三 似た者夫婦の探り合い

 その夜、晞子は白熱電球の灯りを頼りに文をしたためていた。

 文の相手は畏れ多くも帝である。内容は、結婚の報告だ。五匣家当主の婚姻が成立したとあっては、本来は御所まで出向いて挨拶をすべきところではあるのだが、帝もこちらの事情は汲んでくれているはずなので、独断で省略することにした。


(これで帝も、少しは紅匣行使の勅命が出しやすくなるといいのだけれど)


 そんなことを思いながら、洋墨の瓶の蓋を閉めて、万年筆を置いて立ち上がる。畳敷の廊下に出て、ガラス戸を引き濡れ縁を裸足で歩いていく。

 曇っているのか、星も月も見えない。春の宵らしい花と新芽、それに濡れた土の混じったような混沌としたにおいが鼻をついた。顔を顰めつつ、沓脱石の上に足を投げ出す。


 ――荊城の北部で花ノ怪が出た。

 昼間に聞いた古賀の言葉が蘇る。


 花ノ怪。

 それは、人が妖に転じたものとも病だとも言われる、人を発生源とする禍である。どうにも御一新前には存在しなかった事象らしく、分かっていることはさほど多くない。はっきりしているのは、黒い痣のような花紋かもんが膚に浮かび上がり、それが時の経過とともに爆発的に増えていき、人外の力を行使して災厄を招くということくらいだ。

 この災厄を止める――要するに発症者を殺害することができるのは、紅匣の行使者だけ。

 それゆえに御一新後、鴇坂の血族は急速に数を減らしていた。

 姉が死んでついに晞子ひとりになってしまったので、この頃帝は地方に花ノ怪が出没しようが紅匣の力を出し渋っている。だからこそ、晞子は今度の婚姻で鴇坂の寿命がひとまず倍になったことを奏上する文をしたためたのである。


(花ノ怪、か)


 刹那、血飛沫を上げて地面に頽れる女の姿が、あぶくのように宵闇に浮かぶ。ぎゅっと目をつむってやり過ごしていると、幻のようにその姿は掻き消えていた。

 肌寒さを覚えて左肩を抱き寄せたそのとき、ふわりと温かな感触に包まれた。なにかと思って見てみれば、男物の羽織が肩にかけられている。

 着流し姿の深景がすぐ後ろにいた。


「な――なに?」

「春の夜はまだ冷えますから。……熱いのでお気をつけて」


 深景はそう言って隣に腰かけると、晞子のほうに湯呑を寄越した。

 ふんわりと豊かな玉露の香りに、自然と険しく寄せていた眉間がひらく。白く湯気が立ちのぼっているのが、障子越しのか細い光のなかでも見とめられた。じんわりと、指先に熱が伝わっていく。

 なりゆきで口をつけそうになってから、晞子は湯呑と羽織を突っ返した。


「こういうことするの、やめてちょうだい」

「こういうこととは?」

「だから、頼んでもいない甲斐甲斐しい新妻じみた真似のことよ。ただでさえ、食事を作ってもらったりしているんだから、それだけで十分だわ」


 苛々と言いつのれば、深景はくすりと笑声をこぼした。


「良心が咎めます?」


 馬鹿正直に目を見ひらきそうになって、晞子は慌てて俯いた。緩くひとつにまとめていた髪が落ちかかって、ちょうどよく顔に翳が落ちる。


「あなたこそ、どういう魂胆?」

「妻と穏やかなひとときを過ごしたいという男心に、果たしてどんな二心が?」


 それはあくまでふつうの夫婦のあいだの話だ。


(考えたくなかったけど、五匣家や紅匣絡みでなにか思惑があるのは間違いない。うちに恨みがある? でもそれなら、こんな回りくどい真似をするのは考えにくい)

 こちらの機嫌を取るような言動をしている以上、おそらく晞子をも利用してなにかを企んでいると見るべきだろう。


(とにかく、紅匣を奪われるような事態だけは阻止しないと)

 女中よりも優先して、護衛でも雇ったほうがいいだろうか。そもそも、女中ですらほぼ応募がないうえに、明らかになにか腹に一物ありそうな人物しか今のところ履歴書を送ってきていなかったが。


(もっとも、私が紅匣をもっていて、寄生していた女性たちの実名を押さえている以上、この男も下手な動きはできないはず)


 考えに沈んでいると、朗らかな声が横から響いた。


「ところで、俺は外出はしてもいいんでしょうか」

「……尻尾を巻いて逃げるような真似をしなければね」

「まさか。せっかくあなたほどの方を妻にできたのに、そんな真似はしませんよ」深景は妙案を思いついたとでもいうように、破顔する。「それとも一緒に出かけませんか? 吟座ぎんざにできたフルーツパーラーに行ってみたくて」

「愛人とでも行ってくればいいわ。ただし、必要なときはすぐにでも呼び戻すから」

「ですから親しくしていた女性とは手を切っています。しかし、呼び戻すとは具体的にどういう――」


 晞子は深景の話の途中で立ち上がって、踵を返す。

 彼の横を通りすぎざま、お盆の上の湯呑が目につく。まだ仄かに湯気が立ち上っているのが見えて、それからそっと目を逸らした。


 *


 豆電球の灯りを頼りに、蛇口をひねる。すっかりぬるまった緑茶を飲み干すと、深景は湯呑を洗い流した。

 つくづく便利なものだなと思う。水道が通っている屋敷など、まだ華族であってもそう多くはない。外から眺めたときは旧時代の遺物のような張りぼてに見えたものだが、なかなかどうして中身は洗練されている。


(花ノ怪退治の恩賞だろうな)


 帝の勅命で五匣の力を行使した家には、恩賞が与えられる。血族を減らして、山のように財を築いたのが今の鴇坂ということだろう。

 もっとも、使用人もいない体たらくで、宝の持ち腐れといった感は否めなかったが。


(……使用人といえば)


 深景は水場の奥の窓に手を伸ばした。桟に指を滑らせても、ほとんど汚れがつかない。

 おそらくつい最近まで有能な使用人が複数勤めていたはずだ。そうでなければ、これほど清潔に屋敷を保つことは不可能だ。どう考えてもあの箱入りお嬢さまには、家事全般の能力があるとは思えない。

 晞子は使えないから首を切ったなどと嘯いていたが、真偽のほどは分からない。大方、この忌まれた家と高飛車な女当主に愛想を尽かして出て行った、というのが真相なのかもしれないが。


(それにしても)

 ついぞ口をつけられることのなかった湯呑をちらりと見やって、深景は嘆息する。

(あまり長々と新婚生活を楽しむつもりはないんだけどな)


 どうも昼間、古賀は晞子に花ノ怪の話をしに来ていたようだった。花ノ怪が現れたとなれば、晞子あるいは深景が紅匣の力を行使することになる。そうなれば命の刻限は見る間に磨り減っていき、深景の悲願が成就されることもなくなる。


(だがまあ、荊城なら勅命は下らないか)


 つい数年前、今の帝になる前も、地方の農村で花ノ怪が出現しようが黙殺されることが多かった。

 理由は、花ノ怪は時が経てば自壊するためだ。花紋が身体を覆い尽くすと、発症者の身体は枯れ木のように壊死していく。だから、これほど鴇坂が数を減らした今、帝都で出現でもしないかぎり、帝が大事な花ノ怪殺しの道具を無駄づかいするとは思えない。

 命の値段は平等ではない。そのことを深景はよく知っていた。


(早いところ紅匣を手に入れて、あわよくば鴇坂晞子にも命を捧げさせる)


 それが、深景の当面の目標だ。どうやら晞子も深景の命を使いたがっているようなので、皮肉にも夫婦揃ってその目的は一致していると言える。


(さて、どう懐柔したものかな)


 古びた上がり框に腰掛けて、顎を撫でる。

 指先への口づけひとつで真っ赤になるようなおぼこい娘なので、すぐに陥落させられるかと思っていたが、扱いやすい小娘に見えて、なかなかどうして踏み込ませてくれない。危険を承知で紅匣を強奪することも考えなかったわけではなかったが、そういう真似をすればあの娘が深景になびくことはまずないだろう。


(まあ、だが)


 ――こういうことするの、やめてちょうだい。


 先ほどひどく困惑した様子で深景を見上げてきた、紅混じりの眸が瞼裏に蘇る。

 どうも彼女はやさしくされると、すぐに調子を崩す節がある。深景になにか思惑があるのは分かっているふうなのに、それでも動揺せずにはいられないといった様子だった。

 あの分なら、気長に都合のいい婿を演じているうちに、向こうのほうから勝手に堕ちてくるだろう。


(……それにしても、あっさりと外出の許可が出たな)


 逃亡を危惧して、屋敷に軟禁されることも想定していた。箱入りのお嬢さまではそこまで頭が回らなかったのか。それともあの録音の脅しひとつで、深景のことを支配下におけると過信しているのか。


(いや、あまり甘く見ないほうがいいか)


 彼女が古賀と親しかったのは、予想外だった。

 さすがにどれほど取り繕おうとも、深景の幼少期をこれでもかと知る古賀から情報を引き出されていたのでは分が悪すぎる。しかし、古賀は最近の深景の動向は知らなかったはずなので、若い燕として女たちのあいだを渡り歩いていたことはほかの筋から情報を得ていたはずだ。

 屋敷内は無防備に見えても、古賀のような協力者がほかにもいる可能性はある。それに先ほど用があれば呼び戻すというようなことも言っていたから、彼女になにかしら首輪を付けられていると思ったほうがよさそうだ。


(なんにしろ、しばらくは下手な動きは避けたほうがいいな)


 どうせ短いあいだで終わるはずの、一度きりの結婚生活だ。それまではせいぜい、犬のように新妻の機嫌取りに勤しんでやるとしよう。

 深景は電球から垂れ下がった紐を引っぱると、暗闇のなかに悪い笑みを紛れさせた。

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