7−5
不意に、そのひとに会いたくなった。もう、会えなくなるかもしれない。そう思ったから。
目を閉じる。それだけでいい。その人を思えば、その人のところに会いに行ける。
篝火、いや、焚き火。
湖畔の小屋。その人は、そこで楽しそうにそれを眺めていた。
「いらっしゃい」
胡麻塩頭の柔和な顔が、にこりと笑った。
その顔をみとめたぐらいで、涙はこみ上げてきた。
エクトル・ビゴー。三十年余の付き合いとなる御仁。
隣に腰掛けた。火の温かさが、心地よかった。闇と、火の明るさ。あるのは、それだけ。
それだけでも、満ち足りていた。満ち足りることを、教えてくれた。
「焚き火、好きなのね。いっつもやってるから」
「火を見るのは、落ち着きますよ。薪の爆ぜる音。この熱とか、光の境目とか」
やはり、微笑んでいた。それが嬉しくも、淋しくあった。
首都近郊から、歩いて二時間ほど。湖畔に佇む小さな小屋。このひと自身が建てた、このひとの
かつてあった、この辺りの小さな貧民街。そこで生まれ育ったと聞いた。今は政治や悪党のおかげで、なくなってしまったとも。
「退役、なさるんですってね」
それは、ダンクルベールから聞いていた。
「うん。決めました。動けるうちにやめるって。ずっと歩き続けてきたから、今度は、立ち止まったり、振り返ったりしてみようって。それにはやっぱり、動けなきゃね」
素敵な言葉。そう思った。歩き続けてきた人が、振り返ること、立ち止まることをやってみる。
それだけ、取りこぼしたものがあったのかもしれない。
「
「ほんとうに皆、そう言ってくれる。恵まれました。幸せもんですよ、あたしは」
「恵んでくださったんですもの。皆に」
空を見上げる。満天の星空。そろそろ、秋に入る。色とりどりの星たちが囁いていた。
メタモーフ事件。それが、運命の出会い。
我が愛しきオーブリー・リュシアンだけでなく、この尊敬すべき人との。
逆算すると、三十代前半か。小柄ながらがっしりとした体つきで、顔つきもしっかりとした、強面の男前という印象。でも声色も口調も、極めて柔和だった。その裏腹さが、今でも鮮明に残っている。
ガンズビュール。滞在したのは、二週間足らずか。それでも誰もが、この小柄な男を覚えた。それだけの鮮烈さはなかった。ただ、何かがあった。すとん、とひと心地つくようなもの。あってうれしいもの。そこにあるのが当たり前なような、そんな存在。
最初は、文鎮に例えた。でもそれとも違う。そんな重々しくはない。文章を綴る紙や、机。そういったもの。前提のような存在。
ガンズビュールで大きな騒動が起きるたび、ダンクルベールと共に、ビゴーも必ず来てくれた。ダンクルベールに会える嬉しさも、ビゴーに会える嬉しさもあった。むしろ接する時間は、ダンクルベールよりも多かったと思う。
そうやって自然と、兄として慕っていた。
「私にとっては、
整理したことを、口に出してみた。
「人とどう触れ合うべきかを、
そう言って、微笑んでみせた。
「うれしいですけれど、買い被りすぎですよ。これしか、やり方を知りませんから」
微笑みが、返ってきた。
いつからか、人を
それは驚きだった。生きるうえで必須だと思っていたから。
どうしてそうなのかを考えた。
考え続けて出た結論は、自分は
生きるために、人を含むあらゆる
それが今、不要になりつつある。その美味の真髄は、愛なのだから。人を
シェラドゥルーガは、生きている。
愛するもののため。そして、愛してくれるもののために。
「でもやっぱり、
「花嫁修行は、長く、じっくりやるもんです」
「あら。ほんとうに
「叱るのは、つらいですから。自分がつらくなっちまう」
ふたりで、笑った。
差し出してくれた。炙ったマシュマロ。息で熱を冷ましながら、頬張った。温かくて、染み渡った。
ウイスキー。レイニーマンの十二年。どこにでもある銘柄。うん、そうそう、これこれ、という味。ストレートでちびりとやってから、湯を足して。ああ、蜂蜜の味。
愛の味がした。これがこのひとの、私への、皆への愛の味。
「あたしぁね、シェラドゥルーガさん。あんたに、謝らなきゃいけないんだよ」
「なぁに?」
「最後まで、あんたをわかってあげられなかった」
少しだけ、寂しそうだった。
「いいの。だって私は、人でなしだもの」
「だからこそ、わかってあげたかった。言ってしまえば、神さまみたいなもんでしょうに。ずうっと、長いこと生きてきて、いろんなつらい思いをして、そうして今になって、恋をして。それが、やっぱり、わからなかったんです。今まで皆を愛してきた人が、どうしてひとりを愛するんだろうって」
「一目惚れなの。あの人が、きっと最初」
「ああ、そういう。神さまだって、心があると、そういうものもあるんだね」
「そうなのよね。私も結局、生き物だから」
生き物だから、神にもなったし、人にもなった。そして、恋に落ちた。恋をしてから、一日がずうっと長くなった。きっと人と同じ感覚で、年月を感じている。
満ち足りている。この人たちのおかげで。
「実はね。あんたがきっと神さまだったころの、おやしろだとか、ほこらだとか、そういうものの跡を、見つけたことがあるんだよ」
ビゴーの言葉に、驚いていた。
「遺ってたの?」
「全部、壊されてたよ。でも、跡は残ってた。あんた、すごく広く祀られてたんだねえ。それこそ島、ひとっつ分」
その言葉に、悲しさはこみ上げてこなかった。嬉しさばかりが、涙として溢れてきた。
焼き滅ぼされたとばかり、跡形もなくなったとばかり、思っていたから。
「恩返しひとっつ、しようと思ってる」
そこら辺に放り投げるようにして、ビゴーが言った。
「塗り潰されたって、言い伝えで遺ってたんなら、ひとつぐらい遺ってるはず。それ見っけたら、あたしの仕事は、全部、終わり」
「どうして、そこまでしてくださるの?」
「あんた、好きだったから」
言いながら、ハンカチーフを差し出してくれた。
「あんたが好いてくれたから。愛とか、そういうものとは、きっと違うのかもしれないけどね。慕うとか、頼るとか、そういうやつ」
それもまた、ひとつの愛のかたち。
いろいろなものを、この人から教わった。今、それがひと段落する。会えなくなるわけではないけれど。そのうち、ほんとうに会えなくなるかもしれないけれど。
まずは、言うべきことを。
「ありがとう」
言おうとする、直前だった。
笑ってしまった。やっぱり、この人には、敵わない。
「先に言わないでよ。私こそ、ありがとう。
頬に、ベーゼを。
そうしてふたり、レイニーマンのお湯割りを。
蜂蜜の味。愛の味。あの頃からずっと、幸せの味。
(つづく)
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