一章 帰り者②

 今から五百年の昔。

 古代の呪法をもって、緒島を一つの国として治めていた緒島国が滅亡した。

 そのとき国主一族の最後の生き残りとなった姫が、国に伝わる呪法の全てを受け継いで、幾人かの、宮に仕えていたつかさびとたちとともに神奈備へと逃亡したという。

 姫の名は櫛といった。

 櫛に従ったのは、一位の位にある司人、はや。さらには従一位のもももも、侍女八人と下人六人。

 容易に追っ手が入り込めない場所であったから、櫛姫は神奈備に踏み込んだ。敵から逃れるとともに、天海大神の霊威をたのみ、国の再興を願ったからだと伝えられる。

 櫛姫は、受け継いだ呪法を駆使して不老不死の身となり、さらに神奈備の中に都を造ったという。都には霊威が満ち、争いもなく、死もない。幸いだけがある。都に住む者は、櫛姫と同様に不老不死となった──。

 櫛姫はいまだに生きている。さらには姫の作った不老不死の都が、神奈備の奥深くには隠されていると。そんな伝説があるのだ。

「神の怒りという理屈は、わかりますが。櫛姫は五百年も前の伝説の人だから、もう死んでます。不老不死の姫や都なんてとぎばなしだって、ととも、かかも言ってました」

 首を傾げた十十木に、多智女はつばを飛ばしながら怒鳴った。

「たわけが! いにしえの緒島国の呪法を侮るでない。そのうちに痛い目にあうぞ」

「じゃあ、少しは気にしておきます。それはそれとして、神女様。思ったより遅くなってしまったから、わたし、もう失礼します」

 納得はしないが、理解はした。そんな表情でひとつ頭をさげると、十十木は多智女に背を向けた。

「帰り者が!」

 背中に向かって吐き捨てられたが、十十木の横顔には、とうされたことへの怒りも、子を連れ帰ったことへのおごりもない。

「千千木、心配してるかな」

 独り言で口にする。千千木という名を口にしたとき、唇にかすかな笑みが浮かぶ。

 そして無意識のように、彼女はひじの内側あたりを両手でさすった。



 七年前。

 三百年続く山茶村で、神奈備に消えて唯一戻ってきたのがこの娘──十十木だった。



 弟の肌は、血の気が薄い。眠っていると、生きているのか心配になる。しかしそでをかけた薄い胸は、今はゆっくり上下している。それを確かめてあんした。

 いたき掘立柱の小屋に戻った十十木は、背負っていたとうかごを土間に置き、板間にあがると、草の汁で汚れたそではかまから、小袖湯巻へと着替えた。

 弟の足もとには、土間の煙抜きから射しこむ夕暮れの光が四角く落ちている。すなぼこりでざらつく板間のそこだけが、清らかな、大切な場所のようだった。

 目を閉じ、浅く息をしている弟の額には、れた布があてがわれていた。傍らにひざをつき、布をとると、かわりに自分の手で額に触れる。

 昨夜までは火のように熱かった額は、人肌らしい温かさに戻っていた。

 まつげが震え、弟が目を開く。

「ごめん。起こした? 千千木」

 ぼんやりとこちらに視線を合わせた弟、千千木は、疲れたような笑みをみせた。

「ううん。うとうとしていただけだから。お帰り、ねぇね。疲れたでしょう」

 三日三晩続いた高熱で、千千木は弱りきっているはず。にもかかわらず、こうして姉を気遣うのが痛々しくさえあった。弟はまだ九つ。子どもらしく、苦しいつらいと泣きながら訴え、八つ当たりしても良い年頃だ。しかし絶対にそんなことはしない。

「ねぇね、怪我しなかった?」

「わたしを誰だと思ってるの? 帰り者よ。ご覧。今日もあてくさが、たくさん採れた」

 冗談めかして言いながら、土間に置いた籐籠を目顔で示す。

 籐籠の中には、丸い肉厚の葉裏が白い草が、三分の二ほど入っている。

 貴草は、神奈備に自生する薬草。熱をさげ、怪我のれを引かせてのうを防ぐ。日常的に最も役に立つ薬草と言われるが、神奈備にしか自生しない。

 危険を承知で薬草を求め、神奈備に踏み込むやくしゆ刈りの連中がいる。彼らは、神奈備からは離れた土地、郡の外からやってくる。遠く都から来る者も多い。

 彼らが神奈備に踏み込むのを、村の者たちは苦々しく見ているが、おかまいなしだ。薬種刈りと村人たちでは、神奈備に対する恐れや尊崇の度合いが違う。

 薬種刈りは大人数で薬草を採りに入り、採りつくし、高値で売る。役立つとわかっていても、薬種刈り以外の者が貴草を採ることはほぼ不可能だった。

 だが十十木は磐境を越え、さらに薬種刈りすら二の足を踏む奥地へ入る。だから貴草も採れるのだ。

「貴草はけいの卵にかえよう。この前、伊央を連れ帰った礼の米が、まだあるから。米のかゆに卵をとかして、塩もひとつまみ入れて。美味おいしそうでしょう」

「うん」と、素直にうなずく弟の胸にかかる小袖を整えながら、自然と笑顔になる。

「さ、もう少しお休み。卵をもらってくるから」

「ねぇね。早く戻ってきてね」

 千千木のひとみには、すがるような色がある。自分を残して、ふいと何処かへ行ってしまわないでね、と。父や、母のように、と。

 安心させるように、千千木の額をでる。

「卵をもらってくるだけだから、すぐ戻るよ。さ、眠って」

 高熱と戦った細い体には、体力がほとんど残っていないのだろう。頷くと、すうっと引き込まれるように目を閉じた。

(とと、かか。二人が生きていてくれてたら)

 弟の寝顔を見つめながら、大らかで優しかった両親を思い返す。

 両親は五年前──十十木がかむから戻った二年後──に、地滑りに巻き込まれて家ごと押しつぶされて亡くなった。

 幸運なことに、あるいは不運なことに、当時十二歳だった十十木と、四歳だった千千木だけが救い出された。

 むらおさのはからいで、姉弟きようだいは村はずれの空き小屋に居を移したが、頼れる者を失った。

 帰り者と呼ばれ、石を投げられるのをかばってくれる人は、いなくなった。

 幼い弟が熱を出しても、薬草を手に入れてくれる人もいなくなった。

 さらに日々食べるために、稼がねばならない。

 十二歳から、は必死に自分と弟を生かしてきた。

 駄賃ほしさに仕事の手伝いをしたくても、村人は十十木を帰り者と気味悪がり、あまり雇ってくれなかった。

 なにしろ十十木は、神奈備で行方知れずになる以前のことを、すっかり忘れていたからだ。幼い頃から親しくしていたらしい村人にも、ひどくよそよそしく振る舞ってしまう。村の習慣も行事もわからないために、常識外れなこともする。

 さらに村人を気味悪がらせたのは、記憶を失った代わりのように、十十木が神奈備のことを、よくわかるようになっていたからだ。

 六年前。十十木は近々、ながざるの群れが村の近くを通るとわかった──から教えられたのだ。

『長手猿が群れで来るよ! 危ないから、みな家に隠れて』

 と、必死に訴えた。

 長手猿の群れは本当に現れた。十十木の忠告のかいもあり、子どもが一人転んで怪我をしたものの、さほど被害もなく群れは通り過ぎた。

 それをきっかけに、さらに気味悪がられ始めた。

「十十木には、神奈備の何かが取りいている」と、村人は噂した。「それが幸いなるものであれば良いが、まがまがしいものでないと、言い切れない」と。

 あのときから神女の多智女は、十十木を目の敵にするようになったのだ。

 両親を失って幼い姉弟が困窮しても、多智女や村人たちの態度は変わらない。

 生きるために十十木は、さらに周りから気味悪がられるとわかっていながら、神奈備に踏み込んだ。

 貴草を採り、米や麦、ひえ、野菜、卵、魚の干物、塩、布など、様々なものと交換した。相場の半分の値段で取り引きするので、村人たちは嫌そうにしながらも、応じてくれる。

 それを続けていると、神奈備へ入る娘がいると噂になって、他村の者が、行方知れずになった者を捜してくれとたずねてきた。二度そんなことがあり、二度とも十十木は行方知れずになった者を見つけ出し、礼をもらった。

 数日前には同じ村の子どもを、神奈備から連れ帰った。

 そうやって十十木は、自分と弟のこうをしのいでいる。

(この子をまもり続けたい。でも)

 の柔らかな頰の線を見るだけで、切なさを覚えた。

 りようそでをめくって、左右の肘の内側を確かめる。皮膚の薄いそこに、青みを帯びた筋が幾つも浮かびあがっている。以前よりも青は濃くなり、数も増えた。白い肌に浮かぶ青い筋は、つる模様の入れ墨にも見える。その青がもつ忌まわしさとそぐわない、華麗さだ。

(わたしは、いつまで生きていられる?)

 ひじの内側を走る青い筋に触れ、奥歯をむ。

(せめて千千木が大人になって、この子は一人で大丈夫だって、安心できるまで生きられたら)

 しばらく弟の寝顔を見つめてから、十十木はそでを元に戻し、胸の痛みをふり払うようにして立ちあがった。

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