二 古賀警部補の来襲

 古馴染みが訪ねてきたのは、その翌日のことだった。

 晞子は新しい女中候補の履歴書に目を通しているさなかで、深景は前日に引き続き、いくつかの身の回り品をあつらえて外商を送り出したところだった。今は私室で弎越のカタログでも見ている時分だろう。


「ごめんくださいよっと」


 酒焼けしたようなだみ声が表玄関のほうから響いて、晞子は目を見ひらく。式台のほうにひとり急いで向かえば、思ったとおりの五十がらみの髭面の男がそこにいた。


「ごきげんよう、古賀こがさん」


 古賀耕三こうぞう。叩き上げの警部補だ。

 鳥打帽に袴姿の新聞小説の私服警官が飛び出してきたような、いかにもな恰好をしている。日頃足を使う仕事なので肥えているというほどではないが、よくよく見てみると腹のあたりは年齢相応に狸のようにふっくらとしていた。

 古賀の後ろには、部下の新田にった太一たいちの姿も見えた。こちらは古賀とも太一という彼自身の名前の印象ともちがって、ひょろりと枯れ木のように細長い。神経質そうな黒縁の眼鏡をかけて、むっつりと黙り込んでいる。


「よお、嬢ちゃん。物騒なめでたい話を聞いたんで、寄ってみた」

「まあ。いやですわ、物騒だなんて。めでたい話しかありませんのに」


 晞子はにこやかに愛想笑いで応じる。「なんだよ、その芝居がかった口調は」と古賀は辟易した様子で口元をひくつかせた。

 古賀とは血のつながりこそないが、早くに死んだ本物の伯父などよりもよほど付き合いは長い。


「小新聞の記者なんか信用ならねえからな。まさかとは思ってんだ。言ったよな、俺は奴だけは辞めろと口酸っぱく」

 古賀はじりじりと踏石のほうに近づいてきて板敷の間に腰を下ろすと、咎めるように晞子を見上げる。


「そんなことより、捜査のほうがお忙しいのではなくて? また積もる話は今度日を改めて――」


 晞子はにこやかに古賀を追い返そうとした。

 しかし、その攻防の均衡を崩すように、かたりと後ろのほうで音がした。振り向いて、晞子は間の悪さに頭を抱えたくなった。


「やっぱり塞森さえもり深景じゃねえか!」

 古賀は素っ頓狂な声を上げた。


「嬢ちゃん、俺ぁ言ったはずだ。こいつは前科六犯の大悪党だってな! こいつが小便垂れのくそがきの頃、俺ぁ何度こいつの掏りの通報を受けたことか!」

(だから、このふたりを会わせたくなかったんだけど)


 晞子は内心溜め息をつきたくなった。

 古賀は晞子が婿選びにあたり、より凶悪な男を選ぶための情報源として利用していた人物のひとりである。深景の前科についての話の出所は彼だ。警官と罪人として、古賀と深景もそれなりに長い付き合いらしい。


「どなたでしょう。僕には、こんな小汚い知り合いはいませんが」


 深景は平然としらを切る。いかにも雑な態度なあたり、彼の古賀との関係の程度が知れた。

 古賀のこめかみに青筋が浮く。


「――嬢ちゃん、いくらなんでもこいつはねえよ。今からでも考え直せ。お前さんにふさわしい男はほかにいくらでもいる」

「そう仰らないで。わたくし、ひと目見てこの方と添い遂げたいと思いましたの」

 晞子の棒読みに、古賀はもはやなにも言わなかった。代わりに深景を睨めつける。


「よお、深景。なにか悪さをしてみろ。すぐにとっ捕まえに来てやっからな」


 深景は肩を竦める。いかな大ほら吹きと言えど、自身の過去をよくよく知る古賀に今さら外面を取り繕う気はないようだ。

 前科六犯を伴侶にする以上、古賀が味方についてくれているのは心強い。心強いのは間違いないのだが――。


(正直、ありがた迷惑というか)


 幼い頃にとある事件で両親を亡くした晞子を、古賀はなにくれと気にかけてくれてきた。だが、そういう情みたいなものは、晞子にとってはむしろ毒だ。或いは、深景よりも。


「……ところで、失踪事件の進展はあったの?」

 三文芝居をやめて、晞子は古賀に向きなおる。


「なーんも。ったく、おかげでこちとら足が痛ぇわ、腰が痛ぇわ、たまったもんじゃねえぜ」

「なに捜査情報を漏らしてるんですか!」


 それまでだんまりを決め込んでいた新田が、あからさまに眉を吊り上げる。

 近頃新聞の社会面を賑わせている失踪事件が、古賀たちの担当する事件だった。

 黄昏時にふっと人が消えるとかで、天狗の仕業だ、鬼だ狐だ、いいやただの人買いにちがいないと庶民のちょっとした娯楽のようになっていた。消えたのが孤児や身寄りのない貧民窟暮らしばかりなので、さほど大事にはなっていないが。


「なーんも言ってねえじゃねえか」


 大あくびをしながら、面倒くさそうに古賀が応じる。

 新田はまだ新米から毛が生えた程度だったはずだが、昨年の夏にはじめて古賀が連れてきたときからどうもふたりは水と油という感じがする。


「だいたい無駄話をしていないで、早く聴取を――」

「聴取とは?」


 すかさず、深景が首を突っ込んでくる。

 新田ははっとした様子で目を見ひらいたが、眼鏡を押しあげて誤魔化した。


「まさかうちを――僕の妻をお疑いで?」


 深景は音もなく近づいてくると、晞子の肩を抱いた。思わず肩を跳ねさせる。西洋かぶれだかなんだか知らないが、所詮まがいものの夫婦なのだから、気安く触るのはやめてほしい。

 晞子は肩に回された深景の手を跳ねのけると、新田ではなく古賀を見やった。古賀は微苦笑する。


「あー……あんま、気にすんな。いつもの形式的なもんだよ」

「かまわないわ。上がってく?」

「悪りぃな。腐っても新婚なのに」


 古賀は靴を脱ぐと、勝手知ったる様子で屋敷の奥のほうへと進んでいく。小さく頭を下げて新田がその後に続いた。

 足音が遠くなってから、深景が晞子を振り返る。


「いつもの形式的なものとは?」

「聞いたことはない? よく分からない事件が起きると、天狗だ狐だ鬼だ河童だに加えて鴇坂だ、が並ぶのよ」


 晞子は淡々と言って、畳敷きの廊下に出る。左に行けば居室があるが、古賀たちが捜索を行っているところに鉢合わせるのも気が進まず、なんとなく右に折れる。渡り廊下を渡ると、普段使っていないひと際格式高い離れがお目見えした。


「魑魅魍魎のたぐいじゃあるまいし、そこに鴇坂が並ぶのは、どうにも収まりが悪くはないですか?」

「仕方がないわ。うちは五匣家のなかではいちばん、忌まれた力の使い手だもの」


 どうも市井の人々の一部は、鴇坂が無尽蔵に人を取って殺せる異能の家系であると考えている節がある。だからなにか事件があるとすぐに、鴇坂は疑いの目で見られる。生まれてからずっとそうなので、もはや晞子は誤解を解くのを諦めていた。

 座布団を引っぱりだしてきて、次の間に座して待つ。ついでに深景のほうにも座布団を渡してやると、彼も晞子に倣って腰を下ろした。


「通報があると、警察も動かないわけにはいかないのよ。私も変な疑いをかけられるのは癪だから、いつも好きに見てもらっているの」

「おさみしくはないのですか」


 深景はひたりと晞子に視線を合わせてきた。気づかわしげに夜色の眸が揺れる。

 障子戸の向こうから入ってきたひかりを浴びて、闇夜に星屑のように琥珀が散っているようにも見えた。どうも近くで見ると、彼の目はただの漆黒ではないらしい。そのかがやきに呑まれて、晞子は束の間息を呑む。


「さみしいってなに」

「たいへんなお役目を預かってらっしゃるのに、そのような無体な誤解に晒されて」


 いつの間に身を乗り出していたのか、深景にするりと指と指のあいだをなぞられる。びっくりして、晞子は文句を言うのも忘れて手を引っ込めた。けれど深景は上体を傾けたまま、晞子を上目づかいに見やる。


「本当はまじめで人一倍責任感の強い方のようにお見受けするのに、世間はなにも分かっちゃいない」


 腐りかけの果実じみた甘い声が間近で響いて、くらりとする。

 晞子は立ち上がると、「分かったようなことを言わないで」とぴしゃりと言い放った。そのまま深景に背を向けたが、追い打ちのように声がかかった。


「ですが、たいへんなお役目を預かってらっしゃるのは本当のことでしょう? 帝の勅命があれば、鴇坂は人の盾にならざるをえない」


 どうにも、深景は鴇坂の役目の内容にまである程度通じているようだ。

 彼の言うとおり、鴇坂が力を使うのはあくまで勅命があって人を守るときだけだ。父や兄、叔父、姉が力を使った相手も、ただの人ではなかった。

 だが深景は、そんな思い出話に花を咲かせる相手では決してない。無視をして渡り廊下を渡って表玄関のほうに戻ると、あらかた確認を終えたところなのか古賀に出くわした。


「よお、悪かったな。やっぱりなーんもなかったぜ」

「そうでしょうね。どうせなら、離れも見ていって」

「世が世なら、お上が通されていたところだろ。気が引けるな」


 古賀の言うとおり、五匣家は帝との親交が深いので、御一新前はたびたび訪問があったらしい。よって離れは御成御殿おなりごてんと呼ばれて、今でもその名残で並みの客は通していない。もっとも、現在はその出番もなくなっていたが。


「では、私が確認してきます」


 古賀とちがって働き者の新田が、眼鏡を押しあげて離れのほうに向かっていく。

 どっこらせ、と式台に座り込んで履物を履きはじめた古賀が顔を上げた。


「ほんとにあいつと夫婦めおとをやってくつもりか?」

「しつこいわよ、古賀さん」

「……まあ、あいつも根っからの悪人ってわけじゃねえけどよ」


 ぽつりと漏れた声に眉根を寄せる。

 あの前科六犯のすけこましのどこをどう見たら、そんな評価を下せるのだろう。


「ああ、そういや明日にでも知れるだろうから、ひと足先に報せとくぜ」

 厭な予感がして、晞子は眉根を寄せる。


荊城いばらきの北部で花ノ怪はなのけが出た。どうも女らしい」

 晞子は言葉を失う。


「まあお上もお前さんちの事情はよく分かってるだろうから、そう簡単には話は降りてこねえと思うが、そういうことがあったってのは含んでおけ」


 風の悪戯か、玄関のほうから桜の花びらがひとひら舞い込んでくる。肩口にくっついたそれを、晞子は言葉もなく払い落とした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る