第2話 霧の先

「行かないで、マキナ」


──あの声は、今でも耳の奥で揺れている。

それでも、マキナは振り返らなかった。


航海に出て、すでに四日が過ぎていた。


視界は濃い霧に閉ざされ、マキナはただ静かに船を進めていた。

ぎしぎしと軋む音が、船体から絶え間なく響くたび、胸の奥が小さく脈打つ。


彼女の船は、どこから見ても心もとない作りだった。


「味わい深い」と言えば聞こえはいいが、実際には寄せ集めの木材と手製の帆でなんとか浮かんでいる、ちっぽけな手作り船だった。


それでも、今のマキナにとっては──命の次に大切なものだ。


船の後方には、かろうじて方向を操れる簡素な舵と、身体を丸めて横になれるだけの小さな部屋があった。

風と潮に任せる航海でも、最低限の居場所と操作手段だけは、なんとか形にしてあったのだ。


軋むたび、心臓まで揺れるような音が響く。

けれど、信じるしかない。


この船がなければ、マキナはもう、帰ることすらできないのだから。


霧は音さえも飲み込む。


すべてが白と灰色に染まり、空も海もなくなる。

まるでこの濁った世界に、自分の存在だけが取り残されているかのようで──

ときに、自分自身の輪郭さえ曖昧になってくる。


けれど、止まるわけにはいかない。

進まなければ、何も始まらない。


「……何か、見えないかな」


ぽつりと漏らした独り言は、霧に吸われて静かに消えた。

水面には、破片のようなものが光をかすかに反射していたが、

それが何かを確かめる術はなかった。



──そして、五日目の朝。


ふと、遠くに影が浮かんだ気がした。

最初は錯覚かと思った。


けれど、目を凝らして見ると、それは確かに、そこに“あった”。


霧の奥、灰色の幕の向こうで──

何かが、じっとこちらを待っている。


気づけば、胸の鼓動が速くなっていた。

マキナは舵を握り直す。

霧の中へ、影の方向へと、ゆっくりと船を進めた。


やがて霧がわずかに割れ、世界が開きはじめる。


最初に見えたのは、巨大な、黒ずんだ金属の縁。

次に、その奥へと連なる無数の人工物。

霧の向こう、視界いっぱいに広がる巨大な大地が、ゆっくりとその輪郭を現した。


それは、山ではない。

ただの陸地でもない。


時間の奔流に押し潰された、巨大な文明の亡骸だった。


地平線の果てまで続く遺構。

崩れ落ちた塔、ねじれた橋、沈んだ都市。

そのすべてを、蔦と苔が覆っている。

自然に還る途中で、時間だけが止まってしまったかのような、朽ちかけた世界。


故郷の島など比べものにならない。

マキナの船など、ただの木屑にすぎない。

そのスケールの前に、彼女の存在はあまりにも小さかった。


マキナは、ただ立ち尽くす。

現実の手応えが、じわじわと胸を締めつける。

これは夢ではない。目の前の光景は、確かに“在る”。


そして、同時に心のどこかが冷たくなる。

──こんなにも広い世界に、もし誰もいないのだとしたら?


そのとき。


遠くに見える崩れかけた建物の隙間で、ほんのわずかに“何か”が、揺れた気がした。


「……誰か、いるの?」


思わず漏れた声は、風に紛れて消えた。

応えはない。

それでもマキナは、船を止めなかった。


霧の中へ、遺構のさらに奥へと──彼女は進むことを選んだ。

巨大な大地が、その姿を少しずつ現すたび、心臓が高鳴る。

この先に何があるのか、マキナはまだ知らない。


けれど、もう──引き返すことはできなかった。

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