7−4

 油脂の缶を湯煎したものを引き上げ、蓋を開ける。湯気。木綿の布に染み込ませ、少しずつ、表面に塗り拡げる。むらにならないようにだけ、気をつけながら。

 愛用の長合羽ちょうがっぱ。油の入れ直しである。

 四六時中、外で着ているものだから、油の減りは他の人たちのそれより早い。この長合羽ちょうがっぱでは、二度目になる。入れてから、大体三日ぐらいからが、頃合いになる。

 油を入れ直した油合羽あぶらがっぱの質感。好きだった。生地はくったりしつつ、油の照り返しの独特な感じ。培った皺が、一層浮き出る、あの感じ。


 これを羽織る切欠。ビゴーの退役。


 覚悟していた。

 いずれ来る日。それが来た。ただ、それだけである。

 それまでに育ち切る。それが、弟子としての、子としての使命だと、ガブリエリは自身に課してきた。


 卒業試験をひとつ、課されていた。

 そのために、自身を清め、引き締めたい。頃合いもちょうどよかったので、油の入れ直しをした。


 油が馴染んだあたり。羽織ってみる。緑というより、黒。闇に溶ける色。闇に対峙するための装束。


「老兵死なず、ただ消え去るのみ、か」

 マレンツィオは、物寂しそうに呟いた。ビゴー退役について、報告をしに伺った。

「六十五だっけか。たしかに、頃合いだよな」

「ええ。定年退役としては、適齢です」

「あの人には、俺もだいぶんに世話になった。挨拶に行かないとな。俺もそうだし、可愛いレオナルドの夢になってくれたんだから」

 葉巻を咥えながら、しみじみとした表情だった。


「レオナルドよう。今、楽しいか?」

「おかげさまで。毎日、心が踊っています」

「なら冥利だ。お前の道に絨毯をひいた甲斐があったよ」

 言われた言葉に、座礼ひとつ、返した。


 ほんとうに、何から何まで世話になった。ビゴーにも、マレンツィオにも。そして、ほかの人たちにも。

 恩返しをしなければならない。目いっぱいのものを。



 二日ほどして、それは路地に姿を表した。


「探していたんだろう。お兄さん」

 ざらついた、女の声。


 歩いてくる。一歩ずつ、一歩ずつ。

 黒い影。白目と、首元のスカーフだけが白い。黒山羊の悪魔のような輪郭。


 公安局、エージェント・ミラージェ。


「ビゴー准尉殿から、役目を引き継ぐ」

「そうかい。親父と同じように、できるのかい?」

 顔も眼も、体すらも合わせず、並ぶ。かつて師が、そうしてきたように。


「やり方を変える。それでなら、できる」

「私は、変えたくないね」

「変えてみせるさ。ノエル・ビゴー」


 目が、こちらを見ているような気がした。


「あんた、ビゴー准尉殿の、娘だろう?」


 向いた。ミラージェは、顔を逸らしていた。


「無粋だね、お兄さん。そういうやつだったのかい」

「私は、エージェント・ミラージェではなく、ノエル・ビゴーとならやりあえる。公安局の諜報員ではなく、ビゴー准尉殿が、かつて愛した人との娘ならな」

 つとめて平静に、そう言った。


 独自の密偵を作っていた。それが拾ってきた情報である。それでも、それが唯一のものだった。


「これが、私の貸しだ。借りは、あんたの口から聞きたい。私は、あんたの名前までにしかたどり着けなかった」


 ミラージェ。フェルト帽を脱いだ。剃り上げた、輪郭のはっきりとした頭。


「親父と母親に愛があったのかまでは、知らないよ」

 口調は変わらないが、顔には悲しみが浮き出ていた。


「幼い頃、母親とふたり、死にかけた。親父のお陰で私だけは助かった。母親は死んだけど、それでも助けてくれようとした。だからこれが、私の親父に対する、ふたり分の借りだ」

 なぜ、そうなったかは、言わなかった。聞く気もなかった。きっと、答えないだろうから。


「母親も私も、借りを返せなかった。だから私は、捜査官である親父の駒になった。親父から捜査を学び、公安に入った。公安の情報を担保に、親父に借りを返すために」


 これで、貸し借りなし。

 そう言って、その女は帽子を被り直した。ノエル・ビゴーから、エージェント・ミラージェに。


「ノエル・ビゴー。それは、貸し借りじゃあない」

 思ったことを、思ったままに。


父娘おやこの愛。絆。そして、恩だよ」


 ガブリエリの言葉に、表情はそのまま、ミラージェは眉間に皺を寄せ、瞼を閉じた。

 苦悶、なのだろうか。


「お兄さんはやっぱり、私と貸し借りはできないよ。お兄さんのやり方でやりな。お兄さんのやり方なら、私は必要ないはずだ」

 そう言って、ミラージェは歩きはじめた。一歩ずつ、一歩ずつ。



「どっかの誰かから、言伝を貰っていた」


 消える間際に、ガブリエリはあえて、声を上げた。


「モニクを助けてやれなかった。あんたを母親のいない子どもにしてしまった。これがふたり分の、借り。だからこれで、貸し借りなし」


 振り向きはしなかった。それでも、震えているものを感じた。


 しばらくして、影は戻ってきた。

 白い瞳から、ひとすじ、流した跡を残して。


「お兄さん。紙巻、あるかい?」

 頷く。


 渡して、火を点けてやった。

 輪郭が一瞬だけ、人のものになったような気がした。



「これで、ノエル・ビゴーも終われる。私はようやく、エージェント・ミラージェだけをやれる」



 ガブリエリも紙巻を咥えた。紫煙が、何かを紛らわせてくれると信じて。


父娘おやこには、ならないのか?」

「やめとく。親父も私も、借りを負って生きてきた。それからようやく解放される。それでしか、やってこれなかったから、これからやるとしても、それでしかやれない。お互い、疲れるだけさ」


 父娘おやこにならないという選択。

 ビゴーも、それを望んでいた。同じようなことも言っていた。ガブリエリはそれだけ、どうしてかわからなかった。


 あえて、何があったのかも聞かなかった。

 ふたりの因果の根幹。ひとりの、死んだ女の存在。


 父娘おやこにならないとしても、あの人は名を与え、あえてスペルを間違えた。

 まやかしミラージュではなくミラージェであると言って。


「それと、これも」

 ひとつ、封筒。ミラージェは何も言わず、それを受け取った。

「おいおい、高かったろう?これ」

 中身をあらためたミラージェが、声を上げた。口調は変わらないが、驚きの色が強く出ていた。

「私のお節介だから、返さなくていい」

「馬鹿なこと言うんじゃないよ。これ以上、何が欲しいってんだ?」

「いらないよ」

 やはり目は合わせず、それでもかぶりを振ってみせた。

「そうかい。それじゃあ、ありがたく」

 呆れた色も含まれつつ、言葉通り、感謝の色も乗っていた。


「宰相閣下の女好きも、困ったもんだね」

 ミラージェは、あえてそれを、言ったようだった。


 宰相閣下が、政変を企んでいる。

 自身を首長とした、共和制国家の樹立。そのための、王家エンヴィザック家の排除。貴族名族の権力の無力化。

 そのために、ボドリエール夫人という象徴を用いる。

 凶悪殺人犯である一方で、登場から三十年以上が経過した今でも、巷を賑わせる、文化の創造者であり、破壊者。現代のあらゆる価値観の基礎を作った巨人である。これをにしき御旗みはたとし、国民を扇動する目論見のようだ。

 絵空事もいいところである。それならば、マレンツィオを神輿みこしとした国民議会の推し進める、“緩やかな革命”で十分に実現可能なものだ。マレンツィオも神輿みこしである自覚があるので、土壌が整い次第、次代を担うに相応しい人物にそれを託すことも、考えているはずだ。

 あくまで、国の中心に自分を据えたいのだろう。浅はかな考えだった。


「おすそ分け、ね。それがお兄さんのやり方かい?」

「そうだな。あんたの言う通り、私には貸し借りはできないからね」

「お優しいこって」

 笑ったようだった。


 貸し借りはできない。でも、おすそ分けならできる。

 手に入れたもののうち、司法警察局では扱いきれないものや、公安局からのアプローチのほうが効果的であるもの。そういったものを、渡してやることなら。

 これならミラージェも肩肘を張らず、気楽にやり取りができるはずだ。



「そういや子ども、いつ頃なんだい?」

 ふと。


「春の前あたりかな?どうやら逆子らしい。今から治るかどうか、すったもんだしているよ」

「ちゃんと支えてやるんだよ。ひとり目はどうしても神経が逆立つからね。まして逆子だと、ひりついてるだろう?祖父ちゃん祖母ちゃん、いるのかい?」

「おじさんとおばさんが、着いてくれている」

「そうか、それなら大丈夫かな。直前に治ることもあるからね」

「優しいんだな、あんたも」

「まあね」

 影が、離れた。


「私もふたり目は、逆子だった」


 振り向く。影は、なかった。



「母親だったんだね」


 エージェント・ミラージェ。白い瞳のけもの。

 まやかしミラージュではなくノエルとして、生きている。


(つづく)

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