序章

「かえせ──」

「もどせ──」

「かえせ──、もどせ──」

「もどせ──」

「かえせ──……」

 一組の夫婦が、村と神奈備の境をなす石垣の前にひざまずいていた。彼らは三日前から、日が昇って沈むまでの間、目の前に広がる樹海へ向けて呼びかけ続けている。

 低い石垣はいわさかと呼ばれており、無闇に越えてはならない。そこから先は、神の鎮まる地、神奈備だ。

 妻の傍らには、二歳の幼子が座っていた。母の湯巻を小さな手で握り、丸い目で神奈備の奥を見つめている。幼いながらに両親の必死さを理解しているのか、ぐずることなく、おとなしくしていた。初春の風は冷たく、幼子の頰と指先は真っ赤だった。れいな黒いひとみは緑だけを映している。

 冬でも、神奈備の木々の葉も下草も枯れない。雪どけ直後の今も樹海の緑は濃い。根元が雪に埋もれても、木の葉は濃い緑。積雪の間からは、緑の草葉の先がのぞく。

 神奈備は、そんな奇妙な樹海。

 雪がまだらに残る緑濃い樹海へ向け、夫婦は呼びかけ続けている。

 夫婦には二人の子があった。

 一人は今、母の傍らにいる二歳の男の子、

 もう一人は十歳になる女の子、

 十十木は三日前に、神奈備に消えてしまった。

 おっとり、おとなしい性質の十十木は、可愛らしい顔立ちをしていた。それで目をつけられたのか、村のがき大将がなんにつけても意地悪をする。

 三日前も大声で脅され、追いかけられ、十十木はひどおびえたらしい。

 追ってくるがき大将から逃げて、逃げて、必死だったのだろう。村と神奈備の境をなす、磐境を越えたのだ。

 うっかりと、あるいは好奇心で磐境を越えた者たち。あるいはたんがんとびながざるにさらわれて、神奈備に消えた子どもたち。おおよそ、神奈備で行方知れずになった者は帰らない。

 この村──やま鹿こくはくとうぐん山茶つばきむらは、三百年の昔からこの地にあると伝えられているが、神奈備に踏み込み、あるいはさらわれて帰ってきた者は、いない。

 がき大将は青くなった。いくらなんでも、そこまで彼女を追い詰めようと思っていなかったのだ。彼は大人たちに知らせたが、十十木は神奈備に消えた。

 十十木が消えた日から、両親は磐境の前で呼び返しを続けている。

「もどせ──」

「かえせ──」

「かえせ──」

 呼び返しは、神奈備の奥深くに鎮まるあまみのおおかみに、あるいはそのそでちりから生まれた生き物たちに、「かえせ」「もどせ」と訴えるまじないだった。

 似たような呪いは、人が死んだ直後にも行われる。死した魂は、天海大神のもとたる神奈備に吸い寄せられるという。神奈備に飛んでしまった魂を、「かえせ」「もどせ」と呼びかける。しかし死者がよみがえったためしはない。

 今呼び返しを続けている両親も、仕事をしながら呼び返しの声を聞いている村の人々も、内心ではあきらめていた。

「かえせ──……」

 ふっと、妻の声が途切れた。夫が妻の方を見やると、彼女は千千木をひざの上で抱きしめ、小さな肩に顔をうずめていた。

「どうした。呼び返しを続けないと」

 夫に促されると、妻はくぐもった声で応じる。

「三日目よ。呼び返しは、三日間と決められてる。もう、十十木は帰ってこない」

「夕暮れまでには、まだ間がある。しん様も、まだせと言ってこない」

「無理よ、きっと無理……」

 夫はうなれる。

 すすり泣く母をきょとんと丸い目で見つめていた千千木が、ふっと何かに気づいたように、磐境の方へ顔を向ける。そして。

「ねーね!」

 そう言った。

 夫婦は同時に顔をあげた。

 磐境の向こう側に、柿色のそでを身につけた少女が立っていた。なぜか頭からぐっしょりとれており、寒そうに小刻みに震えている。顔はうつろだったが、夫婦がが子を見間違えるはずはなかった。

 夫婦はぼうぜんとしていたが、すぐにはじかれたように磐境に駆け寄る。

「十十木!」

「ああ、ああっ! 十十木、十十木」

 夫は身を乗り出して両手を伸ばす。妻は、幼子を落とさないように片腕で抱えながら、必死に娘の名を呼ぶ。

 ぼんやりしていた娘は、差し出された手をのろのろと握った。夫は娘を引き寄せ、両腕で脇の下を支えて磐境を越えさせる。

 夫が娘を抱きしめた。妻は膝をつき、娘の手をさする。

「十十木、良かった。無事で」

「こんなことが、あるなんて……天海大神様、感謝します。感謝します」

 ぼんやりした目で、娘は両親を見やった。

 うれしさに泣き、娘にすがる両親に向かって、彼女は不可解そうに口にした。

「おじさん、おばさん、だれ?」

 夫婦は目を見開き、吾が子を見つめた。

 娘は怯えたように両親を交互に見て、繰り返す。

「……だれ? だあれ……?」

 困惑し、夫婦は顔を見合わせた。

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