7−3

 カウンター越し。人と酒。それがようやく、自分の日常になっていた。


 女郎酒場を経て、今の店をいただいた。

 自身の力量に丁度いい広さと席数、客層だから、新しい生命いのちを宿した今でも、インパチエンスは店に出ることにしていた。いくらか腹が膨れはじめたが、動いていたほうが、気が楽になる。

 生命いのちを宿した女というものは、きっと、そういうつくりなのだろう。体を休めろ、無理をするなと言われて、その通りにしたとしても、むしろ気を張ってしまい、愛するペルグランに、わけもなく怒鳴り散らかしたり、何があるわけでもなく悲しくなったりすることがある。

 だから動けるうちは、そうしておきたかった。

 カンパニュールとコロニラという、自分を慕って付いてきてくれたふたりもいる。だからほんとうに、顔を出すだけ。カウンターのお客さんと、いくつか会話をする。それだけでも、ひとつの仕事になる。欲している落ち着きが、やってきてくれる。


 生命いのちを宿した以上、それをかたちにし、乳離れが終わるぐらいまでは、酒も煙草も口にはできない。そこは、あまり気にはならなかった。

 インパチエンス自身、両方とも嗜む程度、というぐらいにしていた。恋の真似事をし、夢をひさぐのが生業だったので、酔いはそれを鈍らせてしまうというのが、染み付いてしまっているのかもしれない。


 あの時は、酔うならひとりと決めていた。何も考えたくない時に、強い酒で、すべてを紛らわせてきた。今はもう、必要のないことである。

 あの頃と銘柄は同じだが、飲み方だけは変えた。温かなものが身近に増えた今でも、甘さではなく、鋭さに浸りたい時があるから。


 ファリガシーの十年。

 乾いた風の中の、潮の味。波が、切り立った心を削っていく。

 温かさでは拭いきれないものを、捨て去るために。


 酒の飲み方、ひとそれぞれである。


 ペルグランは、上司たるダンクルベールが結構な酒豪であり、それと長くいるのもあるだろう。童顔ながら上手に飲める。度を越すまで飲むようなことは見たことがない。

 同期で親友のガブリエリも同じく、上手に飲む。やはり名家ともなれば、酒の飲み方ぐらいは教わるのだろうか。


 大酒飲みは数多かれど、一番は、やはりジスカールの親分か。

 とにかくウォッカ。長くゆっくりと、それでもひと瓶からふた瓶は空けてしまう。少し多めの銭を置いて、来たときと同じ顔と声、足取りで帰っていく。前の店でも見た光景だが、見る度、やはりぎょっとする。

 かの高名なボドリエール夫人も相当だそうだが、店で飲むなら物珍しいものがいいからと、カクテルを頼むことが多い。ワイン通として知られているものの、銘柄や年などといった知識云々より、食事との組み合わせマリアージュやもてなし方の方に重きを置いているそうだ。ペルグランが好んで飲んでいる、プレフェリト・デ・ペスカトリを紹介したのも、彼女だという。


 楽しいのは、やはりムッシュ・ラポワントか。

 背が高く恰幅のいい、気持ちのいい御仁。朗々とした美声で、おそらく即興の詩とかをそらんじたり、南東の伝統舞踊で使うような、ギターの曲を弾いたりしてくれる。

 あの地はつらい思い出ばかりだったが、“ふたつの川”などを奏でてくれると、それでもやはり自分の郷里なのだと、思わせてくれた。


 アンリの父、オーベリソン。この人も、楽しい。

 父親を紹介したいと言われて会ったときは、腰を抜かしそうになった。ダンクルベールの巨躯より大きく、分厚い。深い彫りの奥に光る、ぎろりとした目。長い髭を三つ編みにした、北の巨人。

 でも、朗らかで剽軽なお父さんだった。

 酒はエールか蜂蜜酒ミード。すぐに真っ赤になる。話題は子どもの話ばかり。自分の子ども三人と、アンリのこと。産まれてくる我が子のことを考えると、楽しさばかりが膨らんでくる。

 たまに子どもも連れてきてくれる。末っ子長男のビョルンは、背伸びして蜂蜜酒ミードを飲み、そしてすぐ、へべれけになる。顔のあどけなさもあって、んこくて仕方なかった。


 そしてアンリ。何よりも、アンリ。

 薄めたシードルなどでもすぐに眠る。その寝顔のだらしなさがたまらない。毅然とした聖女の、無防備な姿。それが見たくて、ついつい酌を過ごしてしまう。

 眠るまでは、感情豊か。酒が入っていない時もそうだが、機嫌がいい時は、その向こう傷を触らせてくれるか、触ってくるようにねだってくる。くすぐったくて、それでも温かいものがあって、好きだと言っていた。


 アンリとオーベリソンが一度、見知らぬ男を連れてきた事もあった。

 クレマンソーという、左利きの男。落ち着いた、柔和な印象。アンリたちと同郷で、養蜂をやっているようだ。


 アンリさまに向こう傷を付けたものです。

 そう言われて、心底驚いた。とてもそうは思えなかったから。そして三人とも、ほんとうに仲がよかったから。


 ゴフとデッサン。

 前の店でも、ゴフはいい意味で評判が悪かった。何しろ聞き上手が過ぎるのである。

 女を抱く店ながら、話だけをして、抱かずに多めに金を置いて帰る。あまりの心意気から女たちが自信をなくしてしまったので、何とか触るぐらいはしてやってくれないかと頼んだのだが、結局変わらず。自分と出会う前は、ペルグランもよく連れ回されたらしいが、あれがあの人なりの女遊びなのだという。

 “赤いインパチエンス亭”になってからは、ただの酒の店になったので、気兼ねなく話ができるようになった。やはり酒を過ごすことなく聞きに徹し、朗らかな顔で、ためにもならない助言をするだけ。それだけでも皆、気が楽になる。吐き出すべきものを吐き出させてくれる。入力と理解の人間。喧嘩上手の、気遣い上手である。


 デッサンは、その自分勝手さが面白い。

 とにかく喋っては絵を描いて、そしてげらげら笑って。出力と表現の人間。ほんとうに、ゴフとは正反対である。たまに酒を過ごすのもあり、ゴフと一緒に来ると安心して放っておける。普段はデッサンも聞き上手とは聞くが、本性はこっちなのだろう。


 ブロスキ男爵夫妻。酒が入ろうが入らまいが、面白く、そして心優しい。

 マレンツィオの気前のよさ。そして悪口上手。決して不快ではなく、ちゃんと笑い話にしているのがすごい。口さがないが、悪党の親分のような人柄である。声も体も身振り手振りも大きいが、何かにぶつかったりだとか、ものを壊したりだとかはしないのが、余計に不思議だった。

 シャルロットも、いつも以上にのんびりと、というよりか、ふやける。お婆ちゃんになる。それがほんとうにんこい。


 意外だったのはセルヴァンだろうか。

 子ども舌。北方ヴァーヌ系の白ワインなど、軽くて甘めの酒が好き。ワインであればタンニンの渋みや重み、ビールであればホップの苦みが不得意。甘いカクテルを作って出したところ、目を爛々らんらんと輝かせていた。

 飲み方は鷹揚な聞き上戸。話たがりなコロニラとは相性抜群で、おじさんと姪っ子そのままの、愉快なやりとりになる。

 たまに家庭菜園ポタジェで作った野菜や香草を持ってきてくれたりするので、絶世の美中年というよりは、気さくなおじさまという印象のほうが強くなりつつある。


 母と定めたジョゼフィーヌは、いくらか注意が必要。

 配分が上手でないため、面倒を見ながら進めていく必要がある。人に迷惑はかけないものの、それでも情緒が不安定になる。

 自分が出奔しかけた後、しばらくこちらにいてくれたことがある。その際に、店員ふたりに名を授けてくれた。

 淡い紫のカンパニュールと、明るい黄のコロニラ。そしてふたりとも、インパチエンスと同じく、娘と定めたいとも。

 ふたり、泣いて喜んでいた。素敵な名前だと。お母さんと呼べる人ができたと。


 家名なきジョゼフィーヌ。そのほんとうの意味も、教えてくれたこともあった。

 このひともまた、名もなき人だったのだと、ふたり、抱き合って泣いた。


 今日の夕方に訪れたのは、常連のひとりである。この人は特段に嗜むのが上手だった。


 アルシェという、寝ぼけ眼の仏頂面。


 目が、何も語ってこない。冷たく、酷薄な印象を受けたが、話しかけてみると普通の人だった。

 奥さまのサラねえは、自分のちょうど、十ぐらい上。朗らかで綺麗なひと。サラねえは酒が入ると、声が一段、若くなる。


 あの人ね。何も考えてないのよ。そこが可愛いの。


 言われて、ああ、なるほど。そう思った。

 インパチエンスも、先入観を持たれる側の人間だから、よくわかる。自分はそれを利用してきた。強い女を、演じてきた。

 だからきっと、ダンクルベールは自分のことを、赤いインパチエンスと名付けたのかもしれない。


 アルシェは、それをしていなかった。

 無頓着なのだろう。何も考えていないと、サラねえが言っていたのだから。


 座るのは、カウンターの端。一番奥か、一番手前。

 いつも同じ酒。ウイスキー、ストレートを指一本で。その一杯を、ぼんやりと、店全体をひとつの風景としているようにして、その寝ぼけ眼で見つめながら、だいたい四十分くらい。酒肴はなし。それで、終わり。代金を置いて、ひと声かけて、帰っていく。

 来るのはいつも、少し早めだった。引っ掛けてから帰る、というやつである。


 グレロッホの十年。

 穏やかな汽水域。湖ではなく、潮風を感じはすれど、土の甘さがある。

 その甘さが、インパチエンスには合わなかった。


 何も考えない人が、グレロッホの十年から、何を見出すのだろうか。


「勉強中、ってところかな」

 聞いてみたところ、やはりぼんやりと返ってきた。


の頃、奉公先のご主人さんが好きな酒でね。これ、色んな味、するじゃん?最初は、粘土とヨードとしか思えなかったけど、海水とか、チョコレートとか。柑橘類、香辛料もあったり」

「ほんざんすね。あたくしには、ちょっと甘すぎあんして」

「おかみさんのやつも、いいよね。塩っぱくて、さっぱりしてる」

 紫煙をくゆらせながら、アルシェが口角だけで微笑んだ。


「ただ、俺には向かなかったかな。荒磯。足、滑らせそうでさ。波がぶち当たる音とかも感じて、おっかない。これから入ったってのもあるけど、こいつはぼんやりできるんだ。同じように見えて、日によって違う感じ。つまりまだ、よくわかってない。だから好きなのかもね」

 寝ぼけ眼が微笑んだ。


 絵とか、風景を見るような例えだった。

 そして、自分がファリガシーの十年に求めていたものも、見抜いていた。


 このひとは、ほんとうに何も考えていないのだ。

 何も考えずに、グレロッホの十年と店の情景を、ぼんやりと眺めている。それを素直に楽しんでいる。だからファリガシーでは、こわく感じるのだろう。

 酒というか、酒との付き合い方、あるいは人生そのものが上手なひと。驚きと感心が広がっていた。


「おかわり、いいかい?」

 ふと、そんなことを言った。いつもなら、ここでお勘定である。


「あらま、珍しがんすね。勿論、よござんす」

「うん。人を待っていてね」

 別のグラスに指一本を注ぎ直したものを、渡してやった。


 そうして少しもしないうちに来たのは、胡麻塩頭の、小柄な老人であった。

 これもよく来る顔、ビゴーである。


 何も言わず、アルシェの隣りに座った。酒も、いつもと同じウイスキー。


 レイニーマンの十二年。

 ブレンデッド。昔ながらの、蜂蜜の味。

 甘く穏やかなものが、落ち着きを招き入れる。


「あんたとは、ちゃんと話をしておきたかった」

 お互い、目を合わせず。

「俺も、そうでした」

「嫌いなやり方だった」

「でしょうね」

「でも、自分でも、いやなんでしょう?」

「ええ。必要だから、やっています。他の人に、こんなことは任せられません」

「それはほんとうに、偉いと思う」

 そこでようやく、ビゴーがちらとだけ、アルシェを見た。ただそれだけで、また視線は正面に戻った。


 ビゴーとは、女郎酒場時代から、何度か顔も合わせていた。

 人となりについては理解していたから、その口から、嫌い、という言葉が出ることが、珍しく思えた。


 わかってあげる力を持つ人が、わかりあえない人。

 それが、アルシェという男。


「俺も、おやじさんのやり方をやりたかったなあ」

「それはうれしいやね」

「でもガブリエリがいるから、それでいい」

「あいつはね。もっともっと、伸びますよ」

「わかりました。伸ばします」

「お願いします」

 そこまでで、アルシェは紙巻を灰皿に押し付けた。


「さみしいなあ」

 ため息ひとつ。ほんとうの、声だった。


 この老人が退役するということも、ペルグランから聞いていた。


「そう思ってくれるだけ、うれしいや」

「おやじさんは、いつも真ん中にいた感じでした。いつもどっか、歩いてるけど、いつも一緒にいる感じ」

「あんたは時々、素敵な言葉を使うよね。詩的というか、素直な、ことばということば」

「思いついたまんまですよ。それが一番、気楽ですから」

 視線を合わせず、そうしてしかし、ふたりとも、穏やかに笑っていた。


「故郷とか、帰るんですか?」

「この近くだよ」

「じゃあ、会えますね」

「うん」

「じゃあ、こことか、町の中とか、そのへんの店とかで」

「そうしましょう」

 そのあたりで、ふたりとも、グラスが空になった。


 じゃあ、これで。たったそれだけで、ビゴーは席を立った。


 カンパニュールとコロニラとの三人で、きょとんとしてしまっていた。

 これがおそらく、別れの盃とか、そういうもののはずだろう。こんなに何もなく終わるものなのだろうか。


「ねぼすけさま。あれで、ようごぜあんしたか?」

「うん。あれで十分」

 少しだけ、気だるげに。あるいは寂しそうに。


「はじめて、ちゃんと話した。でも、いつも通りってかんじ」


 寝ぼけ眼のそのひとは、そう言って席を立っていった。


(つづく)

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