7−6
最終出勤日。今日だけは、はぐれて歩くと決めていた。
妻を半年前、病で
爺ひとり、仮住まいでの暮らしである。
それでも、満ち足りたものを用意してもらった。
警察隊本部。それが、ただいまと言える場所。
食うために巡警になった。
そのうち警察隊のお偉方から声を掛けられ、捜査官として働いてみないかと打診された。給料がよくなる。その程度の、軽い気持ちだった。
やることは変わらない。歩いて、人と会って、話をする。わかってあげる。ただ、それに極度に干渉することだけはなかった。
深入りすれば、そのつらさは、自分のものになってしまう。
それはほんとうに、身を裂かれるほどにつらいものだったから。
「ビゴー
協会のひとつに、訪いを入れていた。威容の司祭、ジスカール。
「先代の頃からの付き合い。いや、俺が
「あんたがこっちに来てからですよ。名前も違っていた」
「モグチャヤ・クーチカ。
しみじみとした声だった。
いつ頃から、それは裏に根付いていた。
どこのものともわからぬ、白い肌の人々。人相は明らかに、どこのものとも違う人々。
その中でも、いくらか体の大きい少年。目が、強いものをたたえていた。
スヴァトスラフ。そしてそれは、いずれ捨てる名だと、少年は強い言葉で綴っていた。
「難民だった。物心付くあたりに、アルケンヤールとヴァルハリアの連合軍に攻められてね。
思わず、へえ、と声を上げていた。
弱きもの。それが手を取り合って、強くあろうとしたもの。それが悪党のはじまり。
その根幹を経験してきたからこそ、この男は生粋の
「あんた、それでも人も国も、恨まなかったよね」
「余裕がなかっただけかもしれませんな。身を立て、人を守ることで、この
レイニーマンの十二年を用意してくれながら、ジスカールは笑っていた。
「あるいは、カスパルさんのようになっていたのかもしれないと思うと、ぞっとしないやね」
その時だけ、悲しそうな笑みだった。
これもまた、ヴァーヌに運命を狂わされたもの。そして名を捨て、ヴァーヌの一部となることを選んだもの。
信仰ではなく、恩義と仁義で身を立てる司祭。
「俺は幸せものです。
「あたしも悪党みたいなもんですから。日陰から産まれて、たまたま、お日さま浴びる機会を得ただけですもの」
「そういう人のお陰で、陽の光をありがたく思う人が増えていく。
「なんだか、大役みたいな言い方だねえ」
「大役ですよ。
「ほんとうに、奇縁も奇縁です。あのこの家の前、歩いただけですからね」
言いながら、思い出し笑いをしていたと思う。
十数年前か。
はぐれて歩いていた時に通りかかった、大きな館の、小さな男の子。不思議そうな顔で、駆け寄ってきた。
確かにな。そう思った。そして、不思議なことを不思議だと思えること。それを尋ねることができる利口な子だとも。
警察だと答えると、そのこの瞳はきらきらと輝いた。かっこいい。やってみたい。おじさんみたいになりたいと。
頭をなでて、頑張りなさいとだけ、励ましてあげた。
そうして三年ほど前、背の高い若者が鼻息を粗くして駆け寄ってきた。どことなく、見覚えがあった。
おやじさん。私、警察になりましたよ。これで私、おやじさんみたいになれます。
ああ、あのこだ。そう思って、思わず嬉しくなった。
何をするにも着いてきた。一緒に仕事をさせてほしいと、何度も頼まれた。それだけを目標に頑張ってきたのだから、どうか、お願いします、と。
しかし、あのガブリエリ家の出身。しかも嫡男である。本来であればペルグラン同様に、ダンクルベールの近くか、あるいはセルヴァンの副官にでもするべき立場である。
どうしたものかと上二役と相談したが、当人の希望通りにさせようという結論になった。
そのいくらか前に、“
向こうは自分のことに気付いていなかったのか。だから、そのままにしていた。この間、ようやくそれを言ってくれて、泣いていた。それもまた、嬉しかった。
はぐれて歩いていたはずが、いつの間にか後ろに人が着いてきた。ガブリエリにルキエ。それだけじゃない。おやじさんの助言のお陰でこの店を開くことができた。おやじさんのおかげで、かみさんできました。そういう声も、何度も聞いた。大したことは言ってないし、やってもいなかったのだが。
それでもどこかで、人を導いていたのだな。そう思うと、気恥ずかしさと嬉しさがこみ上げてきた。それと、寂しさも。
庁舎に戻ってきた時、山ほどの人が出迎えてくれた。ちょっとだけ、驚いていた。
「准尉昇進のときのことを、思い出しましてね」
はじめに語りかけてきたのは、セルヴァンだった。
「私にダンクルベール、総監閣下に内務
そういえば、そんな事もあった。
正直、ずっと一等とかでよかった。伍長以上だと、人を率いる必要がある。教育をしなければならなくなる。それが、いやだった。やりたいことしかやりたくなかったから、昇進はずっと蹴り続けていた。それでも周りのためにだとか、後進のためにだとか、毎回、ひと月近い時間を説得され、それでこちらが折れるかたちで、昇進を飲んできた。
准尉。下士官の最高位。気が引けるどころの話ではなかった。やりたくない。そればっかりだった。士官学校出身でないから。有望な若い者を差し置いて。管理仕事は苦手なので。そうやって、のらりくらりと躱し続けた。
最終的に、偉い人間全員に囲まれた。内務
希望はただひとつ。
職務内容は、今まで通りであること。
「はぐれものですから。人を率いるとかは、やりたくなかっただけですよ」
つとめて穏やかに返した。
セルヴァンは背筋を伸ばし、敬礼を掲げてくれた。
「お疲れ様でした。何を言おうか考えましたが、それしか思いつきませんでした。ほんとうに、感謝ばかりです」
「局長閣下にそう言っていただけたなら、冥利です」
そう言って、敬礼を返した。所作は、適当。どう頑張ったって、この見目麗しいひとのそれには敵わないから。
「寂しくなりますな、先輩」
ダンクルベール。これの入隊当時から、そう呼ばれていた。
破天荒なコンスタンとともにいた、褐色の大男。いつも居心地が悪そうに縮こまっていた。
話を聞くと、コンスタン家の奉公人だったそうで、貧しい生まれの自分がこんなところにいていいものかと、思い悩んでいた。
中尉ぐらいになるまで、コンスタンからダンクルベールを借りることにした。そうやって歩き方を覚えさせ、独り立ちさせた。
飛び抜けたものを持っていることは、すぐに気付いた。
だからそれを伸ばせるよう、ビゴーは補佐につとめた。コンスタンにも、ダンクルベールの才覚については都度、話をした。何か、とんでもないものを秘めている。それをどう引き出すかも、試行錯誤を重ねた。
そうして、メタモーフ、ガンズビュールと結果を出していった。
ウトマンが異動してきてからは、役割を任せた。そうしてまたひとり、はぐれて歩ける。寂しさの反面、清々しくもあった。
「皆、そう言ってくれる。ありがたい限りです」
「俺も、手本とする人間がいなくなる。頼るべき人が、ひとり減る。心細いです」
手を、握ってくれた。大きなひとの、大きな手。分厚く、柔らかかった。
「あんたは孤高の人だった。でもそれに皆、ついてきた。だから皆、頼れる人ですよ。あたしなんかより、ずっとね」
警察隊本部は、今やダンクルベールだ。だからもう、自分がいようがいまいが、それは揺るがない。
だから大丈夫。この人がいさえすれば、すべてはそれでいい。
「おやじさんは、仕事はやめるけど、歩くことはやめませんよね?」
童顔の青年。ペルグラン。あの、ニコラ・ペルグランのお血筋。そしてそれをやめてしまった男。ただひとりの、若い俊英。
「そうだね。そればっかりは生き甲斐ですから」
「なら、そんなに寂しくないかな。どこかで会えるんですから。寂しくなったら、俺も外を歩きます」
「そうだね。ペルグランさんは、前向きでいいやね」
敬礼。涙は、なかった。寂しさすら。
また会えるんなら、それでいい。その通り。このこらしい、前向きな考え方だ。
「旧くよりの友、
朗々と。
「葉の紅くなりゆくなか、郷里へと下る。船の帆も、空に消える影となりゆき。我は
恰幅のいい偉丈夫。瞼を閉じながら、詩を
そうしたあと、こちらに向き直り、一礼した。
「
「はは。これはいいものを貰った。あたしゃあ学がないものですから、これから勉強していきますよ」
郷里はすぐ近く。だからまた、会える。その上でこの詩を選んだのだろう。粋な御仁である。
「物申す」
不意に、廊下から大声が飛んできた。聞き覚えのある声。
入ってきたのは大翁。驚きが強かった。
「不肖、ブロスキ男爵マレンツィオめが、国民の声を代表して物申す」
そう言って、マレンツィオは強引に、ビゴーの手をひっつかむようにして。
「お疲れ様でした」
満面の、笑みだった。周りも、笑っていた。
「先輩。まずは何より、お体にお気をつけあれ。そして、歩きたいところに歩かれよ。この島に限らず、ヴァルハリア、ユィズランド、エルトゥールルでも大平原でも。この
「はは。ありがたいやなあ。あんたはいつだって大仰なんだから。楽しくっていいねえ」
「人の生たるは、面白く生きねば、面白くはなりますまい」
そう言って、呵々大笑した。
メタモーフ事件の後だろうか。どこかの支部次長を捜査一課課長に据えるという話が出て、現れたのがこの男である。
何しろ名前が立派だった。南東ヴァーヌの大貴族。もと王家たるガブリエリ家の分家、尚武のマレンツィオ家である。それでいて容貌魁偉、豪放磊落と、悪党の親玉のほうがよほどお似合いな人物がやってきたものだと、大騒ぎになったほどだった。
そして仕事の仕方も独特だった。とにかく名前を使わせる。名刺を持たせる。最初は、部下の手柄を横取りする、いやなやつだと思ったものだ。
そいつはお守りだ。どうにもならない時。しくじった時。そいつを出せ。そうすれば俺が責任を取れる。そのためにも、やったことは逐次、記録を残せ。お前は俺だ。そして、俺はお前だ。お前こそが、マレンツィオ・ブロスキだ。
ほんとうに、悪党の親玉のようだった。ついぞ名刺を取り出す機会はなかったものの、これがあることは、いつだって心の拠り所になっていた。
天下御免。その名前ひとつで仕事ができる男。そういう人だった。
「なにより先輩は、我が愛息レオナルド・オリヴィエーロの夢になって下さったお方です。あれに世間の広さを教えてくださった。あれに
「そういや、そうでしたね。いい男ひとり、育てさせてもらいました。あたしこそ、礼を申し上げるべきですよ、閣下」
笑ってばっかり。だからこちらも、笑うしかやることがなかった。ほんとうに愉快痛快な御仁である。
デッサンが一枚、額縁入りの絵を持ってきた。
水彩画。
「おやじさんが好きだって言ってた場所です」
瓶底眼鏡が、にっこりと。
「天気が悪くて見に行けない時でも、眺めて下さい」
「ありがとう。フェリエさんも、いい心意気だよね」
嬉しかった。それこそずっと、眺めていたいぐらいに。
絵を描くことしかできないと、いつも言っていた。でも、絵をかけるからこそ、こういう事ができる。人の心に寄り添うことが。
これもひとつの、わかってあげるかたち。
「おいらさ。おやじさん、大好きだった。そればっかりだな」
それは、いつの間にか隣りにいた。驚きはない。おや、と思うぐらいである。
「そうかいね。あんたもようやく、気ままに生きれる。あたしもそればっかりだよ」
「そういうところ。ほんとうに、わかってくれるって、こんなに嬉しいんだって、教えてくれた。あんがと」
そうして、瞬きひとつ。
闇から解き放たれた、一匹の
「最果ての地。氷河の
どん、と、胸を叩く音。
「実りを祝おう。出会いを祝おう。別れを
腹の底から響き渡る深い声とともに、何かが注がれた
「さあ同朋よ、杯を干そう」
オーベリソン。笑顔で、ぐいと。
「郷里で作っている
「こりゃまあ、粋だねえ」
こちらも、笑顔で。
「戦士の
作法に習い、とん、と胸を叩いてみせた。
異郷の
「捧げ、
ダンクルベールに促され、連れて行かれた練兵場。ざっ、と音が重なる。銃剣付きの小銃。おお、と声を漏らすほど、整然と。
見やる。ご存知、“
号令を掛けていたのは、満面の笑みのゴフだった。
「色々、考えたけどさ。格好つくのはこれしかなかったよ、おやじさん。勘弁してくれ」
「ありがとう。ああ、こいつはいいものをもらった」
「あとさ、ここだけの話だけどよ」
そう言って、ゴフは肩を組んで、小声で。
「ここにいる連中。今日、おやじさんと話すと泣いちゃうかもってやつらなんだ。だからさ。格好つけさせるためにも、声は掛けないでやってくれよ」
言われて、もう一度見渡した。
皆、顔を真っ直ぐに上げてはいるものの、震えているもの、瞑目しているもの、涙を流しているものなど。それでも皆、気丈に振る舞っていた。
「あんたはほんとうに、喧嘩上手の気遣い上手だね」
心底に、嬉しかった。
格好を付けさせるため、直れを出す前に、背を向けた。
「あたしゃあ、ここまで慕われてたんですね」
案内をしてくれていたダンクルベールに、思わずで言ってしまっていた。ダンクルベールは何も言わず、微笑んでいた。
ありがたい限りだ。こうやって、去れることが。
庁舎の入口。青年の影、ひとつ。
「これは、年寄りの繰り言なんですがね」
敬礼を捧げながら、ぼろぼろと涙を流すガブリエリに、並んで。
「道に迷ったら、周りの人に尋ねなさい」
顔を合わせることは、しなかった。
「そうやって、やり直すたびに上手になるもんです。あたしもいつだって、そうだった。そうやってもう一度、歩き方を覚えていく。人と話すこともね」
「はい、准尉殿」
「あたしゃあ、幸せものです。こんな孝行息子ひとり、こさえることができましたもの」
本心だった。
どこへ行くにも着いてきてくれた。何を言っても、聞いてくれた。こんな爺の下らない繰り言だって、金言だと言って、腹に収めてくれた。
ほんとうは、もっといい仕事ができるはず。もっと上に登れたはず。それを蹴ってまで、やりたいと言ったことを、やり続けた。そして、これからも。
「准尉殿」
その声は、震えていなかった。
「行ってらっしゃいませ」
「行ってきます、ガブリエリさん」
そうして、そこを後にした。
これからは、はじめての出来事ばっかり。何の心配もないけど、一歩ずつ、一歩ずつ、生きていけばいいかね。
でもまあ、どうしたもんかね。あたしゃ、もう、道に迷ったみたいだよ。でもまあほんとう、これの繰り返しだったよね。散々、やったはずなんだけどねえ。
さてと、何からはじめようか。
(7.ひとり、去るとき:おわり)
―――――
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