第3章 揺らぎのはじまり③


──思いがけない事故が、二人の絆に新たな試練を投げかけた。


救急隊員が現場を引き継ぎ、ざわつく群衆をかき分けて、愛子と湊は歩き出した。


愛子の頬にはまだ血の気が残り、眉間には深い皺が寄っている。責任を果たした安堵よりも、違法電動自転車を運転して事故を招いた若い男への憤りが、その表情を固くしていた。


「……ほんと、なんなのあの男!」

愛子は小さくため息をつき、手首についたわずかな血痕を見つめる。


「うん……ヤバいヤツだったね……」


湊は何も言えず、ただ俯いて歩幅を合わせる。自分には何もできなかったという無力感が、胸を重く締めつけている。


西の空が淡く傾きはじめ、日差しの角度がゆるやかに変わっていく。蒸し暑さはほんの少しだけ和らぎ、たまにふく風だけがどこか涼しげに頬をなでた。


遠くでは蜩(ひぐらし)の声が聞こえはじめているのに、二人のまわりだけは、まるで時間が止まったかのように静かだった。


「なんか……疲れちゃった……。」


愛子がようやく口を開く。声は低く、震えていた。


「そうだね……今日は帰ろうか。」


湊も疲れていた。疲れた?何もしていないのに?


「うん。帰ろっか。」


しばらく沈黙のまま二人は歩き、やがて愛子のマンションの前に着いた。


「……ありがとう、送ってくれて。」


ドアの前で振り返った愛子が、かすかに微笑む。


「おつかれさま。ごめんね。ゆっくり休んで。」


湊は精一杯の笑顔を返し、ドアが閉まるまで見送った。


初夏の風がゆるやかに吹き抜けていく。


けれど、そのやさしさとは裏腹に、心のどこかがすうすうと冷えていくようだった。


周囲は穏やかな午後のまま動いているのに、自分だけ「この世界」と時間から取り残されたような感覚――


誰の声も届かない場所に、ぽつんと立っているような孤独が、湊の胸を静かに締めつけていた。


自宅までの帰り道をゆっくりと歩いていた。自分には何ができたのか。


電話一本まともにかけることも出来なかった。カーディガンの1枚すら破る事も出来なかった……


「俺……何もできなかった……のに……愛子は凄かったな……」


言葉にならない後悔と無力感が、とめどなく押し寄せてくる。ふいに先ほどの事故現場の光景が蘇る。


――彼女は救うために必死にそしてごく自然に動いた。俺はただ見ている事しか出来なかった。


後悔と自己嫌悪が交錯し、胸の奥が痛む。


「俺、何やってんだろ……こんなヤツが愛子の彼氏でいいのかな……」


そう呟くと、またドロドロでどす黒い津波のようなものが心の中に押し寄せてくる。


いつの間にか自宅へたどり着いた湊は無意識のまま鍵を差し込み、玄関のドアを開けた。


もうすぐ夕暮れの日差しが漏れるリビングへ一歩踏み出し、安心できるはずのいつものソファにもたれても、頭の中にはさっきの事故の光景がまだチラついている。


カーディガンに染み込んだ血液の鉄の匂い、おばあさんの恐怖の顔、違法電動自転車の男が今にも愛子につかみかかりそうな姿――。


鼓動が早くなり、ソファにもたれたまま目を閉じる。


「はぁ……どうしようもないな……おれ……」


呟いても、誰も慰めてはくれない。ただ静かな部屋のキーンという耳鳴りだけが耳に残る。


――そのとき、インターホンが「ピンポン」と鳴った。


はっと我に返り、玄関まで足を運んだ。


ドアを開けると、大きな荷物がひとつ無造作に置かれている。先日購入したあの新型VRのロゴが大きく印刷された段ボールだった。


【SynDive-VR03(シン・ダイブ・ブイアール03)】


「……きた……てかこんな高いもんを置き配って……」


無機質でつまらない自分の人生から逃れるように注文した、最新式のVRゴーグル。


触覚も温度も何もかも脳で再現すると謳う、その箱が今、目の前にある。


リビングのテーブルにそっと置き、蓋を開ける手が震える。事故の重さがまだ胸を押さえつける中で、この“仮想の体””が自分をどこか「別の場所」へ連れ出してくれるのではないかという期待と不安が入り混じる。


箱の中には丁寧に梱包されたVRゴーグル、そして簡単なマニュアル。ふと、何も出来ない情けない自分を消し去りたいという衝動にかられる。


「…… まだ夕方だし……やってみるか」


そう自分に言い聞かせるように、ゴーグルを手に取った。その手つきはぎこちないが、確かに(今夜は『違う世界』を見たい)という意志を帯びているようだった。


――リビングの灯りが、VRのスタート画面に置き換わる。


事故の痛みも、社会の重さも、すべて一瞬だけ遠くへ飛んでいく予感がした。

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