第5章 あちら側の扉②

――どれくらい経ったのだろう。

甲高いスマホの着信音が、不意に静寂を切り裂く。

ぐっすりと沈み込んでいた意識は、なかなか浮かんでこない。耳にうるさく響くその音も、最初は夢の続きのようにぼんやりとしか聞こえなかった。

(……なんの音……?)

……ルルル……プルルル……プルルルルル……

朦朧としたまま、湊は枕元を手探りする。指先に触れたスマホを、無意識に持ち上げた。

そこに表示されたのは、会社の名前。

(……会社?)

ぼんやりとした頭で、その意味を考える。

数秒遅れて――

「はっ!」と目が覚めた。

画面の時刻に目をやる。


(……9時12分……?)

まだ、意識が追いつかない。今は朝なのか、夜なのか。そもそも、今日は何曜日だったか。

(……昨日が、日曜日で……?)

(ってことは、今日――月曜日――)

(……あっ……?)

昨日は日曜で?今日は月曜で?、てことは出勤日……9時出勤……今が9時12分……

(――やばい!!)

思考が一気にクリアになる。全身に冷水をぶっかけられたような衝撃。

(大遅刻だ!!!)

ベッドから飛び起きようとした瞬間、体中がギシギシと悲鳴を上げた。それでも、もたもたしている暇はない。重い身体を引きずって、湊は立ち上がった。

(どうしよう……まずい、まずい……!)

手に持ったスマホが鳴り続ける。

(出るか、なんて言えばいいんだ!?)

言い訳を考え、焦っているうちに、着信は切れた。

汗ばむ手でスマホを握りしめたまま、湊は動揺した頭をなんとか回転させようとしていた。

震える指先で着信履歴をタップした。会社の番号を選び、すぐに折り返す。

耳に当てたスマホからは、数コールでガチャリと誰かが出た。

「……もしもし、湊ですっ!す、すみません、完全に寝坊しました……!」

まだ頭は回らない。それでも、必死に言葉を絞り出す。

「今すぐ向かいます!本当に、申し訳ありませんでした……!」

焦りと申し訳なさで声が上ずる。相手は、重たく、短く一言だけ返した。

『わかった。急いで来い。』

ピッ、と通話が切れる。

湊は顔をしかめながら、すぐに着替えに取りかかった。シャツを手に取る手も、ズボンを引き上げる足も、慌ただしくもどかしい。

(……最悪だ……)

準備をしながら、自分を責める気持ちでいっぱいだった。慌ただしくアパートの階段を駆け下り、駅へと向かって走る。背中には、焦りと自己嫌悪がどす黒くまとわりついていた。

(クソっ、なんで……!)

寝坊という現実に、頭の中は真っ白なまま。

「この世界」から消えてなくなってしまいたいという思いを押し殺しなんとか足を前に進める

足早になんとか前に進みながら、時間を確認しようとスマホを開く。

何度時間を見たって遅刻は確定しているが……

さっきは焦り過ぎていて気づかなかったが愛子からのLINEのメッセージが4件入っていた……

このタイミングで見る勇気なんて、正直なかった。でも、見なきゃいけない気がした。

震える親指で慎重にLINEを開く。既読にならないよう、プレビューだけでそっと確認する。


—日曜夜20:27 未読

【お疲れ様、私もくたくたで、今まで寝ちゃってたから大丈夫だよー】

—日曜夜23:17 未読

【今日、ちょっとだけ電話できる?」

—日曜夜01:08 未読

【もう寝ちゃったよね、ごめん。おやすみ。】

(……っ)

—月曜朝9:12 未読

【おーい。起きてるー?大丈夫~?】

呼吸が止まる。


昨夜――たしか……履歴をさかのぼる……

——土曜夜23:48 既読 愛子から 

【今日、夜勤明けに行っていい?】


——日曜昼11:51 湊から

【返信遅れてごめん。寝ちゃってた、昨日は慣れない休日出勤だったから、ちょっと疲れた。今日はゆっくり休もうと思ってる。愛子もゆっくり休んで。無理しないで。】


『あっちの世界』から返信してる……

それからまるまる24時間、いや30時間以上返信をしていない……。

日曜の夜23時過ぎ?何をしていた?

たしか——

20時頃にログアウトしたはず……そうか!そのまま眠って——

しまった!

(完全にやってしまった……。)


愛子は待っていたのだ。ほんの少しでもいいから、声を聞きたかったのかもしれない。

それなのに、自分は……VRに没頭しすぎ……挙句の果てにゲーム疲れで意識を飛ばしていた。

(……最低だ)

足は動いているはずなのに、身体の内側がぐしゃぐしゃになって、意識が遠のく感覚……

会社への大遅刻。

愛子からの寂しげなLINE。どちらも、取り返しのつかないものに思えた。

胸の奥が、ぎゅうっとねじれる。

気持ち悪い。胃の中にはほとんど何も残っていないはずなのに、全てを吐き出しそうな感覚がこみ上げる。

自分が、自分で許せなかった。


(……何やってんだよ、俺……)

走る足は重く、心はどこまでも沈んでいった。.

(とにかく……愛子に返信しなきゃ)

湊は、走りながらもスマホを握りしめた。

返信をしないままにしておくのが、何よりも怖かった。愛子のことだから、怒ったり、呆れたりなんてしない。そんな人じゃない。

――ただただ、心配しているに違いない。

そう思うと、胸がきゅっと締め付けられる。

自分のことよりも、いつだって相手を思いやるあの子だ。

きっと、湊の身に何かあったんじゃないかと、不安でたまらなかったはずだ。

(……本当に何やってんだよ……俺は!……)

罪悪感が、また新たに心を抉った(えぐった)。文字を打とうとスマホを開きかけるが、指が震えて、なかなか進まない。情けなさと、焦りと、愛子への想いが、ぐちゃぐちゃに絡み合って、湊の心をさらに重たくしていった。迷っている間にも、駅のホームが見えてきた。乗り込んだ電車は、嫌になるほどスムーズに進んでいく。

(……もうすぐ会社だ)

もう時間はない。ぐずぐずしている暇なんかない。

(……迷ってても、しょうがない)

湊は、深く深呼吸をした。喉の奥がひりついて、胸が妙に苦しい。それでも、震える指でスマホを開き、愛子とのトーク画面をもう一度確認する。画面を見た瞬間、また胸が痛んだ。


日曜夜23:17

【今日、ちょっとだけ電話できる?】

月曜深夜01:08

【もう寝ちゃったよね、ごめん。おやすみ。】

月曜朝9:12

【おーい。起きてるー?大丈夫~?】


けど、逃げるわけにはいかなかった。

(……ちゃんと、言わなきゃ)

意を決して、湊は打ち始めた。


月曜9:38

【ごめん、寝坊した!今、急いで会社に向かってる。後で必ず連絡するから。】


文章を打ち終えた瞬間、指先に力が入らなくなった。

打ち込んだ文字を読み返し、なんだか自分の事しか考えていない自分に腹が立った。

でも、愛子に対して何を言ったらいいのか、遅刻をしてしまっている状況では、頭が混乱し何を言っていいのか、他に何もに思い浮かばなかった、

最後にもう一度だけ画面を見つめて――送信ボタンを、押した。

「ピコン」という小さな音が、妙に鮮明に耳に残った。

心臓が、ひどくうるさく脈打っている。でも、ほんの少しだけ、覚悟を決めたことで重たかった胸の奥が、わずかに軽くなった気がした。

湊はスマホをポケットにしまい、会社へ向けて足を速めた。

「申し訳ございません!」

会社に駆け込むなり、湊は大声で頭を下げた。だが、上司はちらりとこちらを見ただけで、

どこか冷めた声で言った。


「……まあ、いいよ。とりあえず、仕事して。」


怒鳴られるでもなく、叱責されるでもなく。ただ淡々と、湊を日常に戻すその態度。

(……あれ?)

胸の奥に、冷たいものが流れ込んだ。

怒られなかったことに、安堵するどころか――

湊は、まるで自分が”最初からいなかった”みたいな、そんな虚しさを感じた。

(俺って……別にいてもいなくても、いいんじゃないか……俺の役割って……)

そんな考えが、じわじわと広がっていく。同僚たちは、軽く苦笑しながら言った。

「お前、やっちまったなー」

「飲みすぎたんじゃね?」

悪気はない、冗談まじりの言葉。でも、湊にはその一つひとつが、無性に刺さった。

(……俺、こんなことでしか話題にされないのか)


誰も怒らない。

誰も本気で心配しない。

誰も、本当に湊のことを必要としていない。


そんな錯覚が、じわじわと湊の心を締め付けた。

仕事は、普段と何も変わらなかった。誰かにフォローされるわけでもなく、かといって特別何かを求められるわけでもなく。

ただ、湊は機械のように、割り振られた作業をこなしていった。

(……こんなもんだよな、俺なんて)

頭ではわかっているはずなのに。それでも、心はひどく荒れていた。


あっという間に昼休みになり、休憩をとっていいのだろうかととまどい、なるべく人気のないところで湊はひとり、非常階段に座り込んでいた。

じめっとしたた空気。冷たいコンクリートの感触。お腹は空っぽのはずなのに食欲なんて出るはずもない。

誰にも必要とされていない気がして、

誰にも認められていない気がして。

情けなくて、やるせなくて、自分自身を殴りたくなるような気持ちで、湊はじっと下を向いていた。

非常階段の固い手すりに背を預けたまま、湊はスマホを取り出した。LINEが来ていたのはわかっていた。おそらく愛子からの返信のはずだ。

❘❘勤務中に私用のLINEなんて、見るべきじゃない。まして、遅刻までしておいてのうのうとスマホをいじるなんて許される事じゃない。

——ただ、本音を言えば、怖かったのかもしれない。どんな言葉が返ってきているのか、それを想像するだけで心が縮こまる。責められるかもしれない……いや、逆に優しい言葉だったら❘❘その方がきっと、つらい。

意を決してLINEを開いた。


月曜9:40

【良かった、ちゃんと無事だったんだ(汗)】

【すっごく心配したんだよ(涙)】

【体調、大丈夫? 無理しないでね】

【湊、大遅刻で絶対いま凹んでると思うけど……大丈夫だよ。人間なんだからそんな時もあるよ】

【まぁ、全然返信返してくれなかった事は豪華ディナーで許してあげよう!(笑)】


文面は、あくまで明るく、軽やかだった。心配と優しさがにじみ出ていて、

それでいて、湊を責めるような言葉はひとつもない。予想通りだが……愛子への罪悪感から来る辛さよりも胸がすっと軽くなるような安堵のほうが大きかった。


(……ああ……)

胸の奥に、じわりと何かが滲んだ。さっきまで感じていた、罪悪感とどうしようもない情けなさも、自分なんていらない存在なんじゃないかという惨めさも、その一言一言が、そっと溶かしていく気がした。たった一人でも、こうして自分を気にかけてくれる人がいる。それだけで、まだ、なんとか立っていられる気がした。

湊はスマホを両手で握りしめ、そのまま、そっと額に押し当てた。まるで祈るように目を閉じ、深く息を吐く。

(ちゃんと、返さなきゃ)

ただ「ありがとう」だけじゃ、気持ちが伝わらない気がした。

それに――思い出した。

今日は、愛子が夜勤明けの休みのはずだ。

(……だったら、今日、ちゃんと会って謝りたい……。)

指が、ゆっくりと動く。


月曜12:23

【心配かけてごめん】

【今日、休みだったよね?】

【もしよかったら、夜ご飯でも行かない?】

【ちゃんと謝りたいんだ】

送信ボタンを押したあと、胸がドクドクとうるさく鳴った。


(……どうかな)

ほんの少し、手が震えていた。

湊はスマホを見つめたまま、階段の冷たい空気にじっと耐えていた。愛子からの返信を、祈るような気持ちで待ちながら――。

❘❘返信を待つというのはこんなにも長く感じるのか……

と、また罪悪感がじわじわと胸の奥から湧き出てくる。

数分後――

スマホが小さく震えた。

(……きた)

けれど、湊はすぐには開けなかった。待っていた返信なのに……怖かった。

そっと親指でロックを解除して、LINEを開く。

表示された愛子からの返信。


月曜12:36

【ごめんね、私も今日はちょっと疲れちゃったから、やめとくね】

【でも、怒ってるわけじゃないよ!】

【本当に、気にしないでね(笑)】

【湊も、今日は無理しないで】


読み終えた瞬間、湊の顔から血の気が引いた。

(……そっか)

愛子は、怒っても責めてもこなかった。むしろ、ひたすら湊のことを気遣うような言葉ばかりだった。

それが逆に、胸をきつく締めつけた。

(本当に、俺は……)

どうしようもない無力感と、やり場のない自分自身への怒り。あたたかい言葉に救われるどころか、湊の心はさらに沈んでいった。ただ、画面を見つめたまま、動けなかった。

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