序章
「かえせ──」
「もどせ──」
「かえせ──、もどせ──」
「もどせ──」
「かえせ──……」
一組の夫婦が、村と神奈備の境をなす石垣の前に
低い石垣は
妻の傍らには、二歳の幼子が座っていた。母の湯巻を小さな手で握り、丸い目で神奈備の奥を見つめている。幼いながらに両親の必死さを理解しているのか、ぐずることなく、おとなしくしていた。初春の風は冷たく、幼子の頰と指先は真っ赤だった。
冬でも、神奈備の木々の葉も下草も枯れない。雪どけ直後の今も樹海の緑は濃い。根元が雪に埋もれても、木の葉は濃い緑。積雪の間からは、緑の草葉の先がのぞく。
神奈備は、そんな奇妙な樹海。
雪がまだらに残る緑濃い樹海へ向け、夫婦は呼びかけ続けている。
夫婦には二人の子があった。
一人は今、母の傍らにいる二歳の男の子、
もう一人は十歳になる女の子、
十十木は三日前に、神奈備に消えてしまった。
おっとり、おとなしい性質の十十木は、可愛らしい顔立ちをしていた。それで目をつけられたのか、村のがき大将がなんにつけても意地悪をする。
三日前も大声で脅され、追いかけられ、十十木は
追ってくるがき大将から逃げて、逃げて、必死だったのだろう。村と神奈備の境をなす、磐境を越えたのだ。
うっかりと、あるいは好奇心で磐境を越えた者たち。あるいは
この村──
がき大将は青くなった。いくらなんでも、そこまで彼女を追い詰めようと思っていなかったのだ。彼は大人たちに知らせたが、十十木は神奈備に消えた。
十十木が消えた日から、両親は磐境の前で呼び返しを続けている。
「もどせ──」
「かえせ──」
「かえせ──」
呼び返しは、神奈備の奥深くに鎮まる
似たような呪いは、人が死んだ直後にも行われる。死した魂は、天海大神の
今呼び返しを続けている両親も、
「かえせ──……」
ふっと、妻の声が途切れた。夫が妻の方を見やると、彼女は千千木を
「どうした。呼び返しを続けないと」
夫に促されると、妻はくぐもった声で応じる。
「三日目よ。呼び返しは、三日間と決められてる。もう、十十木は帰ってこない」
「夕暮れまでには、まだ間がある。
「無理よ、きっと無理……」
夫は
すすり泣く母をきょとんと丸い目で見つめていた千千木が、ふっと何かに気づいたように、磐境の方へ顔を向ける。そして。
「ねーね!」
そう言った。
夫婦は同時に顔をあげた。
磐境の向こう側に、柿色の
夫婦は
「十十木!」
「ああ、ああっ! 十十木、十十木」
夫は身を乗り出して両手を伸ばす。妻は、幼子を落とさないように片腕で抱えながら、必死に娘の名を呼ぶ。
ぼんやりしていた娘は、差し出された手をのろのろと握った。夫は娘を引き寄せ、両腕で脇の下を支えて磐境を越えさせる。
夫が娘を抱きしめた。妻は膝をつき、娘の手をさする。
「十十木、良かった。無事で」
「こんなことが、あるなんて……天海大神様、感謝します。感謝します」
ぼんやりした目で、娘は両親を見やった。
「おじさん、おばさん、だれ?」
夫婦は目を見開き、吾が子を見つめた。
娘は怯えたように両親を交互に見て、繰り返す。
「……だれ? だあれ……?」
困惑し、夫婦は顔を見合わせた。
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