7−4
油脂の缶を湯煎したものを引き上げ、蓋を開ける。湯気。木綿の布に染み込ませ、少しずつ、表面に塗り拡げる。むらにならないようにだけ、気をつけながら。
愛用の
四六時中、外で着ているものだから、油の減りは他の人たちのそれより早い。この
油を入れ直した
これを羽織る切欠。ビゴーの退役。
覚悟していた。
いずれ来る日。それが来た。ただ、それだけである。
それまでに育ち切る。それが、弟子としての、子としての使命だと、ガブリエリは自身に課してきた。
卒業試験をひとつ、課されていた。
そのために、自身を清め、引き締めたい。頃合いもちょうどよかったので、油の入れ直しをした。
油が馴染んだあたり。羽織ってみる。緑というより、黒。闇に溶ける色。闇に対峙するための装束。
「老兵死なず、ただ消え去るのみ、か」
マレンツィオは、物寂しそうに呟いた。ビゴー退役について、報告をしに伺った。
「六十五だっけか。たしかに、頃合いだよな」
「ええ。定年退役としては、適齢です」
「あの人には、俺もだいぶんに世話になった。挨拶に行かないとな。俺もそうだし、可愛いレオナルドの夢になってくれたんだから」
葉巻を咥えながら、しみじみとした表情だった。
「レオナルドよう。今、楽しいか?」
「おかげさまで。毎日、心が踊っています」
「なら冥利だ。お前の道に絨毯をひいた甲斐があったよ」
言われた言葉に、座礼ひとつ、返した。
ほんとうに、何から何まで世話になった。ビゴーにも、マレンツィオにも。そして、ほかの人たちにも。
恩返しをしなければならない。目いっぱいのものを。
二日ほどして、それは路地に姿を表した。
「探していたんだろう。お兄さん」
ざらついた、女の声。
歩いてくる。一歩ずつ、一歩ずつ。
黒い影。白目と、首元のスカーフだけが白い。黒山羊の悪魔のような輪郭。
公安局、エージェント・ミラージェ。
「ビゴー准尉殿から、役目を引き継ぐ」
「そうかい。親父と同じように、できるのかい?」
顔も眼も、体すらも合わせず、並ぶ。かつて師が、そうしてきたように。
「やり方を変える。それでなら、できる」
「私は、変えたくないね」
「変えてみせるさ。ノエル・ビゴー」
目が、こちらを見ているような気がした。
「あんた、ビゴー准尉殿の、娘だろう?」
向いた。ミラージェは、顔を逸らしていた。
「無粋だね、お兄さん。そういうやつだったのかい」
「私は、エージェント・ミラージェではなく、ノエル・ビゴーとならやりあえる。公安局の諜報員ではなく、ビゴー准尉殿が、かつて愛した人との娘ならな」
つとめて平静に、そう言った。
独自の密偵を作っていた。それが拾ってきた情報である。それでも、それが唯一のものだった。
「これが、私の貸しだ。借りは、あんたの口から聞きたい。私は、あんたの名前までにしかたどり着けなかった」
ミラージェ。フェルト帽を脱いだ。剃り上げた、輪郭のはっきりとした頭。
「親父と母親に愛があったのかまでは、知らないよ」
口調は変わらないが、顔には悲しみが浮き出ていた。
「幼い頃、母親とふたり、死にかけた。親父のお陰で私だけは助かった。母親は死んだけど、それでも助けてくれようとした。だからこれが、私の親父に対する、ふたり分の借りだ」
なぜ、そうなったかは、言わなかった。聞く気もなかった。きっと、答えないだろうから。
「母親も私も、借りを返せなかった。だから私は、捜査官である親父の駒になった。親父から捜査を学び、公安に入った。公安の情報を担保に、親父に借りを返すために」
これで、貸し借りなし。
そう言って、その女は帽子を被り直した。ノエル・ビゴーから、エージェント・ミラージェに。
「ノエル・ビゴー。それは、貸し借りじゃあない」
思ったことを、思ったままに。
「
ガブリエリの言葉に、表情はそのまま、ミラージェは眉間に皺を寄せ、瞼を閉じた。
苦悶、なのだろうか。
「お兄さんはやっぱり、私と貸し借りはできないよ。お兄さんのやり方でやりな。お兄さんのやり方なら、私は必要ないはずだ」
そう言って、ミラージェは歩きはじめた。一歩ずつ、一歩ずつ。
「どっかの誰かから、言伝を貰っていた」
消える間際に、ガブリエリはあえて、声を上げた。
「モニクを助けてやれなかった。あんたを母親のいない子どもにしてしまった。これがふたり分の、借り。だからこれで、貸し借りなし」
振り向きはしなかった。それでも、震えているものを感じた。
しばらくして、影は戻ってきた。
白い瞳から、ひとすじ、流した跡を残して。
「お兄さん。紙巻、あるかい?」
頷く。
渡して、火を点けてやった。
輪郭が一瞬だけ、人のものになったような気がした。
「これで、ノエル・ビゴーも終われる。私はようやく、エージェント・ミラージェだけをやれる」
ガブリエリも紙巻を咥えた。紫煙が、何かを紛らわせてくれると信じて。
「
「やめとく。親父も私も、借りを負って生きてきた。それからようやく解放される。それでしか、やってこれなかったから、これからやるとしても、それでしかやれない。お互い、疲れるだけさ」
ビゴーも、それを望んでいた。同じようなことも言っていた。ガブリエリはそれだけ、どうしてかわからなかった。
あえて、何があったのかも聞かなかった。
ふたりの因果の根幹。ひとりの、死んだ女の存在。
「それと、これも」
ひとつ、封筒。ミラージェは何も言わず、それを受け取った。
「おいおい、高かったろう?これ」
中身をあらためたミラージェが、声を上げた。口調は変わらないが、驚きの色が強く出ていた。
「私のお節介だから、返さなくていい」
「馬鹿なこと言うんじゃないよ。これ以上、何が欲しいってんだ?」
「いらないよ」
やはり目は合わせず、それでも
「そうかい。それじゃあ、ありがたく」
呆れた色も含まれつつ、言葉通り、感謝の色も乗っていた。
「宰相閣下の女好きも、困ったもんだね」
ミラージェは、あえてそれを、言ったようだった。
宰相閣下が、政変を企んでいる。
自身を首長とした、共和制国家の樹立。そのための、王家エンヴィザック家の排除。貴族名族の権力の無力化。
そのために、ボドリエール夫人という象徴を用いる。
凶悪殺人犯である一方で、登場から三十年以上が経過した今でも、巷を賑わせる、文化の創造者であり、破壊者。現代のあらゆる価値観の基礎を作った巨人である。これを
絵空事もいいところである。それならば、マレンツィオを
あくまで、国の中心に自分を据えたいのだろう。浅はかな考えだった。
「おすそ分け、ね。それがお兄さんのやり方かい?」
「そうだな。あんたの言う通り、私には貸し借りはできないからね」
「お優しいこって」
笑ったようだった。
貸し借りはできない。でも、おすそ分けならできる。
手に入れたもののうち、司法警察局では扱いきれないものや、公安局からのアプローチのほうが効果的であるもの。そういったものを、渡してやることなら。
これならミラージェも肩肘を張らず、気楽にやり取りができるはずだ。
「そういや子ども、いつ頃なんだい?」
ふと。
「春の前あたりかな?どうやら逆子らしい。今から治るかどうか、すったもんだしているよ」
「ちゃんと支えてやるんだよ。ひとり目はどうしても神経が逆立つからね。まして逆子だと、ひりついてるだろう?祖父ちゃん祖母ちゃん、いるのかい?」
「おじさんとおばさんが、着いてくれている」
「そうか、それなら大丈夫かな。直前に治ることもあるからね」
「優しいんだな、あんたも」
「まあね」
影が、離れた。
「私もふたり目は、逆子だった」
振り向く。影は、なかった。
「母親だったんだね」
エージェント・ミラージェ。白い瞳のけもの。
(つづく)
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