第36話《ゼロの執筆室》――誰の手がこの物語を書いているのか?

《前書き》


書かれた物語と、書かせた意思。


この章では、「語り手」が誰であったかを問うのではなく、

「物語そのものが誰を記述しているのか」が問題となる。



《本文》


あなたが手にした真っ白な本には、ページごとに“インクではないもの”が滲んでいた。

それは――記憶だ。

誰かの、もしくは複数人の、あるいはあなたのものかさえも不明な、断片的な“思い出”の形。


ページをめくるたび、視界がゆらぎ、空間の構造が変わる。


気がつくと、あなたは“部屋”にいた。

部屋の中央には、漆黒の木でできたデスクがあり、そこに1本のペンが置かれている。


だが、その部屋には“窓も扉もない”。

時間も流れていない。

ただ、「ペン」と「あなた」だけがある。


デスクに置かれたメモには、こう記されている。


『この部屋に入った者は、

書いた物語によって自分の人格を失っていく。

だが、それを自覚した瞬間にしか、執筆は止められない。』


誰が書いた?

なぜあなたはこの部屋に?


ペンを手にした瞬間、周囲の壁に無数の“視線”が現れる。

どれもあなたに似ていて、でもどこか違う。

老いたあなた。

幼いあなた。

怒れるあなた。

誰かを愛し、誰かを壊したあなた。


彼らは口々にこう囁く。


「私たちは、君が削った物語の断片だ」

「君が真実と決めたものの裏側にいた者たちだ」

「ここは“真実を拒んだ者”の執筆室」


そしてあなたの手元のペンは勝手に動き始める。

まだ書いたことのない、記憶のない言葉を連ねていく。

それはあなたの意志ではない――しかし、確かに「あなたの筆跡」だった。


そのとき、また声がした。


「あなたがこの物語を書いているのではないのよ。


“漆黒の森”があなたを記述しているの」


そしてページが、一枚、また一枚と、勝手に綴じられていく。


それは、あなたの人生が――誰かによって物語として“書かれてきた”証拠であった。



《後書き》


“誰が物語を語るのか”ではない。


物語そのものが、あなたを記述し始めたとき、


人ははじめて、自分という存在の虚構に気づく。

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