第4章 仮想と痛みと①


まずはスマホとの同期を済ませ

設定画面のログが、モニター代わりのスマホにずらずらと表示されている。


──ユーザー認証完了

──生体データ登録完了

──デバイス連携完了


【ようこそMINATO(ミナト)様】


細かすぎるほどの個人データが吸い上げられていた。スマホに保存された連絡帳、位置情報。どうやら仮想世界からもスマホの送受信が出来るようだ。


それだけじゃない。ゴーグルに内蔵された磁器センサーは、湊の体温の変動、呼吸のパターン、心拍数のリズムまで解析するらしい。


(……気味悪いな)


そう思いながらも、最後の画面に指を伸ばす。


【同期設定:VR内で許可する通知を選択してください】


湊は一瞬迷ったが、【LINE】だけを選んだ。


『その世界』に現実は持ち込みたくなかったが、完全に切り離されるのは怖かった。


続いて、利用規約の確認。果てしない長文が表示されるが、誰がこんなものを全部読むのか。

スクロールして『同意する』にチェックを入れる。


最後に、VR内での『外見設定』に移った。「現実のデータをベースに自動作成しますか?」

湊は「はい」を選んだ。


自撮り写真を求められ、素直に応じる。すぐに、身長、体重、がベースとなったアバターがモニターに表示された。


(凄い……ほとんど実写じゃん……。)でも現実よりも、ほんの少しだけ整っている気がした。


(まあ、いいか)

そうつぶやいて、湊はやっとゴーグルを手に取った。


湊がゴーグルを手に取ると、ふと内側の画面に新しい通知が現れた。


──生体同期データの最終設定を行います。ゴーグルを正しく装置して下さい。


(いよいよか……)


ゴーグルを装置するとわずかな、本当に気にしないと気付かない程の微弱な音波のようなものが脳内に伝わった気がした。


同時にゴーグルの目の前の画面にリストが浮かび上がる。


体脂肪率、筋肉量、握力(予測値)、反射速度(予測値)、視力、聴力……ゴーグルを通じて全て自動でゴーグルに吸い込まれていくみたいだ。驚くほど細かい項目に湊は思わず眉をひそめた。


(まるで……俺という存在を丸ごとコピーするみたいだ)


さらに進むと、同じ内容を読み上げる声とともにこう書かれていた。


本VRシステムは、ユーザーの身体能力・生体パターンを仮想空間に忠実に再現します。


これにより、仮想空間内での身体機能、バランス感覚、運動精度は現実に近いものとなります。

※ただし一部、経験不足によるリスク軽減のため、自動補正が適用される場合があります。


湊はため息をついた。


──つまり、現実で早く走れなければ、VRでも速くは走れない。

──現実で筋力が弱ければ、VRでも重いものは持てない。


夢みたいな世界かと思いきや、現実の限界はきっちり持ち込まれる。

そのリアルさに、むしろ湊は少し安心した。


(──いいよ、それで)


自分を偽る必要はない。この体、この弱さ、この不器用さのままでいい。


確認ボタンを押すと、データがアップロードされていく。目の前の画面には「生体同期完了」と表示され、同時に同じ言葉が聞こえた、いや、聞こえた気がした。音声やBGM等もゴーグルから脳内に直接音波振動のようなもので伝える仕組みのようだ。つまりゴーグルからは一切の音声は発せられていないのだ。


これはどうやら従来のVRシステムとは一線を画す代物だ。


今までのゲームと違い実際は動かずとも脳内で意識するだけでVR内のアバターを操作し、脳内で周りの音を聞き、おそらく脳内で声を発する事が出来る……


(こんな凄い代物が平凡な一般人の俺でも簡単に手に入る時代がきたのか……?)


呼吸も忘れるほどの興奮と動揺の狭間で戸惑っているとすかさず次『音声』が脳内にが響いた。


最後のステップは、「初期モーション同期」


VRゴーグルが反応速度や可動域、心拍数などを、脳内の電気信号を読み取って検知し、アバターと湊の動きを精密に同期させていく。


「両腕を上げてください」

「片脚立ちになってください」

「軽くジャンプしてください」 

……

……


音声に促されるまま、湊は部屋の中で次々にポーズをとった。たったそれだけの動作なのに、終わる頃には全身がじっとりと汗ばんでいた。


(これで、すべての準備が整ったのか?)


ゴーグルの中に、無限に広がる暗闇。

次の瞬間、軽快なBGMと、


──【SynDive-VR03(シンダイブ・ブイアール・ゼロスリー)】の世界へようこそ!


という音声と未来的すぎる映像が目の前に現れた。


次に画面が切り替わりいくつかのメニューが開かれる。


──ストアへアクセスしますか?


湊は頭のなかでためらいがちにつぶやいた。


(……はい……ストアを開いてください)


次の瞬間、視界いっぱいに無数のゲームタイトルが並んだ巨大な空間が現れた。


それぞれが光るパネルになっていて、手を伸ばせば詳細が開ける仕組みだ。


もちろん脳内で、だが。


(すげぇ……)


現実のストアアプリとは比べものにならない没入感だった。

湊は歩きながら、片っ端からゲームを見ていった。


──学園モノのソーシャルゲーム

──ファンタジーのMMORPG

──リアルな戦争シミュレーション

──日常生活を送るだけのスローライフゲーム


あまりにも数が多すぎて、どれも興味があるようで、でもピンと来ないようで……

さらに奥へと進んだ。


そのとき──

ふと、目を奪われるパネルがあった。


タイトルは

【NextSelf: Virtual Origin(ネクストセルフ:バーチャル・オリジン/略称NS:VO)】

──「もう一人の自分のはじまり」


パネルに触れると、紹介ムービーが再生された。広大な草原、切り立った山脈、暗い密林、夜空に輝く星々。そして、その中で身を潜めるリアルな猛獣──牙をむく狼、しなやかに動く大蛇、翼を広げた異形の鳥。現実には存在しない奇怪なモンスターたちもたくさん映った。歪んだ骨格、異様な色彩、どこか哀しげな目。


「サバイバル」「探索」「素材収集」「クラフト」「政治活動」キーワードが次々と浮かぶ。

最後に、小さな文字でこう記されていた。


【基本プレイ無料。装備品・生存スキル・身体能力アップグレード ゲーム内課金有】


湊は思わず笑った。

「身体能力までアップできるのかよ……」


それでも、なぜだかこの世界に惹かれた。ただ生きるだけ。誰に認められるでもなく、誰に縛られるでもなく、この世界で、自分だけの居場所を作っていく──そんなイメージが頭に浮かんだ。


湊は、迷わず「ダウンロード」を選んだ。画面に、インストール進行度を示すバーが表示される。


【0%】【10%】……【35%】

インストールが完了するまで、あと数分。

インストールバーが【100%】に達した瞬間、画面にポップアップが現れた。


──『NextSelf: Virtual Origin』へのログインを開始しますか?


湊は、ほんの一瞬だけ呼吸を整えた。そして、迷いなく(はい)と答えた。


周囲の空間が、すうっと暗転する。次に、耳元に柔らかな女性の声が流れた。


「本サービスは、ユーザーの安全と健康を最優先に設計されています。

連続プレイ可能時間は最大8時間までとなります。

8時間を超えると自動的にログアウトされ、強制的に休憩時間へ移行します。

健康管理のため、適切な水分補給と休憩を推奨します。」

ご理解の上、お楽しみください。」


画面にも同じ内容の注意事項が表示される。現実世界での過労や事故を防ぐためだろう。

湊は小さくうなずいた。そんなことはどうでもよかった。


──早く、始めたい。


注意事項の画面が消え、代わりに【世界をロード中】という文字が浮かぶ。


ゴーグル越しに微かな振動が伝わってくる。それに合わせて、湊の心臓もわずかに高鳴った。


そして──


視界が、ぱっと開けた。

目の前に広がるのは、まばゆいほどの大自然だった。風が吹き抜ける音。どこか遠くで、鳥の鳴き声。


地面には、草の葉が一本一本生きて揺れている。湊は、ただ呆然と立ち尽くした。


──本当に……違う世界だ。


ゴーグル越しの映像だと頭ではわかっているのに、肌に風を感じる錯覚すら覚える。


──いや、錯覚ではない。本当に脳が、身体が感じている……


それほどまでに、このVR世界は生々しかった。

湊の視界に、システムメッセージが現れる。


【ようこそ、NextSelf: Virtual Originへ】

【まずはチュートリアルを開始してください】


(──いよいよ始まる……!)


  *   *   *


深夜一時過ぎ。

初めての8時間はあっという間だった。

湊は、重いまぶたを無理やりこじ開けるようにして、VRゴーグルを外した。


現実の自分の部屋に戻ったはずなのに、まだ指先には草をかきわけた感触が、鼻先には土と緑の匂いが、うっすらと残っている気がした。現実と仮想世界の境目が、どこか曖昧だった。


──本当に、『あちら』は別の世界だった。

そして──


『あちらの世界』で受けた衝撃や痛みは『本物』だった。もちろん現実の自分の体には傷ひとつ残っていない。


けれど、あのときぶつかった時の衝撃や、身体を貫いた鋭い痛みは、今も鮮明に湊の神経に焼きついていた。


恐ろしいほどのリアルさだった。


結局……そんな世界に飛び込んでも、自分は何もできなかった。


湊は、ゴーグルをベッドの脇に放り出して、ゆっくりと仰向けに倒れ込む。


現実では事故を目の前にしても体が動かず、男の剣幕にひるみ、『あちらの世界』でも、獰猛な獣に何度も襲われ、情けなく泣きわめき、必死にあがいた挙句、あっけなく倒れただけだった

小動物すらただの1匹も捕まえられず、心はすっかり折れてしまった。


狼には獲物扱い、ウサギには見向きもされない、自分の無力さに、胸の奥がじくじくと痛んだ。


けれど、湊の中に、ほんのわずか──小さな火種のような高揚感もあった。何もできないまま終わるのは、嫌だ。『あちらの世界』には、確かに『続き』がある。何度でもやり直せる。その思いだけが、湊の心にぽつりと、熱を灯していた。


『こちらの世界』の時間は──もう深夜二時を回っていた。ベッドに転がったまま、ふとスマホに目をやる。


スクリーンには、未読のLINE。

22時過ぎ、愛子から送られてきたメッセージだった。


──気づいてはいた。


『あちら側』でも、標準装備の通信端末(確か、バングルフォンって言ったけ)が手首に装着されていた。そのバングルフォンを通じて現実世界とやりとりができることは、チュートリアルの段階で知っていた。


けれど、初めての世界に必死すぎて、何よりも夢中になりすぎて、返信する余裕などなかった。


罪悪感が、胸に重くのしかかる。


湊は、ためらいながらもスマホを手に取り、少しの間、指先を迷わせた。


そして──


【ごめん、寝ちゃってた】


そう、嘘の返事を打ち込んだ。送信ボタンを押したあと、湊はしばらく画面を見つめたまま、深くため息をついた。



翌朝7:00──

スマホのアラームが、無機質に鳴り響く。

湊は重たいまぶたをこじ開けるようにして、手探りでスマホを取った。


画面には、新着のLINE通知。


【おはよ。昨日は折角の日曜だったのにさんざんだったね……ちゃんと休めたかな?無理しないでね。今日もがんばろうね!】


着信時刻は、朝の六時半。今日は確か早番だったはず、きっと出勤前に送ってくれたのだろう。


健気なその言葉に、胸が痛む。それでも、湊は簡単なスタンプと短いメッセージで返事を済ませた。


【おはよ。今日も頑張ろう】


現実世界に戻った湊は、ぼんやりとした頭のまま、支度をして家を出た。罪悪感は消えないまま、いつもの駅へ向かう。



仕事中──

湊は資料を開いたまま、心ここにあらずだった。頭に浮かぶのは、目の前の数字や文章ではない。

『あちらの世界』のこと──


無意識のうちに、会社のPCで検索窓を開いていた。【NS:VO攻略】と打ち込む。


出てきたのは、同じようにあの世界で無力さに絶望した者たちの書き込み。


一方で、すっかりその世界に没頭し、楽しみきっている者たちも多くいる。


『たかがゲーム』

『課金最強』


そんな割り切った言葉が、掲示板を埋めていた。


──割り切って、楽しむこと。


それが攻略のコツらしい。

確かにまだ心のどこかで、『動物に攻撃を加えること』への抵抗や『自分は非力だ』と思い込み、現実世界と同じようになるべく目立たずどこか控えめに行動している。


けれど、読み進めるうちに、少しずつ心が傾いていく。


(まだやれる事はたくさんある──)

(──早く、あちらに戻りたい)


気づけば、湊はそう思い始めていた。昼休み、スマホが震えた。画面を見ると、愛子からのLINE。


【今日は、会える?】


短いメッセージに、しばらく指を止めたまま考え込む。


──会いたくないわけじゃない。


でも今は、どうしても心が『あちらの世界』に向いてしまっている。湊は、罪悪感を覚えながらも、


【ちょっと体調がよくないから、また今度にしよう】


と嘘の返事を打ち込んだ。送信ボタンを押した後、胸の奥に小さな痛みが残った。


ほどなくして、愛子から返信が届いた。


【そっかぁ……じゃあ今日はゆっくり休んでね。あんまり無理しないでよ〜】


湊はその言葉に、また胸がちくりと痛んだ。きっと心配してくれている。でも、どこか遠慮がちなニュアンスも感じる。


──自分が負担になりたくない。


そんな愛子の気遣いが、透けて見える気がした。


コンビニで買ったサンドイッチを適当に口に運びながら、湊は罪悪感と、少しの安堵を抱えたまま、午後の仕事に戻っていった。


その日の夕方。湊は今日もきっかり18時に退社した。

エレベーターに向かう途中、顔なじみの同僚に肩を叩かれる。


「たまには飲みにでも行かね?」


一瞬、うまく断る理由を考えたが──

「ちょっと予定があって」

と、曖昧に笑って断った。まあ、あながち嘘ではない。湊には『あちらの世界』が、待っているのだから。


帰り道、コンビニに立ち寄り、カップ麺を手に取る。店を出た時にはすでに空は群青に沈みかけていた。湊ははやる気持ちが抑えきれず、そっと急ぎ足になった。


19時前頃、自宅のドアを開ける。


と、ポケットのスマホが震えた。愛子からだった。


【本当に大丈夫?】


短いけれど、温かい言葉だった。湊は少し胸が締めつけられながら、


【今、家着いたよ。大丈夫。けど、今日も早めに寝るね】


とだけ返した。すぐに愛子からまた返信が届く。


【ご飯ちゃんと食べてる?作りに行こうか?】


その優しさが、痛いくらいだった。湊はスマホを握りしめたまま、しばらく何も打てずにいた。


やがて、かろうじて絞り出すようにメッセージを打つ。


【大丈夫。ちゃんと食べてる。寝れば治るよ。】

──本当は、体調が悪い訳じゃない。本当は、合わなきゃいけない。


でも、今の自分は、きっと愛子を笑顔にできない。


それに、心のどこかで、『あちらの世界』に早く戻りたいと、焦る気持ちすらあった。


小さな背徳感と、どうしようもない焦燥が胸の中で絡み合い、湊はひとり、カップ麺の湯を沸かし始めた。


湯が沸くと同時にカップ麺にお湯を注ぎ、待つ間も落ち着かない。スマホで“攻略”を読み漁る。三分もたたないうちに、湊はまるで空腹に耐えかねた獣のように、麺をかき込んだ。


味なんて、ほとんど感じなかった。ただ腹を満たすためだけに、ただ急ぐためだけに──


食べ終わると、乱暴に容器を流し台に放り込み、湊はシャワーを浴びた。熱い湯が頭から流れ落ちるが、心のざわつきは消えない。タオルで髪を拭きながら、湊はもう、視線をあの装置に向けていた。


リビングの机の上、そこに無造作に置かれたVRゴーグル。


──『あちらの世界』の、入り口。


湊は無意識のうちに手を伸ばし、その冷たい機械に指を触れた。胸の奥が、わずかに高鳴った。

現実から逃げるように、現実を忘れるために、湊は、またゴーグルを手に取った。


   *   *   *


──気づくと、目の前が真っ白になった。


【安全基準に基づき、8時間のプレイで強制ログアウトされました】


無機質なシステムメッセージが、湊の意識を現実に引き戻す。


「……はぁ!?まだ行けたのに!!」


湯気を上げるほどに、湊は荒ぶった。心も体も、まだ戦いの余韻に火照っている。イラつく指でゴーグルを机に叩きつけようとして

──ふと、思い出した。あちらで夢中になっていた間に、愛子から【おやすみ】と優しいLINEが来ていたことを。


スマホを手に取り、画面を見る。短く、素っ気ない言葉だったけれど、そこに込められた気遣いは痛いほど伝わった。湊は、返信しようとして、やめた。何をどう言っても、彼女の想いに、自分はちゃんと応えられない。それが、なんとなく分かってしまったから。


代わりに、湊は天井を見上げた。『あちらの世界』で──今夜、確かに手ごたえを感じた。


初めて、自分から獣に飛びかかり、刃を突き立てた。最初は震えた手も、次第に迷いを失っていった。一匹、また一匹と、獣を仕留めるたびに──あれほど感じていた罪悪感は、薄れていった。


スキルも課金した。腕力を上げ、狩猟の技術を覚え、強いサバイバルナイフにも課金し手に入れた。金さえあれば、技術も力も、あっという間に手に入る世界。


湊の胸が高鳴る。現実の自分では到底なれなかった『頼れる漢(おとこ)』に、『あちら』ではなれる気がした。


(……俺でも、変われるかもしれない。)


湊は、ふと笑った。高揚感と、不安と、ほんのわずかな罪悪感を胸に抱えながら──

彼は、また、『あちらの世界』を夢見た。


朝7時。スマホのアラームがけたたましく鳴り響く。


湊は顔をしかめながら、布団の中で手探りにスマホを止めた。眠い。ひどく、体が重い。


──それも当然だ。


昨夜、正確には20時前頃から、『あちらの世界』に没頭していた。8時間、夢中で過ごし、ログアウトしたのは朝の4時頃。しかも興奮が冷めきらず、布団に入ったあともなかなか眠れなかった。


寝たのか、寝ていないのかもわからないまま、朝を迎えた。


「……はぁ……まだ火曜か……」


気怠そうに体を起こし、のろのろと着替える。頭はぼんやりしていて、手足に力が入らない。

それでも、会社には行かなければならなかった。


のっそりとアパートのドアを開け、湊は薄曇りの朝の空を一度だけ見上げた。


──『現実世界』は、あんなにも色鮮やかではない。


そんなことを、ぼんやりと思いながら、彼は足を引きずるようにして通勤の列に紛れ込んでいった。


出社しても、湊の頭はぼんやりとしたままだった。パソコンに向かっても、書類に目を通しても、何も頭に入ってこない。ただ時間だけが、ねっとりと重たく流れていく。


「……おい、湊、大丈夫か?」


向かいの席の同僚が心配そうに声をかけてくる。ふと顔を上げた湊は、同僚の顔をぼんやりと見つめたあと、苦笑いを浮かべた。


「うん、大丈夫。ただちょっと寝不足でさ……」


そう答えながら、内心で焦る。──流石に、まずいかもしれない。


愛子にも適当な返信でごまかし、仕事もまともにできず、現実の自分はどんどん壊れていく。

そんな不安が、じわりと湧いてくる。


けれど──いや大丈夫、……いや……


心の奥が現実と『あちら』で揺れ動いていた。

(今日は……やめておこう。)


今夜だけは、『あちらの世界』には行かない。体を休めないと、愛子に合わないと……本当に取り返しがつかなくなる。そんな思いをほんの少しだけ噛みしめていた。

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