情けないような気恥ずかしいような気持ちがよぎる。

(まだかな……)

胸の奥でざわつくような感覚。耳が、浴室の些細な物音に敏感になっていた。

シャワーが止まり、洗面所で歯を磨いている気配。続いてドライヤーの音が静かに響く。

(……落ち着けってば)

なのに、神経は逆に研ぎ澄まされていくようだった。やがてドライヤーの音が止まり、数秒後――

浴室の扉が開いた。

髪をかき上げながら、愛子がリビングに現れる。ドライヤーの熱がまだ少し残っているのか、頬がほんのり赤い。

「ふー、さっぱりした〜」

いつも通りのその言葉と笑顔に、湊は思わず言葉を詰まらせた。

「……う、うん」

愛子は自然な仕草で湊の隣に腰を下ろす。その距離がやけに近く感じられ、ソファのクッションの沈みまでが鮮明に伝わってくる。

「……さっき、ごめんね」

湊がぽつりと言うと、愛子は少し笑って首を横に振った。

「ううん。……嬉しかったよ」

湊の心臓が、また一段と強く打つ。気づけば、視線が自然と愛子の唇に引き寄せられていた。

そっと顔を寄せて、唇が重なる。

柔らかく、あたたかく――でも確かな熱を帯びた口づけ。ふたりは無言のまま、何度も唇を交わす。

肌の温度がじわじわと重なっていき、息づかいが荒くなる。

やがて、愛子が湊の耳元でそっと囁いた。

「……ベッド、行こっか」

その声は、優しくて、どこか甘えているようでもあった。カーテンの隙間から、ほんのわずかに月明かりが漏れていた。

シーツの中はまだ微かに熱が残っていて、どこか甘く、静かな空気が流れている。

湊はもう、隣で静かに寝息を立てていた。

すう、すう――と落ち着いた呼吸が、穏やかなリズムで部屋に広がる。

愛子はその横顔をそっと見つめ、ふっと微笑む。

(……よく寝てる)

しなやかに広がった肩から背中のライン、落ち着いた表情。そして、自分を包むように伸ばされた腕の重み。

――今日の湊の触れ方は、特別にやさしかった。

いや、いつだって優しい。けれど今日は、なんだか、言葉では表せない何かを伝えようとしてくれていた気がした。

「……ありがとうね」

声には出さず、心の中でだけそっと呟く。湊の肩にそっと額を預けると、そのぬくもりがじんわりと伝わってくる。安心感と静けさが全身を包み、呼吸までゆっくりと整っていく。

そのまま、愛子も眠りに落ちていった。微笑みをたたえたまま、夢と現のあいだに、すうっと沈んでいくように――

朝6時前、愛子は自然と目を覚ました。いつもの習慣が、今日もちゃんと彼女を目覚めさせる。身体の奥に残るあたたかさと、湊の寝息の音。

カーテン越しの光はまだ淡く、部屋には夜の名残が少しだけ残っていた。

隣で眠る湊の顔を、しばらく見つめる。静かな寝息。穏やかな表情。昨日の夜を思い出して、胸がじんわりと満たされる。

翌朝6:00

いつも通り目覚める愛子。

湊を起こさないように。あと少しだけ、この静けさを守っていたかった。

慎重にそっとベッドを抜け出し、キッチンに向かう。なるべく音を立てないように鍋に火をかける。

❘❘そういえば、朝もカレー食べたいって言ってたな。

カレーの鍋に火をかけ、焦がさないようにゆっくりと温める。

静寂の中、味噌汁の鍋から立ちのぼる湯気と、カレーの香が生活の色を付けていく。

夕べタイマーをかけていた炊飯器から湯気が立ち上るころ、静かにクローゼットに向かう。

何着か置いてある湊のワイシャツを取り出し、きれいに揃えられたネクタイの中から(どれが合うかな?)などと考えながら、ふと微笑みがこぼれる。

(……なんか、奥さんみたい)

そう思った瞬間、自分で少し照れくさくなって、顔を隠すように髪を耳にかけた。

7時ちょうど。

湊のスマホが、控えめにアラームを鳴らした。

「……おはよう」

寝ぼけたような声。けれど、昨日よりも少ししゃんとしている気がした。

「おはよ。もうちょっと寝てたら?うちからなら余裕あるでしょ?7時半に起こすよ」

愛子はキッチンから顔をのぞかせながら、湊に微笑みかけた。

「いや、大丈夫。今日は早めに出勤するよ」

その言葉に、愛子は少しだけ驚いたように瞬きをしてから、すぐに「そっか」と優しく頷いた。

「朝ごはん、カレーがいいんでしょ?もうすぐご飯炊き上がるから。」

「うん。ありがと」

湊が少し笑って、布団をめくる。愛子もうなずいて、味噌汁の鍋に火をかけた。

穏やかで、満ち足りた朝の時間が流れていた。

洗い物を終え、手を拭きながらリビングに戻ると、湊が上着を羽織りながら口を開いた。

「……今日も、また夜こようかな」

なんでもないふうに言ったその一言に、愛子はやさしく微笑んだ。

「無理しないで。今日はちゃんと、自分のお布団で寝な?」

湊はほんの一瞬、肩の力が抜けた気がした。拒絶ではなく、思いやりに満ちたその言葉。だからこそ、素直に頷けた。

「……うん。」

靴を履きながら、もう一度リビングを見渡す。テーブルの上の湯のみ、ふたりで並んで座ったソファ、そこに差し込む暖かな太陽の光――

そのすべてが、まる『帰る場所』のように思えた。

「じゃ、行ってきます」

スーツの胸元を軽く整えながら、少し照れたように微笑む。

「いってらっしゃい」

愛子はエプロンのまま、そっと玄関に歩み寄る。扉の前で一瞬、ふたりの視線が重なった。

何も言わなくても、もう少しだけこうしていたい――

そんな気持ちが、空気の中にふわりと漂う。

湊がゆっくりとドアノブに手をかけ、扉を開く。

「気をつけてね」

その声に、湊は小さくうなずき、外へ出た。扉が静かに閉まり、足音が階段の先へと遠ざかっていく。愛子はしばらくのあいだ、玄関に立ったまま耳を澄ませていた。

(強くなくたっていい。誰に頼られなくてもいい)

(愛子さえいれば、それで――)

湊の胸の中には束の間の幸福が、いっぱいに満ちていた。

けれど――

このあと、『ふたりの世界』は、

【ゆっくりと静かに、軋みながら傾き始めていく。】

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