第6章 眠れぬ午後に①
——その日。
湊からの返信がやっと返ってきた2日前の土曜日——
午後2時を少し回った頃—
愛子はベッドの上で体を伸ばし、ぼんやりと天井を見上げた。
近くの公園では近所の小学生が
『まるでこの世には悩み事なんて生まれない。僕たちは幸せになる為だけに生まれてきたんだ』
とでも言うよに楽しそうにはしゃいでいる声が響きわたっている。
無邪気で健気なその声達にふっと笑顔が溢れてしまうほどだ。
夜勤に備えて、少しだけ眠ったつもりだったが、眠りは浅かった。
──湊、今日は休日出勤って言ってたっけ。
思い出した瞬間、スマホに手を伸ばす。LINEを開くけれど、通知はない。
「もう終わったかな」
そんなふうに思いながら、つい小さなため息が漏れる。
別に、何か用があるわけじゃない。
ただ、一言でも──
そんな気持ちを、愛子は自分でも持て余していた。
そんな思いを吹っ切るように、愛子は浴室へ向かった。
ティシャツを脱ぎ捨て、優しい湯気が立ちこめるシャワーの下に立つ。頭から浴びた温かい湯が、じわじわと寝起きの体をほぐしていく。目を閉じると、自然と湊の顔が浮かんだ。
──最近、全然会えてないな。
どちらも忙しいのはわかっているけれど、それでも、こんなふうに時間がすれ違うたび、不安になる。
湯に濡れた自分の体を、愛子はぼんやりと撫でた。指先が、やわらかい乳房をかすめる。
切ないような、満たされないような気持ちが胸に広がる。触れるたび、呼吸が少しずつ熱を帯びていく。
無意識のうちに、指は下半身へと滑っていった。みずみずしく濡れた太ももの間へ──
人肌の恋しさなのか、それともこの世界でひとりぽっちの自分を慰める為なのか。他の誰の存在も感じないこの狭い空間でこっそり満たそうとするように。
シャワーの音と、控えめでわずかな吐息だけが、静かに浴室に響いていた。
(……リロン……チロリロン……チロリロリロン)
かすかに、浴室の外から着信音が聞こえた。愛子ははっとして、すぐにシャワーを止める。
—湊から?
そんな期待が胸をかすめ、タオルで体をぬぐうのもそこそこに、濡れた髪を滴らせながらスマホに駆け寄った。
画面に表示された名前を見た瞬間、期待は泡のように消えた。
──病院?
一瞬で現実に引き戻され、すぐに折り返す。すぐに出たのは、受付の若いスタッフだった。
電話の向こうからは、慌ただしい声が飛び込んでくる。
「愛子さん、すみません!今、すぐ来てほしいんです!」
「……何かあったんですか?」
「事故です!交通事故で、小学生がたくさん!……今、病院、火の車で!」
愛子は短く「わかりました、40分でいけます」と答えた。
そしてスマホを置くと、濡れた髪も気にせず、すぐに着替えを始めた。
──その顔からは、さっきまでの迷いも、寂しさも、すべて消えていた。
愛子は、ただまっすぐに、「看護師」としての自分に戻っていた。
タクシーを飛ばして病院に着いた愛子は、入り口をくぐった瞬間、思わず足を止めた。
ロビーには、ストレッチャーに乗せられた小学生たちが何人も……泣き叫び、あるいは真っ青な顔で呆然と虚な目で横たわったいていた。
血に染まった洋服。片方だけ脱げた運動靴。その小さな体に、点滴や応急処置の跡がいくつも施されている。
親たちも駆けつけてきたのだろう。
「ユウタ!」
「アヤカ、アヤカ!」
名前を叫びながら、我を失ったように子供を探し回る母親たちの声が、あちこちで響いている。
──まるで戦場だ。
愛子は一瞬、息を呑んだ。だが、呆然としている暇はなかった。
「愛子さん!こっち!」
ベテランの看護師長の永原(ながはら)が必死に手招きする。愛子は、私服のままだったが、駆け寄った。
「搬送、まだ続く!とにかく処置室!足りない分はストレッチャーで!」
永原の短い指示を聞くなり、愛子の頭も体も、自然に動き始めた。
制服に着替える時間すら惜しい。今はただ、目の前の命を守るために。
どれほどの時間が経っただろう。愛子が汗だくになって応急処置にあたっていると、夜勤シフトのナースたちが、次々に病院に駆けつけ始めた。
人手が少しずつ戻ってきたことを確認し、愛子は意識にうながされてようやく制服に着替えに向かった。
更衣室へ向かう途中、ふと、昼間に聞いた子供たちの声が耳に蘇った。近くの公園で、無邪気にはしゃぐ笑い声。あれは、つい数時間前のことだった。
そして──さっき見た、この悲惨な光景。
泣き叫ぶ子供たち。血に染まった小さな靴。絶望の表情を浮かべる親たち。ナース服に着替えながら、愛子は胸の奥に言葉にできない痛みを抱えた。
──なんて悲惨な世の中。
自分の悩みなんて、この現実に比べたら、なんて小さなことなんだろう……。
制服に着替え終えたその顔には、さっきまでの迷いの影は一切なかった。
髪をゴムで束ね、顔を上げる。
──今は、ただ、目の前の命のために。
愛子は、再び戦場へと足を踏み入れた。
時間の感覚はとうに麻痺していた。
ほとんど休憩も取れないまま、愛子たちは次々に運ばれてくる子供たちに対応し続けた。
──それでも、残酷な現実は容赦なかった。
いくら手を尽くしても、救えなかった命があった。無力感と、押し潰されそうな悔しさ。
けれど、次の患者のために、立ち止まることは許されなかった。
――夜も更けた23時過ぎ。
病院の廊下は静まり返っていた。それでも処置室の奥からは、どこかでかすかに器具の音や足音が響いてくる。長い夜が、まだ終わらない。
「愛子さん……少し、休憩に入りなさい」
そう声をかけてきたのは、看護師長の永原だった。
芯のある口調で現場をまとめる肝の据わった女性だ。目を見ただけで、愛子の限界が近いことを見抜いていた。
「はい。ありがとうございます……」
かすれる声で一礼し、愛子は処置室を離れた。休憩室のソファに腰を下ろすと、全身の力が抜けるのを感じた。肩から、腕から、気づかないうちに張っていたものが一気に崩れていく。
――あの子たち、助けられた命、助けられなかった命。
いまも耳の奥に残る悲鳴、泣き叫ぶ親たちの声。
(……ダメだ、こんなときこそ、自分がしっかりしなきゃ)
そう思って、愛子は目を閉じた。
けれど、ふと胸の奥が、ぽつんと空洞のように感じられた。強くあらねばと思うほど、誰かにすがりたい気持ちが湧いてしまう。
『しっかり』という言葉は、自分自信の決意のようでいて、
本当は――誰かに傍にいてほしいという、静かなSOSでもあった。
その手が自然にスマホを取っていたのは、心のどこかで、湊に触れていたかったからだ。
震える指で、愛子はスマホを手に取った。LINEを開き、湊の名前をタップする。
——土曜深夜23:48
【今日、夜勤明けに行っていい?】
ただ、それだけ。湊に負担をかけたくなかった。心配もさせたくなかった。
だからこそ、なるべく普段通りのテンションを装って、あえて深く踏み込まずに、さらりと送った。
けれどその言葉の奥には、
(ほんとは今すぐにでも会いたい)という、静かな願いがにじんでいた。
たったそれだけを打ち込んで、送信ボタンを押す。なるべく普段通りに……。
返事がすぐに来るとは思っていない。けれど、何かを確かめたかった。この現実のなかで、心が繋がっている存在がまだどこかにあると――
そう信じたかった。
画面を見つめながら、次の瞬間、愛子の身体はふっと沈み込んだ。スマホを手にしたまま、ソファにもたれかかり、そのまま眠りに落ちた。
無音の休憩室。
明かりのついたままの静寂のなかで、白衣を羽織ったままの彼女が、食事も摂らず、力尽きるように横たわっている。
ほんのわずかに与えられた休息だった。
ほどなくして、短いアラームが鳴る。愛子は軽くまばたきをして、目を覚ます。
(……。)
——返信は……来ていなかった。
「……大丈夫、行こう。」
自分に言い聞かせるように呟くと、顔をひとつ軽く叩いて立ち上がる。まだ全身に疲労は残っている。けれど、立ち止まっている時間はない。次の命が、自分を待っている。
愛子は、再びナースステーションへと戻っていった
身体はまだ重く、まぶたの裏に眠気の余韻が残っている。
病棟は一見、静寂に包まれている。けれどその静けさの奥では、モニターの微かなアラーム音、点滴の滴下音、誰かのかすかな寝息が絶えず響いている。
愛子はカルテを確認しながら、再び巡回へと向かった。バイタルの再測定、排液の確認、皮膚の異常の早期発見。眠っている患者の額にそっと手を当て、熱がないかを確かめる。
わずかな変化も見逃さないように、懐中電灯の明かりを手元に落とした。
退勤の時間が近づくころ、愛子はもう立っているだけで精一杯だった。体が重い。頭がぼんやりする。まるで何かを置き忘れたみたいに、自分がどこにいるのかすら曖昧になる。
そんな愛子の肩を、永原がそっと叩いた。
「……大丈夫?、愛子さん、これが私たちの仕事だから。気持ちをしっかりね。」
そう言って、微笑んだ永原の顔には、深い疲労と、それ以上に強い覚悟がにじんでいた。
愛子は、かすかにうなずいた。
「……愛子さん、悪いけど、退勤前に備品のチェックだけお願いできる?」
永原の言葉に、愛子はしっかり「はい」と答え、ぎこちなく動く足で、薬品庫へと向かう。
心も体もすり減ったまま、それでも手を止めることなく──。
諸々の雑務を終え、夜勤の引き継ぎも済ませた愛子は、ナースステーションの空気を深く吸い込んでから、
日曜9:30分頃、勤務を終えた。
長い一日が、ようやく終わった。緊張の連続だった現場の喧騒が、まだ耳の奥にかすかに残っている。
今日もいつも通りのぼる太陽の光を浴びながら、ポケットからスマホを取り出す。
もう一度、湊からLINEを確認する。画面を開いた瞬間、愛子の胸がほんの少しだけ騒いだ。
(……湊、まだ寝てるよね……)
仕方ないって、わかってる。疲れてるのは湊だって同じだ。
でも――
それでも、今だけは、そばにいてほしかった。
(……もう一回、LINEしてみようかな……)
ただ隣にいてくれるだけでいい。言葉なんていらない。
湊が眠っていたいなら、何も言わずにその横で、一緒に目を閉じていたい。この心のざわつきを、静かに沈められるのは、きっと彼だけだから。
——けれど、指は動かなかった。
(……ダメだよ。こんなの、甘えてる。湊からの連絡を待とう。)
普段は絶対にかけたくない、と思っている負担を、いま、少しだけ押しつけてしまいそうな自分が怖かった。
愛子はスマホをポケットにしまい、朝の風に目を細めた。
――ひとりでも、ちゃんと帰れる。大丈夫。そう、言い聞かせながら。
帰宅した愛子は、玄関をくぐった瞬間、息を吐くように壁にもたれかかった。
体の芯まで疲れていて、ひとつ動くごとに重さが増していくようだった。
(……シャワーだけは、浴びておこう)
すぐにベッドに倒れ込みたい気持ちをどうにか押しとどめ、脱衣所へ向かう。服を脱ぎ、湯の温かさに包まれた瞬間、ふと昨夜の自分が脳裏をかすめた。
――湯気の中、ひとりで、あの人を思い浮かべながら。欲しがるように、慰めるように、指先を動かしていた自分。
(……なにやってるんだろ、私)
情けなさと、どこにもぶつけられない想い。目を閉じれば、すぐにあの感触が蘇ってくるのが、余計に恥ずかしかった。髪に泡をなじませながら、愛子は一度、深く息を吐く。
(もう考えない。切り替えなきゃ)
そう思いながらシャワーを浴び直し、早足で浴室を後にした。濡れた髪をタオルで拭きながら、キッチンの前に立つ。
(なにか、作ろう。少しでも何か食べなきゃ)
卵、納豆、冷蔵庫に残っていた茹でたほうれん草。玉子焼きでも作ろうかと、まな板に手をかける。
――が、手が止まった。
頭がふわりと揺れ、膝の力が抜けそうになる。
(ダメだ、無理)
コンロの火すらつけられそうにない。愛子は冷蔵庫を開け、冷えた牛乳をコップ一杯だけ注いだ。
それを飲み干すと、部屋の明かりを消し、寝室へと向かう。
ベッドに身体を沈めた瞬間、まるで水の中に落ちていくように意識が途切れていった。
湊の顔が一瞬、浮かびかけたが――もう、何も考えられなかった。
よほど疲れていたのか、目が覚めたのは夜の20時を回った頃だった。カーテンの隙間から漏れる街灯の灯りが、ぼんやりと部屋を照らしている。
(10時間近く寝ちゃった……)
重いまぶたをこすりながら、愛子は枕元のスマホに手を伸ばす。
——通知がひとつ。LINE。湊からだった。
(やっと……)
——日曜昼11:51
【返信遅れてごめん。寝ちゃってた、昨日は慣れない休日出勤だったから、ちょっと疲れた。今日はゆっくり休もうと思ってる。愛子もゆっくり休んで。無理しないで。】
ほんの少し、胸の奥がきゅっとなる。
(いま気づいても遅いよ……)
それは、自分への言葉なのか、湊への言葉なのか愛子自身もわからなかった。
それでも❘❘愛子はゆっくりと息を整え、返信を打つ。
——日曜夜20:27
【お疲れ様、私もくたくたで、今まで寝ちゃってたから大丈夫だよー】
しばらく画面を見つめたまま、返信をまった。だが【未読】の文字は一向に変わらなかった。
けれど、それでも。よく寝たおかげで、体は驚くほど軽くなっていた。心のざわつきも、いつの間にか、少しだけ遠のいている気がする。
「よしっ」
そう小さく声に出して、愛子はベッドを抜け出した。寝癖を直してからキッチンへ向かい、冷凍庫を開ける。
(たしか鶏肉が残ってたはず……あった)
玉ねぎと一緒に鶏肉を煮て、卵でとじる。鍋の横では、ほうれん草の味噌汁がふつふつと湯気を立てていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます