第3章 揺らぎのはじまり②
大学卒業とともに、それぞれの道を歩み始めた。
2人はそれぞれ引っ越し、さほど遠くないが別々の場所に暮らしている。仕事終わりに会う時間は減ったが、会える時はどちらかの家に泊まり、食事を一緒に作ったり、映画を観たりと、落ち着いた恋人らしい時間を過ごしていた。
大学時代のような初々しさはもうない。それでも、付き合いの長さが生んだ安心感と信頼、そして何より“生活の一部”として自然にそこにある関係が、今の2人を支えていた。
変わっていく時間の中で、変わらずそばにいる。そんな日々が、静かに始まっていた。
──忙しさは、まだ二人の距離を変えはしなかった。
愛子は看護師としての一年目を駆け抜けている。
日勤・夜勤が交錯し、先輩からの指示に必死に食らいつく毎日。命の境界線を目の当たりにし、涙をこらえながらも、明日の自分を信じてナースステーションへ戻る。
そんな経験の積み重ねが、彼女をより大人の女性へと押し上げた。夜勤明けにようやく家に帰りつき、疲れた体に鞭打って、洗濯機を回す。洗いざらしのナース服をハンガーにかける背中には、『看護師』としての強さが滲んでいる。
──「私にできることは何だろう?」
毎晩の問いかけが、彼女の芯を研ぎ澄ませていく。
湊はIT企業のプログラマーとして働いているが、仕事に大きな情熱を抱いているわけではない。
与えられたタスクを淡々とこなし、納期に合わせてコードを上げる日々。複雑な仕様変更にも動じず、ただ確実に動くプログラムを書き続ける。
メンバー間のコミュニケーションも最低限で、自宅で過ごす夜のほうがずっと楽だと感じている。
特に「好きだ」という熱意はないけれど、「嫌いじゃない」「続けられそう」といった、程よい距離感と安定感が心地よい。
終業チャイムと同時にPCをシャットダウンし、満員電車を避けて一駅分歩くのが日課。帰宅すると愛子からのメッセージ「おつかれさま」が、ささやかな安心をもたらす。
会えない時間も、変わらぬ絆。
平日はすれ違いが続き、会えるのはたまの週末か、二人とも早く仕事を切り上げられた夜だけ。
それでも──
朝、LINEで「今日もがんばってね」のスタンプを送り
昼休みに「何たべた?」と短いメッセージを交わし
帰り道で「今、終わったよ」とだけ伝え合う
短くそっけないやり取りでも、互いを気にかける気持ちは確かだった。
呼び方も自然になり、「湊くん」だった呼びかけはいつしか「湊」になった。それは、肩書きや遠慮を超えたフラットな信頼の証だ。
それぞれが引っ越した新しい部屋には、二人の気配が少しずつ混ざりはじめている。
愛子の部屋には、湊と一緒に選んだ観葉植物が置かれ
湊のキッチンには、愛子から贈られたペアのマグカップが並ぶ
たまに会える週末の夜には、一緒に買い出しをし、簡単な料理を一緒に作る。
食後はソファで隣り合い、海外ドラマを眺めながら、やがてウトウトと眠りに落ちる。
──特別なことは何もない。
だが、その「何もない普通の時間」が、二人にとってはかけがえのない宝物だった。
【そしてまた時は流れる、かすかにすれ違い始めた先へと。】
社会人生活は瞬く間に過ぎ、ふたりは入社2年目を迎えていた。それぞれの職場に後輩ができ、立場も少しだけ変わった。
週末、ようやく時間が合った二人は、久しぶりに街角のカフェに腰を下ろした。
愛子は大学病院で夜勤を終えたばかり。疲れているはずの愛子の口からは、緊迫の現場でのエピソードが次々とあふれ出てくる。
「この間の夜勤でね……急変した患者さんが二人続いて……人工呼吸器の調整も間に合わなくて、本当にぎりぎりだったの」
言葉は途切れず、薬剤名や手順の細かい違い、チーム内の反省点まであふれ出す。二年目になって責任が増し、学ぶべきことも格段に膨らんだのだ。
対して、湊は中堅IT企業での二年目。後輩に簡単な指示を出す程度で、仕事内容は入社一年目とほぼ変わらない。客先仕様に合わせたバグ修正とテストを淡々とこなす毎日だ。
「へぇ……そうなんだ」
湊はカフェラテの泡を指でくるくるかき混ぜながら、ただ相槌を打つ。言葉は届いているはずなのに、愛子の熱量に自分がついていけず、心がどこか空回りしている。
窓の外を見れば、家族連れや若いカップルが笑いながら行き交う。かつて自分たちもそうだったはずなのに――と思うと、胸の奥がひりついた。
話がひと段落したあと、愛子が息をついて問いかける。
「……ねえ、次は何する?」
「えっと……映画でも見る?」
湊は慌てて提案する。愛子は少し肩をすくめてから、にっこり笑った。
「うん。そうだね、ごめんね。久しぶり週末くらい、仕事の話抜きで楽しまないとね。」
その言葉に、湊はほっと肩の力を抜いた。コーヒーの香りが漂うカフェに、二年目の社会人カップルを包むのは、かつての安心感とは少し違う――お互いの成長とずれを意識し始めた、静かな予感だった。
あれこれ考えすぎた自分を置いて、二人はふたたび日常に戻った。
桜が散り、新緑がまぶしい初夏のオフィス街。湊は相変わらず定時退社の身軽さで、PCを閉じるとさっとスーツを羽織る。上司への報告は簡単に終わり、彼を待つのは夜勤明けの愛子……ではなく、静かなひとりの時間だ。
一方、愛子は大学病院のナースステーションで次々と飛び込んでくる緊急患者に対応し、夜勤のシフトをぎっしり詰め込まれている。命を守るという責任は重く、先輩からの期待もさらに大きくなるばかりだ。休憩時間はスマホを眺める余裕すらなく、仮眠をとる。ふと気づけば次の呼び出しが鳴っている。
そんなすれ違いのなか、週末に予定が合わないことが増えた。
夜、LINEで「おつかれさま」と送り合うだけで、実際に会うのは月に一度あるかないか。
ある金曜の夜。いつものように定時で退社した湊は、腕時計を見てため息をついた。まだ19時前。
愛子からは「ごめん、今週もちょっと忙しいかも……」の返信。週末の予定は何もきめていなかった。
改札を抜けた先のコンビニで、彼はふと思い立ってスマホを開く。なんかゲームでも買うか。
ハイエンドなグラフィック、ワイヤレス機能、専用ソフトのラインナップ……。誰かと対戦するわけでもないが、見ているだけで心がふっと軽くなる。
「なんか、買っちゃおうかな……」
そんな独り言を漏らしながら、彼は画面をスクロールし続けた。週末の予定が空くたびに、ネットショップの“ほしいものリスト”だけが少しずつにぎやかになっていく。
――忙しさの波に飲まれる愛子と、変わらぬルーチンに虚しさを覚える湊。同じ世界を生きながらも、二人の過ごし方はずいぶん違ってきた。
湊にとっては同じ毎日の繰り返し。再びスマホの画面に映るのは、またゲーム機。でも湊が強く興味を持ったのはただのVRヘッドセットではなかった。そこに表示されていたのは、
——— Systems(ニューロ・システムズ)製・神経同期型VRデバイス「SynDive-VR03(シン・ダイブ・ブイアール03)」。
額とこめかみを包み込むようにフィットする独自設計のフレーム構造。コントローラ不使用。
仰向けでの長時間装着を想定し、後頭部には圧がかからない設計になっている。
内部には微細な電極が多数配置され、脳の神経信号を直接読み取り、視覚や聴覚だけでなく、
触覚、嗅覚、味覚に至るまで、五感すべてを再現する。
【脳内に、世界そのものを『再現』する】———
そんな一文に、思わず指が止まる。
指先でつまんだ仮想の石の冷たさや、草原を駆け抜ける風の冷たさ、崖から飛び降りたときの浮遊感……肉の焦げる香に食感や味わい。従来のコントローラーや画面越しの疑似体験を超え、まるで本当にそこにいるかのようなリアルさを実現したらしい。
(これまでのVRは 『見る』『聞く』『動く』 までだったけど、とうとう『触れる』『感じる』『味わう』 ところまで来たか……)
金額は決して安くない。むしろかなりの金額……けれど――
(これと言ってお金のかかる趣味もないし、給料だってさほど使い道があるわけじゃない。分割払いなら❘何とかなる。)
湊はひとり頷きながら、
(……別の人生が、ここにあるのかもしれない)
画面の中、光沢のある商品画像の下に並ぶ機能説明を、もう一度食い入るように見つめていた。
――五感すべてを再現する。
現実と変わらない『もう一つの世界』が、そこにあると謳われていた。
仕事も、日常も、そして恋愛も――
全部が、どこかうまくいっていない気がする。
誰にも期待されず、何者でもないまま、ただ日々が過ぎていく。
けれど、『あちら』では――
自分自身の選択で、もう一度、何かを築けるかもしれない。
何者でもなかった自分がもう一人の、『誰か』になれるかもしれない。
そんな希望とも妄想ともつかない感情が、胸の奥でじわじわと膨らんでいた。息が少し荒くなるのが、自分でもわかった。
(……行ってみたい。)
(この世界じゃない、もう一つの世界へ。)
気づけば、指は『購入』ボタンの上で止まっていた。
ほんの数秒の間を置いて――
ゆっくりと、購入ボタンに指を伸ばし“決済”ボタンを押していた。
——それは、平凡な日常を送るだけの彼の『人生』の領域を大きく広げる新世界の扉だった。
そして取り返しのつかない破滅への『決済』になる事を『ふたり』はまだ知るよしも無かった。
日曜の午後。久しぶりに時間が合った二人は、ランチを終え、街をぶらぶら散歩しながらアイスを頬張っていた。
緑道のベンチに腰掛け、次の予定を話し合おうとしたその瞬間──
ガン!という衝突音とともに、目の前で女性がよろめき、舗道に倒れ込んだ。
以前から問題になっている違法電動自転車がその老齢の女性にのしかかっていた。
自転車を運転していた若い男は動揺しながらも、「なんだよ!フラフラ歩いてっからだよ!こっちは配達中なんだよ!」と叫び自分の電動自転車と、これから配達するであろう商品の心配をしていた。
愛子は即座に立ち上がり、湊に向かって低く鋭い声を発した。
「湊!救急車を呼んで!あと警察も! 119と110、はやく!」
湊は4つしか無いはずのズボンのポケットからスマホを探しあぐねている。ようやくスマホを取り出すが緊張で手が震え、スマホのロック解除すらままならない様子だ。
「湊!早く!、、、スマホ貸して!」
愛子は強い口調で一喝し、ようやくロック解除できた湊の手からスマホを奪い取ると、素早くダイヤルを押した。
男は青ざめながらも「なんなんだよ!俺悪くねーし!」と、自分の電動自転車の様子を見ている。
だが愛子はすかさずその男を鋭い目つきで非難した。
「ふざけなで! 誰がどう見たってあんたアンタが悪いんでしょ!」
「それに、ソレ!違法なヤツでしょ!直ぐに警察くるから!仕事どころじゃなくなるからね!」
男は「はぁ?なんだおめぇ?」と凄むが、そんな事気にも留めない愛子は倒れたおばあさんの頸椎を守るように両手で頭を支えた。
──頭部の傷口からぽたぽたと血液が滴り始めている。愛子は即座に上着を脱ぎ、手早くカーディガンを広げて傷口に当てようとした。
「湊!コレちょっと破いて!すぐに!」
愛子が言うと、湊は慌ててカーディガンを受け取る。でも力が入らず、生地はなかなか裂けない。
「早く! 止血しないと!」
愛子は厳しく急かす。湊は必死に引き裂こうとするが、指先が滑る。焦るあまり、ますます裂けない。
「貸して!私がやる!」
愛子はそう言うとカーディガンを奪い取り、軽々と縫い目を引き裂いた。生地を押し当てながら、深呼吸しておばあさんの手を握った。
「大丈夫ですよ。直ぐに救急車が来ますからね。それにあたし看護師なんです。安心してください。」
その声は本当に優しくまさに“天使”のような温もりがあった。
女性の体は小刻みに震えて、何やらボソボソと呟いていていたが、その“天使”のような優しさと安心感で、やっと呼吸ができたかのように「すぅー」と息を吸い込み、それまでの恐怖と苦痛に歪んでいたおばあさんの表情が少し和らいだ。
やがて遠くでサイレンが聞こえる。救急車とパトカーが到着し、救急隊員と警察官が駆け寄ってきた。
「こちらで引き継ぎます。ありがとうございました!」
救急隊員におばあさんをお願いし、警察官に状況を説明し愛子はやっと呼吸が出来たかのように静かにそして深く息をはいた。
湊は震える体がばれないように腕を前に組んで、こみ上げる動揺をこらえている。
二人の間に流れる空気は、いつもの日常とはまったく違う、凛とした緊張に満ちていた。
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