第6章 眠れぬ午後に②
「いただきまーす!」
ひとり分の夕食をテーブルに並べ、テレビのスイッチを入れる。バラエティ番組の笑い声が部屋に広がり、少しだけ寂しさが紛れた気がした。熱々の親子丼を頬張りながら、愛子はゆるやかな時間に身を任せていた。今日は、これでいい。そんな夜も、ある。
食事を済ませ、洗い物も片づけると、愛子は湯呑みに温かいお茶を注ぎ、リビングのソファに腰を下ろした。テレビではまだ、賑やかなバラエティ番組が流れている。
声をあげて笑う気力はないけれど、何も考えなくていいその時間が、今はありがたかった。
——けれど、湯呑みを口に運ぶたびに、ふとした拍子に、湊の顔が浮かんでしまう。
(疲れ、ちゃんととれたかな……)
(今日は、ゆっくりできた?)
気持ちは切り替えたつもりだった。ちゃんと眠って、ちゃんと食べて、こうしてひとりで過ごしている。
でも、それでも――やっぱり、会いたい。
声だけでも、聞けたら。
(……いや、ダメダメ。また甘えちゃう)
愛子は小さく首を振って、テレビに視線を戻した。画面の中では芸人たちが大げさなリアクションで笑いを取っている。しばらくはその音に身を任せるように、じっとしていた。
けれど、やがて番組が終わり、ニュース番組ばかりが並び始める頃。テレビの音が、逆に部屋の静けさを際立たせるようになった。
(……また寝ちゃってるのかな……)
普段なら、こんな事は珍しくない。お互い忙しい日もあるし、やり取りのすれ違いが一日二日空くこともある。
でも――今日は、日曜日。
なんとなく、胸の奥に小さな不安が生まれる。疲れて寝ているだけかもしれない。でも、まったく声が聞こえないことが、じわじわと心に影を落とし始めていた。
愛子はスマホを手に取ると、しばらく画面を見つめて迷ったあと、意を決して文字を打ち始めた。
日曜23:17
【いま、ちょっとだけ電話できる?】
送信ボタンを押す指が、わずかに震えていた。
返信が来ないまま、気づけば一時間ほど経っていた。スマホの画面には、既読もついていない。
(……きっと、寝ちゃったんだよね)
愛子は、そう思うことにした。明日は月曜。湊だってきっと、明日に備えて休んでいるのだ。
この時間にLINEを送った自分のほうが、むしろ悪い――そう言い聞かせるように、もう一度スマホに向き合う。
月曜深夜01:08
【もう寝ちゃったよね、ごめん。おやすみ。】
シンプルなその一文を送り、そっとスマホを伏せた。少しだけ胸が痛んだが、それでも心のどこかで、これでよかったと思えた。
「よし」
小さく声に出して、愛子は立ち上がる。洗面所で歯を磨き、ゆっくりと顔を洗ったあと、リビングの明かりを消して寝室へ向かう。
明日は休みだ。この気持ちも、きっと朝にはもう少し軽くなっている――
そんなふうに思いながら、愛子はベッドに身を沈めた。
翌朝、月曜朝6時。
愛子は自然と目を覚ました。
静かな部屋の中、まず手に取ったのはスマートフォン。けれど、湊からの返信は――まだ、届いていなかった。
(……大丈夫かな)
一瞬、胸の奥がひやりとする。けれど、愛子はその感情を振り払うように、布団から出てシャワーへ向かった。熱い湯を浴びて、軽く朝食をとる。それでも、スマホを視界の端に置かずにはいられなかった。
7時すぎ。
(湊、そろそろ起きる頃のはずだよね)
でも、画面に通知はない。少しずつ、胸のざわつきが広がっていく。
(もしかして、避けられてる……?)
(でも……そんなはずない。喧嘩らしい喧嘩なんて、ほとんどしたことない)
大丈夫。きっと、ただ疲れてるだけ。
自分にそう言い聞かせながら、朝食の片づけを終えた。
8時、コーヒーを淹れてソファに座る。朝のテレビからは、軽いニュースと天気予報が流れていたが、耳にはほとんど入ってこなかった。
9時。
湊の出勤時間――のはず。
スマホを手に取り、しばらく見つめる。
送るべきか、やめるべきか。その間を行ったり来たりするような時間。けれど、ついに、愛子はゆっくりと指を動かした。
重くならないように。嫌われないように。ただ、ちょっとだけ、心配な気持ちを添えて。
月曜朝9:12
【おーい。起きてるー? 大丈夫〜?】
その一文を送信すると、愛子はそっとスマホを伏せた。鼓動が、わずかに早くなっていた。
9時半。それでもまだ、湊からの返信はなかった。
愛子はスマホを手にしたまま、じっと画面を見つめていた。胸の奥がざわざわと騒ぎはじめる。
何かあったんじゃないか、体調を崩して動けないんじゃないか、もしかして――事故?最悪の想像が次々と浮かんでは消え、冷静さを保つのが難しくなってきていた。
(……行かなきゃ、湊の家に)
そんな考えが頭をかすめ、テレビのリモコンに手を伸ばす。画面を消して、支度を始めようとしたそのとき――
ピロン
LINEの通知音が響いた。画面には、
月曜9:38
【ごめん、寝坊した!今、急いで会社に向かってる。後で必ず連絡するから。】の文字。
「……はあ……」
安堵と脱力が同時に押し寄せてきた。ソファに腰を下ろしながら、愛子は小さく笑みを漏らす。
よかった、無事だったんだ――それだけで、涙が出そうなほどホッとした。
すぐにスマホを持ち直し、指を動かす。
月曜9:40
【良かった、ちゃんと無事だったんだ(汗)】
【すっごく心配したんだよ(涙)】
【体調、大丈夫? 無理しないでね】
【湊、大遅刻で絶対いま凹んでると思うけど……大丈夫だよ。人間なんだからそんな時もあるよ】
【まぁ、全然返信返してくれなかった事は豪華ディナーで許してあげよう!(笑)】
送信ボタンを押したあと、ふっと息をつく。胸の中に溜まっていたものが、ようやく少しだけ和らいだ気がした。スマホを伏せて、愛子はふっと息をついた。
湊からの「寝坊した!」という一言に、とりあえず無事だとわかって、まずは安堵した。返事も送ったし、心配も落ち着いた――はずだった。
「よしっ」
気持ちを切り替えるように言い、愛子は掃除用具を手に取った。テーブルの上を拭き、カーテンを少し開けて空気を入れ替える。洗面所の鏡を磨き、棚の隅にうっすらたまった埃をぬぐう。いつもより丁寧に手を動かしながら、気持ちも整えようとしていた。
だが、心は思うようについてこなかった。頭の片隅にはずっと湊のことが居座り続けている。
(あんなに心配したのに……)
事故じゃないか、体調が悪いんじゃないか。様々な不安が胸を締めつけていたあの時間。でも湊は、ただ「寝坊した」とだけ。
そのまま愛子はバスルームへ向かい、掃除を始めた。洗面器やボトルをどけ、床にしゃがみ込んでブラシを手に取る。湯の流れた跡、手をついた壁のざらつき、鏡に残る曇り。その一つひとつが妙に生々しく感じられて、胸の奥にじんわりと熱が差した。
愛子は言葉もなく、浴槽の縁に洗剤を吹きかけ、スポンジで強くこすった。先日の恥も、今日のモヤモヤも、ぜんぶ洗い流してしまいたかった。
トイレへと移動し、便座のふち、タンクの裏、棚の奥――普段よりも丁寧に手を動かしながら、思考は止まらなかった。
次にキッチンへ向かい、換気扇のフィルターを外し、蛇口の根本や冷蔵庫の取っ手まで、細かなところを黙々と拭いていく。けれど、手を動かせば動かすほど、心のざわつきは増していった。
掃除機のスイッチを切った瞬間、部屋に静寂が満ちた。その静けさが、逆に心のざわめきを浮かび上がらせる。
(……土曜の夜から月曜の朝まで、ほとんど寝てたの?)
(そんなに深く眠るほど、疲れてたの?)
(それとも、何か――言えない理由でもあったの?)
(体調が悪かったなら、そう言ってくれればいいのに)
(私って、そんなことも言ってもらえない存在なの?)
ふと立ち止まり、雑巾を握ったまま、愛子は動けなくなった。整った部屋の中にいるのに、自分の心だけがどこか散らかっているような気がした。
12時を回った頃。
窓の外から差し込む光は柔らかく、部屋の空気もすっかり落ち着いていた。なのに、愛子の中だけは、どうしようもなくモヤモヤが渦巻いていた。掃除を終えてから、何をする気にもなれず、ただ時間だけが静かに過ぎていく。
お腹が空いているような気もするけれど、何かを作る気力は出なかった。冷蔵庫の前でしばらく立ち尽くしたあと、扉をそっと閉じてリビングへ戻る。
(……ずっと寝てた、だけ?)
頭ではそう思おうとしても、心の奥が納得してくれない。土曜の夜から日曜の朝まで、そしてそのまま月曜の朝も――
連絡が来るまでの、あの長い時間。
(ほんとは……他に誰か……)
そんな想像が浮かんだ自分が、いちばん嫌だった。湊を信じたかったのに。信じてると思っていたのに。ほんの一瞬でも、疑った自分が悔しくて、情けなくて――苦しかった。
そんなとき、スマホの通知音が鳴いた。
画面を見ると、湊からだった。昼休み、だろうか。一瞬だけ指が止まり、少し遅れてタップする。
月曜12:23
【心配かけてごめん】
【今日、休みだったよね?】
【もしよかったら、夜ご飯でも行かない?】
【ちゃんと謝りたいんだ】
胸がぎゅっと締めつけられる。ああ、やっぱり湊は、いつも通りだ。ふざけたり、軽く流したりせず、ちゃんと謝ってくれる。
(……私のほうこそ、ごめんじゃないの?)
疑ったことも、寂しさを我慢しきれなかったことも、
彼を責める前に、自分自身に向き合うべきなんじゃないか――
そんな思いが胸を刺す。
でも、それでも――今会うのは、怖かった。
このまま顔を見たら、笑えない気がした。ほんの少しのつもりでも、きっと感情があふれて、言いたくないことまで、口をついて出てしまうかもしれない。そんな自分を、湊に見せたくなかった。
しばらくスマホを見つめたまま、愛子は何度も文字を打っては消し、ようやく、静かにメッセージを送った。
月曜12:36
【ごめんね、私も今日はちょっと疲れちゃったから、やめとくね】
【でも、怒ってるわけじゃないよ!】
【本当に、気にしないでね(笑)】
【湊も、今日は無理しないで】
送信ボタンを押したあと、愛子はゆっくりと息を吐いた。空っぽの胃の奥に、何かが静かに沈んでいくような感覚があった。
* * *
——非常階段の踊り場。昼の光がコンクリートの壁に薄く差し込んでいる。湊は鉄の手すりにもたれかかりながら、スマホの画面を見つめていた。
その金属の冷たく硬い感触が、やけに骨に響いた。まるで今の自分の中にある、どうにもならない気持ちそのもののように。
画面には、愛子からの返信。
それは、優しい断りだった。俺に気を使わせないように。それでいて、ちゃんと俺の体を心配してくれる言葉が並んでいた。
読み終えたあとも、しばらく指は動かなかった。手すりの硬さに身を預けるしかない自分が、ひどく情けなく思えた。
(……そうだよな)
会いたい。謝りたかった。でも、それは結局、自分のためだったのかもしれない。
罪悪感を『謝る』という形にして、逃げたかっただけ。そう思った瞬間、喉の奥がきゅっと詰まる。そんな自分が、すごく恥ずかしく思えた。
自分の情けなさと、遅刻した気まずい空気に包まれながら、午後の勤務をどうにか終えた。上司にはもう一度、深々と頭を下げて謝罪し、そのまま職場を出る。
夕方の空はまだほんのり明るく、太陽の熱と湿気を含んだ重たい風が、肌にじんわりまとわりつく。少し歩くだけでも、背中に汗がにじむような重たい空気。どこへ向かうともなく歩いていた足が、ふと立ち止まった。
(……え?)
目の前に広がるのは、愛子のマンション。無意識のうちに足が向いていたことに、湊は驚きと同時に、自嘲の笑みを浮かべる。
(……バカか、俺)
帰ろう。これ以上、勝手なことはしちゃいけない――そう思って踵を返しかけたが、足が止まる。
(でも……)
スマホを取り出し、画面を開く。愛子とのトークルーム。指が宙でしばらく迷い、それから静かに文字を打ち込んだ。
【やっぱり会いに行っていいかな?少しだけでも……ちゃんと謝りたい】
送信。
胸の奥がきゅっと締めつけられる。スマホを伏せて、湊はしばらくエントランス前に立ち尽くしたまま、愛子の部屋を見上げていた。
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