第3章 揺らぎのはじまり①
大学生になってからの3度目の春。
新しい年度が始まり、湊と愛子2人はすっかり仲良しカップルとして周囲に知られる存在になっていた。
過剰にイチャつくわけでもなく、でも目が合えば自然と笑い合ってしまうような、そんな距離感。大学でもバイト先でも、羨ましがる声がちらほら聞こえる。
バイト先では、これまで付き合っていることを隠していた。でも、ふとした仕草や視線の交わり方で、なんとなく気づいているスタッフもいるような気配。
ある日、営業後の片付けをしていた湊は、意を決して坂本に声をかけた。
「店長、ちょっと話があります」
「ん? どうした、湊。真面目な顔して、辞めるとか言うなよ?」
「辞めないです。違くて……あの、俺と、愛子、付き合ってます」
坂本はその場で手を止めて、じっと湊を見た。
「……そうか」
しばらく間を置いてから、坂元は煙草に火をつけた。
「まぁ、なんとなくそんな気はしてたよ」
「……すみません、今まで隠してて」
「別にいいよ。仕事中、変にイチャイチャされたら困るけど、ふたりともちゃんとしてるしな」
湊が頭を下げると、坂本は軽く笑って言った。
「でもな……あいつはな、俺にとってはちょっと“娘”みたいな存在なんだよ。もちろんお前も息子みたいに思ってる。」
「……はい」
「だから正直、ちょっとだけショックだった。けど、それ以上にお前が正直に話してくれたのが嬉しいよ。湊、これからもちゃんと愛子を大事にしてやれ」
「はい、絶対に」
「……で、漢(おとこ)としてひとつだけ言っておく」
「はい?」
「女ってのはな、優しいだけじゃダメな時がある。常に覚悟を持って向き合え。逃げたり誤魔化したりしないこと。そんで、絶対何があっても守ってやる事。いいか?」
湊は、静かに頷いた。
「……わかりました」
「あと、浮気したり泣かせたりするような事したら……テメェぶち殺すからな」
「……はい……大丈夫です……」
その夜、帰り道。湊がそのことを愛子に話すと、愛子は声を上げて笑った。
「さすが店長、かっこいいね。ちょっと感動した」
「うん、俺も言われてビビったけど、ちゃんと向き合おうって改めて思えた」
「……じゃあさ」
愛子が足を止め、湊の顔をのぞき込む。
「ちゃんと、私を大事にしてくれる?」
「もちろん」
「……じゃあ今度、ちゃんと“漢”見せてよ?」
「……えぇ、愛子まで店長みたいに……」
「ふふっ、冗談だよ」
2人が笑い合う。春の夜風がふたりの髪を揺らし、満開の桜が静かに舞っていた。
3年生の夏も終わりに近づいたころ。大学では少しずつ、将来の進路を意識した話題が増えてきた。
講義の合間のカフェ。窓際の席に座る湊と愛子。アイスコーヒーの氷がカランと鳴った。
「湊くん、進路どうするか決めた?」
「うーん……正直、まだちゃんとは決めてない」
湊はカップを軽く揺らしながら、曖昧に答えた。
「でも、パソコンは昔から得意だから、IT系とか……そっち系の企業に行くのかなって、なんとなく思ってる」
「『なんとなく』って、やっぱり湊くんぽい」
愛子がくすっと笑った。湊も苦笑いで肩をすくめる。
「でも……愛子はちゃんと決まってんでしょ。看護師?」
「うん。最初から目指してるし、そっちは変わらないかな。実習もあるし、国家試験もあるし、これからが本番って感じ」
「すごいよな、ちゃんとした夢があって」
「でも、怖いよ。人の命を預かる仕事って、覚悟がいるから。私、本当にできるかなって、不安になることもあるよ」
「……愛子なら、大丈夫だと思う」
その言葉に、愛子は少し目を丸くして、照れたように笑った。
「ありがと。でも……」
「ん?」
「湊くんがパソコン得意っていうの知ってはいたけど、何か作ったりするの?」
「うん、ゲームとか、ツールとか、簡単なのだけどね。いじるのは好きなんだ。あとネットとか、調べものしてると時間忘れる」
「へぇ〜、凄いじゃん!やっぱそれってけっこう向いてるんじゃない?」
「……そうなのかな。まだ“これだ”って思うものがないから、焦るときもある」
「でも、焦らなくていいんじゃない?」
「……え?」
「私、湊くんのそういうとこ、好きだよ。ゆっくりでも、他人に流されづ自分のペースで進めるところ。実際ちゃんと考えてるし」
「……うん。」
穏やかな時間が流れる。カフェの窓の外では、夏の終わりの風が、木の葉をそっと揺らしていた。
大学4年。秋の終わり。就職活動も意外なほどすんなり終わり、湊と愛子の進路も決まっていた。
湊は都内のIT企業に内定。
愛子は大学病院の看護師としての道を歩むことになった。
そして、もう一つの大きな節目。二人がずっと働いてきた居酒屋『とびのや』を辞める時が来た。
「……そっか。ついに二人とも辞めるのか」
カウンター越しに、坂元が静かに言った。
「すみません……そろそろ卒論やインターンも本格的に始まるし、シフトに入れなくなると思って」
と、愛子。
「俺もそろそろ研修とかで忙しくなるから、予定通り来月いっぱいで辞めようかと」
湊も続けた。坂元は黙ったまま、仕込みの手を止め、しばらく二人を見つめた。
「……そっか。寂しくなるな。でも、よくここまで頑張ったよ。お前たち、本当によくやった」
「最初、俺、何もできなかったですからね」
湊が苦笑すると、店長は煙草の煙を吐きながらうなずいた。
「それでも、ちゃんと一人前になったよ。愛子も、あっという間に看板娘になってくれたしな」
愛子が少し照れて笑う。
「最後に送別会をやらなきゃな。ちゃんとしたやつ。今まで働いてくれたお礼に、スペシャル特別メニュー作ってやる。」
「えっ、スペシャルですか? それは楽しみです!」
愛子が冗談めかして言うと、坂元は小さく笑った。
「期待しとけ。ちゃんと泣けるように用意しとくからな」
「泣かせる気なんですか?」
と、湊も笑う。
送別会の日程は、他のバイトの仲間にも声をかけて決めることになった。
それは、長い大学生活の中で、ひとつの章が終わることも意味していた。
送別会は、二人のラストシフトの夜に開かれた。
営業を早めに切り上げた店内には、今まで一緒に働いてきたバイト仲間や、数人の常連たちが集まり、すっかり私服に着替えた湊と愛子を囲んでいた。
テーブルの上には、店長が腕によりをかけた『スペシャル』がずらりと並んでいる。
普段は居酒屋メニューの『和』ばかりの『とびのや』だが、この夜ばかりは少し特別だった。
「お前らの門出だ。好きなだけ食え、好きなだけ飲め」
坂本が瓶ビールを持って回りながら、皆に注いでいく。
「え、凄い!スペシャルじゃないですか! なんですかこのローストビーフ!」
「渾身の裏メニューだ。文句あるか」
「ないです!頂きます! ……うまっ!」
仲間たちの笑い声が響き、グラスは何度も乾いた。湊も、愛子も、自然と笑顔がこぼれていた。
――でも、ふとした瞬間に胸の奥がじんわり熱くなる。
「……なんだかんだ、この店でいろんなことあったな」
湊がポツリと漏らすと、愛子が頷いた。
「うん。店長、最初すごく怖かった。でもホントは店長もみんなも、凄く優しかった」
「優しいかどうかはさておき、厳しかったのは覚えてるわ」
誰かがツッコむと、坂本が鼻で笑った。
「甘やかすばっかじゃ、社会に出て潰れるからな」
「……でも、ちゃんと愛情あったと思います」
愛子が言うと、坂元は少しだけ照れたように、
「……あたりまえだ。お前ら、俺の誇りだからな」
空気が一瞬しんと静まり、その後、一斉にグラスを掲げた。
「お疲れさまー!」
その夜は、本当に浴びるように酒を飲んだ。皆の顔が赤くなり、笑って、泣いて、騒いで、また笑った。
そして、午前3時過ぎ。
「よし! 〆だ! ラーメンいくぞ!!」
坂本の一声で、定番のラーメン屋へ流れるように移動。
「もう食べられませんよ……」
「うるせぇ。じゃあ、餃子からいくか!」
「でた!餃子に回鍋肉!ラーメンまで程遠い……」
酔いと笑いが渦巻くまま、湊も愛子も、お腹を抱えて笑った。この夜のことは、きっと二人の記憶にずっと残るだろう。笑って、泣いて、語り合って――
あの店で過ごした日々があったから、ふたりの絆は育まれた。
ともに働き、時を重ね、当たり前のように隣にいることが自然になっていった。
『とびのや』という場所は、ふたりにとって出会いの場所であり、始まりの場所だった。
坂本がいて、この店があったから、ふたりはここまで歩いてこられた。
あの暖簾をくぐった日から、すべてが動き出した気がする。
出会いも、成長も、恋も、傷も――
けれど、それらはすべて、未来へと続く確かな軌跡だった。
偶然なんかじゃない。
何かが見えないところで、そっと導いてくれていたような――そんな気さえするのだった。
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