3−9
正面に、
「どうした?」
「ん」
こちらを見て、ちょっと顎を上げながら、両手を広げた。
抱きしめろ、ということか。この間ので、味をしめたかな。
表情をよく見た。美しい女の顔。目がどことなく、厚ぼったい。
なるほど。面倒な女だ。ダンクルベールは思い切りよくため息を漏らした。
「シェラドゥルーガ、あのな」
「やだ」
ぼんやりとした目のまま、子供みたいに首を振った。
周りを見渡す。さっきまでいた、人のぽつぽつがいない。廊下も、長すぎる。
そこまでして、か。
「わかったよ」
近づいて、お互いの頬に軽いベーゼを交わしてから、腕を回しあった。
温かかった。ちゃんと、生き物の体温と、鼓動を感じた。
ようやく落ち着いたんだろう。それで、寂しさが戻ってきたのだ。自分もそうだったから、気持ちはわかった。
「ロリオたち、死んだよ。首を括ってた」
一番にそれに気付いて、それを見つけたのは、アルシェだった。
ロリオが一日だけ、休んだ。
それまでは、前まで通り、人より早めに出勤して、前まで通り、にこにこして業務に取り組んでいた。
周囲も、こないだ母親が亡くなったんだから、疲れがきたんだろう、そういう事はある、と言って、気にしなかった。明日にはまた来るさ、と。
だがアルシェだけは、別だった。
真っ青な顔のまま、外で騎馬訓練をしている“
ダンクルベールもすぐに追いかけた。馬車だと遅い。だから部下の手を借りて、久しぶりに馬に跨った。
しばらく駆けていると、道の奥から、聞いたこともないくらい、とんでもない怒号が聞こえた。
馬鹿野郎、と。ひと言だけ。
あれの家の前には、泡を吹いた馬がぶっ倒れていて、玄関は開け放たれていた。ゴフとオーベリソンが先にいて、中に入るか逡巡しているところだったので、手を借りて、馬から降りた。三人一緒に、恐る恐る中に入っていった。
片付けられていたが、どこか生活感がなかった。
寝室に、アルシェの背中が見えた。その、より奥で、ぶら下がっていた、ふたつのなにかと一緒に。
アルシェ大尉のあんな顔、はじめて見ましたよ。ゴフは神妙な面持ちでこぼしていた。それ以上は言いたくない、とも。
ダンクルベールは呆然としていて、それを見ていなかった。そのうちに振り返って、紙巻を咥えたアルシェの顔は、普段通りの仏頂面だった。
子どもの頃の、こわい思い出。そして、心を見る力を育てた現在。それでも、至って普通の人間。今回の件で一番つらかったのは、あるいはアルシェだったのかもしれない。
「アルシェの言った通りになったな。馬鹿な話だ。あいつも俺たちも、最初っから全部、間違えていたんだ。ほんとうに、誰も幸せにはなれなかった」
「鯨たちの見る夢だもの。だから後には、何も残らない」
不思議な言葉。
不意に、あのときの恐ろしいものが蘇った。まだ虚空が、
「シェラドゥルーガ?」
一度、引き離し、顔をよく見る。目は腫れているが、いつものシェラドゥルーガの顔だった。
「大丈夫。ただなんとなく、思いついただけ」
「そうか。それ、アンリエットにも言ったのか?」
「そうだっけか?」
「鯨は死んだら、世界になる。教えてもらったって」
昨日の退勤時、玄関で座り込んでたアンリと話した。不意にそんなことを言い出したのが、引っかかっていた。
「あのこが言うなら、そうなんだろうね」
もう一度、抱き寄せる。お互い、柔らかい力で。
「いいなあ。お前は温かい。私は、温かいところに、ずっといたい」
「俺もだ。暗くて寒いのは、もうごめんだ」
しばらく、そうやって抱き合っていた。それだけでも、心地よかった。
「飲むか?」
「どうだろう?なんだか、よくわからないんだ」
「じゃあ、しばらく。お互いひとりきりで、向き合おう」
「そうだね。自分自身の、折り合いがつくまで」
「その頃には、温かくなっているといいな」
「そうだといいね。我が愛しき人」
そうやって、離れた。そうやって、その日は過ぎた。
寝る前に、日誌を書くのは忘れていない。最初の頃だけは、ちゃんとしたアイデアを綴って、次の日の糧になるように心がけていたが、いつの日からか、書けるのは雑多なことばかりで、読み返すこともなくなった。
それでも、続けている。惰性のようなものだった。
ふと、思いついたことを書き並べた。読み返すと、詩のようなものになっていた。
我ながら柄にもないことをしていた。それでも、なんとなく消す気にもなれず、そのままにして寝台に潜り込んだ。そうやって、目を閉じた。
読み返すことのない日誌を、書き続けていた。これからも、それは続くのだろう。
これは鯨たちの夢。いつか終わる、ただそれだけの、夢。
(3.鯨たちの夢:おわり)
―――――
Reference & Keyword
・剣客商売 / 池波正太郎
・ドラえもんのうた / 大杉久美子
・銀河英雄伝説 / 田中芳樹
・鯨骨生物群集
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