一章 帰り者①
一
「かえせ──」
「もどせ──」
「かえせ──、もどせ──」
「もどせ──」
「かえせ──……」
若い夫婦は、樹海と村を隔てる磐境の前に
夫婦はいっそ、神奈備に踏み込みたいはずだった。
しかし磐境は無闇に越えてはならないもの。
だからこそ夫婦は、三日前に幼い吾が子が単眼鳶の太い爪に
初夏の草いきれが、神奈備と村の境に満ちている。陽の光は明るいが、木々は奥へ向かうほど密度を増し、薄暗くなっていく。神奈備の奥から吹く風は、ひやりとしている。
「もどせ──」
「もどせ──」
「かえせ──」
うっかりと、あるいは好奇心で磐境を越えた者たち。あるいは単眼鳶や長手猿にさらわれて、神奈備に消えた子どもたち。おおよそ、神奈備で行方知れずになった者は帰らない。
三百年の昔からこの地にあると伝えられている山茶村でも、神奈備に踏み込み、あるいはさらわれて帰ってきた者は、いない。
一人をのぞいて。
そのたった一人は「帰り者」と呼ばれ、気味悪がられている。帰ってきたのは良いが、あきらかに神奈備に消える前と違っていたのだ。
帰ってこられるのが幸せかはわからないと、村人たちは
けれども大切な者が神奈備に消えれば、残された者たちは、取り戻したいと願う。
「かえせ──」
「もどせ──……」
無駄なことだと心の奥底で知りながらも、
「両人とも、やめよ。三日目じゃ」
夫婦の背後に、神女の老婆がやってきた。足音にふり返った夫婦の目には、懇願し、
「多智女様、どうか。あと一日。いや、せめて明日の朝まで」
早口に夫が訴え、妻も涙目で多智女を見あげる。
「ならぬ。呼び返しは、三日間と定められておる」
険しい表情で、神女たる多智女は首を横にふる。
「これ以上呼べば、神奈備から単眼鳶や長手猿を、呼び寄せかねぬ」
ひとつの村にひとつ、神奈備との境に置かれる、天海大神を
妻は顔を覆い肩をふるわせはじめた。
夫は上唇を
「仕方ない。呼び返しは……もう、できない」
「だったら、あの子は……
夫が励ますように、しかしやや声を落とす。
「望みはある。十十木が、まだ戻ってきてないだろう」
低い声だったが、多智女は聞き逃さなかったらしい。
「十十木? そなたら、帰り者に子を捜してくれと頼んだのか!?」
「いけませんか!?」
妻の肩を抱き寄せ、夫は開き直ったらしく多智女をふり返った。
「呼び返しを続けると、厄介なものを樹海から呼び寄せかねない。村が危ない。だから従います。しかし十十木にうちの子を捜してくれと頼むのは、何が悪いのでしょう」
「あれには、神奈備の何かが
「けれど半年前、
「十十木が最初に連れ戻した綾瀬村の娘は、数日前に再び出奔して行方知れずぞ」
「そんなのは、その娘が家出癖のある娘だからじゃないですか」
「鹿屋村の子どもも、これから無事であるとは言い切れぬ。帰り者に触れてはならぬ」
「でも……っ! それでも!」
涙に
木々の奥から吹く風に乗って、平淡な、落ち着いた声がした。
「だったら、わたしへのお願いを、なかったことにする? もう遅いけれど」
多智女と夫婦の視線が同時に、磐境の向こう、木々の密集する神奈備へと向く。
薄暗い樹間を、こちらに向かってくる
娘ながらに、
彼女は、何かを背負っている。
「……十十木」
恐れるように多智女が
「あなた……っ、背中になにを!?」
「遅いって。もしかして、おまえ、それは……っ!」
夫も立ちあがり、夫婦ともに磐境に手をかけ乗り越えようとした。
「越えちゃ駄目!」
娘の忠告に、夫婦ははっとしたように磐境から手を離す。
「越えたら、そこの神女様があなたたちに罰をくだすはずだもの」
多智女が、憎々しげに娘を睨めつけた。
娘──十十木は、多智女の視線など知らぬげに、背中の者を
「二人とも、悪いね。わたしへのお願いを
十十木の背中に頰をつけ、気持ちよさそうに眠っているのは、三つほどの男の子。
肩越しに視線を投げて十十木は問うたが、夫婦は応じる余裕もないらしい。「伊央! 伊央!」と、子の名を呼び、十十木の背で眠る幼子を抱き取る。
母の腕に抱かれた子は、眠そうにとろりと目を開く。
「かか? とと?」
と、舌足らずな小さな声で
妻は子を抱え、夫は二人を護るかのように妻の背を抱き、草の上に
親子を、十十木は無言で見つめていた。無表情だったが、
しばらくすると彼女は、気負いなくひょいと磐境を越えた。その気配に夫が顔をあげ、目が合う。何か言いたげに夫の口が開きかけるが、眉をつりあげている多智女の形相に気づいたらしく、視線をそらす。
目をそらした夫に、十十木は淡々と告げた。
「あなたたちの願いのとおりに、この子を連れ帰ったよ。だから約束の米だけは、もらえると
「……あ、ああ。約束は……守る」
「十十木! そなた。どうやってその子を見つけた」
鋭い多智女の声が、割り込む。
「広い神奈備で子ども一人、闇雲に捜して見つかるはずがない! 居場所を知っていたとしか思えぬ。この子を単眼鳶にさらわせたのは、よもやそなたか」
多少うんざりしたような色はあるが、十十木は静かに応じる。
「わたしが単眼鳶や長手猿を操れるなら、沢山の子をさらわせて取り戻して、礼をもらって、もっと楽な生活をします。わたしは他の者よりも多少、神奈備のことがわかっている。だから見つけられた。それだけなんです」
「そうだったとしても、そなたは哀しむ者をそそのかして、
責める理屈が一転した。
相手を責めたいから、責める理屈を見つけているような多智女の言葉を、十十木は軽く息を吐いただけで受け止める。
「わたしは、そそのかしていません。この人たちの方から頼みに来たんだから」
忌ま忌ましげに顔をゆがめる多智女とは対照的に、十十木は無表情だ。目鼻立ちが整っているだけにそれが
「どちらが先に声をかけようが、同じこと。哀しみにくれ、なんにでもすがりたくなっている者の弱みにつけいり」
「子を見つけてくれと泣く人を、追い返せますか? この人たちにはちゃんと、見つけられるかもしれないし、見つけられないかもしれないと言いました。見つかったら礼を頂きたいが、見つからなければなにも求めないと、それも伝えて」
「それが人の弱みにつけいる、さもしい所業だ!」
「……うん。まあ、それでいいです。わたしはさもしいです。じゃあ、失礼します」
きびすを返し歩き出した十十木の背に、多智女が叫ぶ。
「さもしいことを続けていれば、おまえはいずれ、神奈備から禍を連れてくるだろう」
歩きながら、十十木は
「ずっと不思議だったんですが。神奈備は、天海大神が鎮まる樹海だから、神奈備と言うんでしょう? 神が鎮まる場所から禍が来るなんて、おかしくないですか? 神女様」
そもそも神奈備とは、神の
国造り神話に、こうある。
天降りたもうた天海大神は、大海に
さらに神に似せて人を作り、髪と
緒島を治めるために、天海大神は
樹海は大地を造りたもうた天海大神が、やすらけくある地であり、人や生き物の魂は、死して後に、魂の親たる天海大神の
「神奈備は、安易にわけいれば神の怒りに触れ、
多智女が口にしたのは、神奈備にまつわる伝説のひとつだ。
神代から脈々と続く天海大神への
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