損な馬鹿な

阿吽トム

短編

 私の耳がちょうど隠れるくらいの髪の長さで、部活動に毎日時間を費やして、今よりもきっと純粋だったころに彼と付き合っていた。

 そして、彼が私を必要としなくなり、別れを切り出された。今から随分と前の話である。



 三歳離れた弟がいる。顔が私と母親によく似ており、学生時代は野球少年だった。肌は日にやけ真っ黒で丸坊主。背は高い。笑うと顔全体から白い歯だけ浮彫になり良く目立っていた。いまは当時に比べて肌は若干白くなり、髪は一丁前に整えていまっぽくなっている。

 そんな弟が、現在お付き合いしている彼女と結婚をするらしいと、私が夕食の回鍋肉ホイコーローのキャベツを咀嚼しているときに母が話かけてきた。少し味付けが薄かったかもしれない。


「え、たくやが?結婚するんや」

「そうよ。昨日話があるって言ってねぇ。お父さんが帰ってきてから、リビングで話を聞いたんよ。もうそろそろかなとは思ってたけどねぇ」

「確かに付き合ってからもう長いもんな。たまに家にも来てるよな?めっちゃ良い子だし、顔もかわいい」

「学生の頃から付き合ってるからなぁ。もう三年ぐらい経つって言ってたで」

「もうそんなに経つんや。早いなぁ」

「早いわなぁ。あんたにもまた言うって言ってたで」


 ずずずっと啜って、母が担当した味噌汁の味付けがちょっと薄いなと感じた。いつもならそのことについて言及していたと思うが、今日は何も言わなかった。一方で母は何か言いたげな顔をしていたように思う。



 後日、弟から結婚の話をしてくれた。してくれたと言っても特にアポイントメントを取られたわけでも、互いに向き合って座り、茶でも飲みながら話をしたわけではない。『あ、そういえばさくらと結婚するんよ』と、夜中にリビングで私が梅酒を飲んでいた時に、二階から降りてきた弟が声をかけてきた。そのまま特に足を止めることもなく、何か冷蔵庫の中を物色してからまた部屋に戻って行った。

 姉の威厳を見せつけてやろうとか、柄にもなく思ったが、私に威厳なんてものはあるはずもなく、母から聞いたよとを返事して、短い会話が終わった。  


 私はその夜、いつもより多めに酒を飲んだと思う。





 彼から連絡があった。内容は貸していた漫画を返してほしいと言うことだった。自室の押入れの中に今でもきちんと保管している。いまはもう完結している漫画で12巻まであり、部屋を掃除する度にちらっと見ては思い出していたが、連絡は来ないしまあいいかとそのままにしていた。自分から連絡することも、まるで会いたがっているようで嫌だったのもある。

 どうやら、久しぶりにその漫画を読み返したくなったが、私に貸していたことを思い出し、返してほしいと言うことらしい。そして、どうせ会うならと食事でもと誘われたので、あまり乗り気にはなれなかったが、『久しぶりに会うんだからお酒でも』というメッセージに釣られて会うことになった。あの頃はまだ飲めなかったから、彼とお酒を飲むのが少し楽しみだった。


 当日、先に居酒屋についたのは私だった。待ち合わせの場所は近所にある居酒屋で彼が家の近くまで来てくれるというのでその言葉に甘えた。日が完全に落ち切っておらず、空が青く黒い。じめじめ蒸し暑く、あまり居心地がいいとは言えない。


 彼が少し遅れるとのことで私はさきに店へ入り、カウンターに座った。時刻は十九時を過ぎた頃。

 あと五分もかからないと彼から連絡があったので、飲み物は一旦頼まずに、お通しだけをちびちび食べた。何を食べていたかはあまり覚えていない。程なくして、入口のドアが開き、ドアを背に座っていた私の後ろから、『ひかり』と声をかけられた。長らく聞いていなかったが彼の声だとすぐわかった。

 彼は周囲を見渡して少し怪訝そうな顔で近寄ってきたので、隣の椅子をポンポンと二度たたき、ここに座るんだよという意味で訴えた。恐らく、『なんでカウンターなんだ』とか思ったに違いない。


 それから思いの外、話は盛り上がった。久しぶりにあった男女はこんな会話をするのだろうかと不思議に感じた。当時の記憶はすらすら出てくる。ふたりともまるでいまも付き合っているかのような距離感で、げらげら笑いながら話をした。友達だか恋人だかよくわからない。お酒も食事おいしくてどんどん胃の中へ流し込んだ。


 彼は笑うとすぐに、"ザ・おばちゃん"のような身振り手振りになる。でも体の線が細く、肌の白い彼の外見からはおばちゃん感は一切ない。寧ろ若い女性のような見た目をしている。その見た目やしぐさが当時と変わっていないことに、どこか安堵する自分がいた。



 なぜ私からキスを迫ってしまったのか。

 彼は二度揶揄からかい、三度目でキスをしてくれた。

 初めてではないその行為は、懐かしいながらもとても新鮮だった。宙に浮かぶ風船同士が触れ合うような軽やかさで唇を合わしては離れてゆき、また近づき触れ合った。

 

 食事を済ませて彼の家とは反対方向である私の家へ向かって一緒に歩いていく。夜道は危ないからと当時から口酸っぱく言っていたが、十年経った今でも変わらず隣を歩いてくれた。久しぶり触れた彼の腕は細く、女性のように綺麗な手は、ほんのり温かかった。家の前まで到着し、漫画を返す。その時にやってしまった。なんでだろう。



「長いこと借りてしまっててごめんよ」

「いやいや、全然良いで。久しぶりに読みたなっただけやし。今日は久しぶりに会えてよかったし」

「そうよな、まじで楽しかったわ。また誘う」

「うい。宜しく。じゃあまた」

「うん。おやすみ。今日はありがとうね」

「こちらこそ、おやすみぃ」



 彼は私が玄関の戸を閉めて、鍵をしめるまで立ち尽くしていたと思う。

 荷物を部屋に置いてなんとなくもう一度、ドアを開けて外を見ると、既に彼の姿はなく歩いてどこかへ帰って行った。

 月がとても明るくて、静かで、朝刊の配達にスーパーカブを走らせている新聞屋さんのエンジン音だけが、閑静な住宅街に波紋のように響いていた――





 朝日がカーテンの隙間から差し込んで、ちゅんちゅんと鳥のさえずりが聞こえる。

 気が付くとすぐそばのリビングで、母がトースターで食パンを焼いており、芳ばしいパンのにおいと母の声で目が覚めた。

 冷房を付けたまま眠ってしまったせいか、喉が乾燥して少し痛む。

 小さい声で電気代が云々、風邪をひいたら云々と母が何か言っているが、頭がぼぅっとして何も考えられずにいた。



 今日はゆっくり部屋で漫画でも読もうかな。


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損な馬鹿な 阿吽トム @aun_2090

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