3−8

―――――

呼ぶ声が、響きとして伝わる

内側から眺める、水面のゆらめき

大きなものが、揺蕩たゆたうようにして

雲のように、それは過ぎていった


あれは確か、鯨と呼ばれるもの

あのひとの瞳の中にも

それは住んでいるのだろうか

あの海の、どこか深くに

―――――


 目が覚めた。しばらく、眠っていたようだった。

 医務室に寝かされていた。身は一度、清めていたが、あらためて清めたうえで、厚手の病衣に変えてくれたようだった。

 燃え広がるような、あかく波打っていた美しい髪は、ぺたんとしぼんでいた。それほどまで、体力を持っていかれたのだろう。

 そばにペルグランが控えていて、目覚めたことに気が付くと、いくらか体調を心配するようなことを言ってくれて、温かいものを用意してくれた。

 口にすると、よく飲んでいる味がした。

 顔を見ると、してやったり、といった顔で笑っていた。どうやらあの時の味を見破られてしまったようだ。思わずこちらも笑ってしまった。


 煮沸してから少し冷ました湯に、蜂蜜をほんの少しだけ溶かし込んだもの。寒くなるとよく飲む。心の底から、じんわりと温かくなる。


 あまり上品なものではないから、自分だけの楽しみというか、秘密のようなものだった。あの日は横着をしてしまい、同じものを出してしまったのだった。


 少しして、食事も運ばれてきた。兵隊用のものですみませんが、と詫びられたが、思った以上に美味そうだった。

 黒いものがちょっと多くて、噛み応えのあるパンは、赤茄子トマトとか根菜とかを煮込んだスープに浸すと、香りも甘みもちょうどよくなった。真っ白いパンを好む人も多いが、黒いものがいくらか入っているほうが栄養価が高いし、雑味があって味が豊かになる。舌が肥えてくると、むしろ小麦の質が気になってしまうので、いくらか黒いのを混ぜたほうが楽しんで食事ができる。

 どれでもそうだが、上品で、突き詰めたものよりも、素朴で、どこにでもあるようなものの方が嬉しかったりする。

 そのスープも味わってみると、いろんな種類の内臓肉をしっかり処理したものがいっぱい入っていて、滋味に富んでいて、見た目より優しい。

 本部庁舎名物のスープらしい。確かに、根菜も赤茄子トマトも、家畜のはらわただって安く買える。大人数の男どもに食べさせるにはちょうどいい。はらわたは処理に気を使うが、それさえこなせば結構美味いし、腸詰なんかに使えるので、応用が効く。

 チーズは新しいもので、個性はないが、どれと合わせても相手をうまく引き立てる。豚肉のリエットはバジルが効いていて、パンがいくらあっても足りないぐらいだ。物足りないのはワインぐらいか。糧食用のテーブルワインだろうから、そこにいちいちをつけるのも不作法だろう。


「それ、牛蒡ごぼうとかいうやつです。木の根っこみたいな野菜」

 きっと顔に出ていたのだろう。ペルグランが、声を出してきた。

「こっちだと、婆羅門参ばらもんじんとかが近いのかな。瑞薬ずいやくとしては、干したものを煎じたり、粉にするみたいですが、夷波唐府いはとうぶでは普段から、煮て食べるんですって。おくまさんが市場で見つけて、滋養強壮に効果ありっていうんで、今回だけ仕入れたみたいです。俺は結構好きですが、人によってはほんとうに、木の根っこにしか思えないみたいで」

「ペルグラン君」

 それの中にいた違和感。ペルグランの言葉を、あえて遮ってみた。


 目を見る。向こうは、緊張が膨れてきている。


「私もこれ、好き」

 微笑んでみせた。安心したのか、向こうも笑った。


 土っぽい何かがいた。

 しなびた、木の根のようなもの。じんわりと優しい味がした。雑多に放り込まれた具材の一番後ろで、それを淡い色で取りまとめている。

 牛蒡ごぼうか。いいことを教わった。

 美味しくって、具を食べ終わった後の汁を、匙で飲むのが面倒になって、器ごと煽って空にした。行儀は悪いが、出されたものを全部食べるのは、感謝の示し方としては一番手っ取り早い。

 ひととおりを腹の中に仕舞い込むと、ペルグランがおかわりは、と聞いてきたので、感謝を述べてから断った。向こうもこちらの健啖家ぶりをよく知っているので、念のため確認したのだろう。


 少しすると、また蜂蜜を溶かした湯を持ってきてくれた。ふたりで、ゆっくりと温まる。

 そういえば、これの母親にも教えたような気がする。確認したところ、確かにその通りだった。子どもの頃に、よく飲んでいたのを思い出したそうだ。

「お疲れ様でした、夫人」

「そうだね。でも、なんとか終わった」

「ご迷惑をおかけしました。いち兵士の、家庭の事情を」

「いいんだ。これはね。どうしても、難しいことだから」

 頭を下げようとするペルグランを、目で制した。

「ご母堂ぼどうは、お元気かい?」

「はい。実は、やってはいけないことをしてしまって」

 ペルグランが、おずおずと、小声になっていった。

「母に、伝えてしまいました。夫人が生きておられると」

「ほう?機密情報漏洩だ。大目玉だぞ」

「そうですね。でも、泣いて喜んでました。あの人は罪を犯したけれど、作品には罪はないから、私たちで守っていく。そう伝えて欲しいと、承ってます」

「そうか。やっぱり、あのこたちだったか」

 ボドリエール著作保護基金。

 自分が世間的に死んだ後でも、パトリシア・ドゥ・ボドリエールの著作は、市場に流通し続けている。

 ガンズビュールのあの屋敷で、色々と交流を重ねた人々の中には、僅かながらも、今でも自分を慕ってくれている人がいた。そういう人たちが資金を出し合って、途切れないように、版権や原稿、活版の金型なんかを守ってくれているらしい。七面倒くさい各言語の翻訳権なんかも管理してくれているそうだ。

 ペルグランの母親は、熱烈なのひとりだった。今頃はきっと、その中心にいるのだろう。

 書くものを用意してもらい、伝えたかったことと、ボドリエール夫人のサインを走らせて、ペルグランに渡した。

「ここに綴った通りになるが、どうか、ご母堂ぼどうにお伝えあれ。これからも、ありがとう。星になったら、また皆で、自作の詩のお披露目会をやりましょう。我が親愛なる友人、黒髪くろかみのジョゼフィーヌ。そして心から、もう一度、ありがとう。そして、愛している」

「承りました。ありがとうございます」

 にこやかに、敬礼をしてくれた。顔つきもしっかりとしてきた。いい男になっているじゃないか。それでもちょっとだけ、寂しくなった。


 はじめて会ったとき、懐かしさがあった。

 きっと、あのこの子どもかもしれない。心が弾んでいた。名を聞いて、飛び上がりそうになったのを懸命にこらえていた。それぐらい、顔つきも仕草も、そっくりだった。からかったときの反応だって、まったく同じといっていいぐらい。

 可愛いジョゼ。いつだって熱っぽく語ってくれた。格好だって真似してくれた。

 だからペルグラン家に嫁ぐとなって、嬉しさの反面、悲しさもあった。

 ペルグラン家とは、ニコラ・ペルグランの名を繋ぐためだけの家。あの頃から、そう言われていたから。

 それでも、こんなに可愛らしく、立派な男を育てた。それだけを己に課して嫁いでいった。それがもうじき、叶う。それも同期の女の子でも、可愛いアンリでもなく、遊女上がりの姉さん女房。ジョゼのことだ。舞い上がるだろうなあ。そういうの、大好きだったから。

 でも、生意気な女なんだろうな。新婚さんを邪魔するのも悪いし、たまに会うぐらいにしておこう。嫁いびりも、やってみたいものだしね。


 心より、おめでとう。我が愛しきジョゼフィーヌ。そして、私たちの可愛いジャン=ジャック・ニコラ。


 明日の朝、迎えに来るらしい。今日は、すまないがここで一泊して欲しいとのことだった。簡素な医務室だったが、掛け布団はふかふかだった。それは、何よりも嬉しいことだ。

 どこでも眠ることはできるが、ふかふかで、温かい寝床ほどありがたいことはない。眠る時ぐらい、温かいものに包まれていたい。

 凍えながら眠るのは、やっぱりつらい。


 二十時。常駐の憲兵諸君はともかくとして、自分にとっては、まだ眠るのには早い時間だ。厠所トイレにいくという理由で可能な限りの散策をしてみよう。見回りの憲兵や、居残りで仕事をしているものも幾らかいるが、気配は消せる。

 警察隊本部は中隊程度と聞いていたが、いろんな庁舎から出入りしているのも多いのだろう、祝日なのに、人が多く感じた。

 玄関に、誰かが座っていた。雪は降っていないが、結構寒い。そんな中、ぼうっと座って空を眺めていた。

 夜空を眺めて、星と語り合う娘がいることは、ダンクルベールから聞いていた。

 まだペルグランが残っていたようなので、何か肩に掛けれるようなものをふたつ、それと温かい飲み物もふたつ頼んだ。手際よく、用意してくれた。柔らかい色をした羊毛の肌掛けを二枚、肩に回す。トレーに乗せたホットチョコレートをこぼさないよう注意して、外に出た。

 冬の星は綺麗だった。確かに、話しかけたくなるほどに。


「まだ痛むかい?アンリ」

 星と語り合うアンリの隣に腰掛け、ホットチョコレートを手渡した。にこやかに受け取ってくれた。

「大丈夫。お二方ともに、手心をいただきましたので」

 よかった、と答え、トレーを置いて、その小さな体に、もうひとつの肌掛けを回してやった。やはり寒かったのだろう。それぞれの暖かさに、その可愛らしい白い頬が、僅かにふやけたように見えた。


 アンリと話すのは、はじめてではない。

 そういう娘が中央に来たと聞いた時、脅かしに行った。心を暴き、信仰の嘘をつついても、震えながらも、凛とした目で、何も言わずに見つめ返してきた。


 それで、気に入った。


 基本的には、文通だった。

 語彙ごいつたないが、丸っこくて可愛らしい字だった。それを、便箋いっぱいに詰め込んできた。今までのこと。趣味のこと。気になること。何より、いかに自分が熱心なボドリエール・ファンであることを。


 愛くるしかった。


 だからアンリとの文通に使うものだけは、気合を入れて揃えた。封筒も便箋も、上質で、彼女の使うものより、ちょっとだけ年上のお姉さんな選び方をして。送るときには必ず、お気に入りの香水をひとたらし。インクもいろんな銘柄のものを調合して、今の自分のシンボルカラーとしていたあかがほんのり滲むぐらいの、深い闇の色。

 文末のサインは、その都度変える。世間話にはボドリエール夫人。生き死にや信仰の話にはシェラドゥルーガを。

 たまに贈り物もする。香水、化粧品、髪飾り、それと、ちょっとした小物なんかを。

 服を贈ったことも、何度かある。休みぐらいはおしゃれをしてお出かけしなさいな、と。遊ぶことも、信仰を確かめるにはいい寄り道だよ、と。

 全部、送り返された。それも、とんでもない量の便箋が詰め込まれた封筒と一緒に。

 まずはご厚意と、この可愛らしい贈り物について、心から感謝を申し上げます。けれども、私は神さまと御使みつかいさま、そして星になりかけている人たちに、この生涯を捧げると決めましたので、これ以外を着ることを自分に許してはおりません。ですので、ほんとうに申し訳ありませんが云々と、感謝と謝罪と服の感想が延々と繰り返された内容である。

 その、送り返されたものたちに、何度か袖を通してくれているのは、すぐにわかった。きっと舞い上がって袖を通して、ひと通りの小物と合わせてみたり、化粧をしてみたりしてから姿見の前に立っているのだろう。あるいは、一度二度、くるっと回ってみたりして。匂いを嗅ぐと、贈った香水や、化粧品、そしてアンリの香りが残っている。

 それだけで、ワインを何本か空にした。今でも大切にとっておいている、お気に入りのご馳走である。


「夫人。我が無礼を、お許しください」

 ふと俯いて、アンリが詫びを漏らした。

「いいさ。私こそ、詫びるべきことは多い。お互い、やるべきことに必死だった。そういうことにしよう」

「そうですね。ご厚意を、感謝いたします」

「立派だったよ。あれこそが、皆が祈りを捧げる、向こう傷の聖女、サントアンリの姿だったのだね」


 いつからか、人々はこの娘を、聖人と呼んでいた。

 戦火、硝煙、陰謀、悪意。その中で、血と汗と泥と、そして己の涙にまみれながらかけずり回った。敵も味方もない。目の前で人が死ぬのが、何より恐ろしいと。お星さまになんかさせたくないと、自分だけの戦いを続けた、ただひとりのアンリエット・チオリエ。

 人々はその姿に救いを求め、祈るために両手を組んだ。お救いください。お助けください、サントアンリさま。


 だが、彼女はそれすらも望まなかった。

 祈るための両手があるなら、傷にあてがえ。聖句を唱えるな。愛する人の名を叫んで、生きるために抗え。汚くたっていい。逃げ出したっていい。ただ生きて。死なないでくれ。

 救いの聖人である彼女は同時に、怒りの聖人でもあった。

 包帯がなくなれば、自分が着ているものを引き裂いて、煮沸した湯に両手ごと突っ込んで清めた。食べる力を失ったものには、どんな醜男しこおだろうと、よく噛んだめしを口移しで流し込んだ。ものを徴発しようとした軍人にすら食ってかかり、そして、この向こう傷をもらうことになった。


 我が前に立ちはだかったのは、確かに聖人だった。御使みつかいたるミュザより炎の冠を賜った、燃え盛る怒りだった。救いの聖人。恐ろしき、怒りの聖人。そして、ただひとりのアンリエット・チオリエ。

 あの時、この小さな体で両手を広げ、脂汗を流しながら、震える声で立ちはだかったその姿の後ろに、大勢の人の姿が見えたような気がした。


 課せられたもののため、我は聖なるものとして、恐ろしきなんじの前に立ちはだかる。れっせられしものとして、そしてただひとりのアンリエット・チオリエとして、生命せいめいを脅かすなんじに対し、立ち向かう。たとえこの身が朽ち果てようと、炎となって立ちはだかり続けるであろう。

 そのために、この傷と名を、負ったのだから。


 あれはまさに聖句だ。新しい信仰の誕生だった。生命いのちを賛美し、信愛し、しかしそれを投げ出すことだけは絶対に否定する。強い、強い人の心の力。人々の、生命いのちの力。

 久しぶりに竦み上がった。本気でやらなければ、この温かい光に焼かれる。そこまで追い詰められていた。


 そんな恐ろしき、聖なるアンリエットは今、温かい器を両手で包み込みながら、ぼんやりと空を眺めていた。

「かっこよかったよ、アンリ」

「やったあ」

 寒空と、温かいものにふやかされ、可憐な顔がにこりと笑った。それが何よりも、心を温めてくれた。

 しばらくそうして、星を眺めていた。


「アンリは、鯨を知っているかい?」

 不意に、尋ねてみたくなった。


「ええと、あの。魚のすごい、大きいような生き物の。あの鯨のことでしょうか?」

「そう。それだ。あの、でっかいやつ」

 星空を眺めているうちに、それを思い出していた。

 アンリにならきっと、受け止めて貰えると思った。だから、尋ねた。


「人は死んだら、星になる。じゃあ、鯨が死んだら、何になると思う?」

 その言葉に、アンリは、ぽかんと口を開けていた。


「わからないです。想像したことも、なかった」


 きっと、そうだろう。

 信仰とは、人の生き死にに理由をつけるために生まれたもの。人でないものの生き死にに理由をつけるものは、おそらくは少ない。あったとしても、人のために生き、人の暮らしのために死ぬ。その程度のもの。それぞれの死の先が、どういうかたちになっているかまでは、考えてはいないだろうから。

 そしてそれを、否定するつもりも、馬鹿にするつもりもない。

 ただ一度、それを見たことがある。それだけの話だった。


「鯨は死んだら、世界になるんだよ」


 懐かしさと共に、言葉が出てきた。


 大昔のこと。今、共に暮らしている人々が産まれるよりも、ずっと前のこと。

 眺めた海面に、鯨の骸が浮かんでいた。そしてその巨大な塊を、海鳥とか鮫とかがついばんでいるのが見えた。

 生き物が死ぬと、それを別の生き物が食べる。大きな生き物の死体を、小さな生き物たちが、小さな生き物の死体を、より小さな。そうやってどんどん、目に見えないほど小さな生き物たちにまで、その流れは繋がっていく。それは既に、知識としては知っていた。

 それでも、わからなかった。あれほどの大きな生き物が食い尽くされるまで、どれほどの時間を要するのだろう。漠然とした疑問だった。あるいは自分なら、どれぐらいの時間であれを消費できるのだろうか。

 時間がある時に、眺めに言った。ついばまれた肉の奥から、骨とかはらわたとかが見えはじめて、それでも、浮いていた。

 いつだったか、それが忽然と消えていた。

 食い尽くされたのだろうか。それでも、以前に見たときはまだ、山ほどに肉の塊があったはず。もしくは、沈んだのだろうか。

 気になって、海に潜ってみた。

 深い海。見つからない。青い色が黒い色に変わっても。もっと、もっと深いところ。そのいちばん奥の、暗闇の奥底。真っ白な、砂の平原があった。


 それはそこに、横たわっていた。


 すごい景色だった。神秘的、いや、宗教的体験と言ってもいい。あの巨大な体のうちにあった巨大な骨を天球として、その中に、山ほどの数の、山ほどの種類の生き物たちが暮らしていた。

 沢山の貝。光り輝く海月。虫のようなものたち。よくわからない、蚯蚓みみずのようなもの。土筆つくしとか、そういうかたちの、それでも確かに生きている何か。

 魚や烏賊いかとかは、たまに来て、そこにいる生き物をいくらか食べて、そして、通り過ぎていくだけだった。

 ひとつの世界だった。鯨は死んだら、世界になる。生き物たちは、その中で食べ物を探し、営みをして、増えては減って。でも、外に出ようとしない。

 その天球の外から、眺め続けていた。飽きもせず、眠りもせず。それぐらい、綺麗だった。

 だがそのうちに、生き物たちがいなくなっていった。食い尽くされて、滅びるもの。居場所がなくなって、追いやられるもの。興味がなくなって、出ていくもの。


 残ったのは、やせ細った骨だけだった。それもそのうち、ゆっくりと崩れて、水の流れの中で、どんどんと、砂の一粒になっていった。そうやって最後には、何もなくなった。

 それがそうなるまで、ずっと、眺めていた。


「鯨は死んだら、世界になる。そこに沢山の生命いのちが育まれ、旅立っていき、そして丸ごと消えていく。そして思った。それは人も、同じなんじゃないかって」

「星ではなく、世界になるのですか?」

「うん。その中で思い出が生まれ、物語が生まれ、そして、忘れ去られていく。それがほんとうの、人の、そしてすべての生命いのちの死のかたちなんじゃないかな。私はあれを見て、そう思ったんだ」

 アンリが、難しそうな顔をした。

 真実と事実は別のもの。そして、真実は単一ではない。人が、生き物たちが生きていく中で、それぞれの真実を見出していくから。

 信じてもらえなくても、受け入れてもらえなくてもいい。それが唯一、見ることのできた、死の先の、かたち。

「夫人がおっしゃる通りであれば、私たちが生まれては死んでいき、そのうちに、神たる父は、そして私たちは。砂の一粒となって、忘れ去られるのでしょうか?私は、それが」

 目を合わせてきたアンリ。その表情が、変わった。


「夫人?」

 悲しみか、困惑か。あるいは別の。

 アンリの手が。白く、ぼろぼろの手が、頬に伸びてきた。


「どうなされたのですか、夫人?」

「どうしたんだい、アンリ。私が、どうか」

 視界が、霞んでいる。アンリの顔が、よく見えない。


 どうしたんだろう。何が、起きたのだろう。


「お涙が、お涙がこぼれております。夫人。どうなされたのですか?私も、もう」


 そこまでだった。


 しがみついていた。アンリも、しがみついてきた。そうしてふたり、声にもならないものをあげ続けた。

 こみ上げてくるもの。流しても、流し続けても、止まらなかった。


「アンリ。ああ、私の可愛いアンリ。こわいよ。こわくてたまらないよ。私もああやって忘れていくのか?そして、忘れ去られていくのか?お前に。あの愛しき人に。そして、自分自身に?」

「夫人。私も恐ろしゅうございます。もう、忘れてしまったものもあるのです。どこに置いてきたのかも思い出せなくなっている。救えなかった誰かを、あるいは私自身の何かを。夫人、どうかおゆるしください。神さま、御使みつかいさま、ああ、どうかおゆるしください」

「私もゆるされたい。誰かにゆるしてほしい。それほど、こんなに恐ろしい思いをしたことはない」

「夫人。私は、いやです。人は死んだら、星になってほしい。世界になってしまっては、その外側にいる私たちは、それを見ることができない。訪れることができない。海の底にまで潜らない限り、それができないなんて」

 ふたり、涙に塗れながら、空を眺めた。

 美しい星空。これが誰かの世界の内側。あまりにも美しく、そして何よりも、恐ろしく感じた。

 これが、いつか消える。いつしか、忘れて、忘れ去られて、なくなってしまう。

 この世界は、死した鯨たちの見る夢。そしてあの星たちは、また別の夢なのだろうか。

 アンリの顔。やはり涙ばかりで、ぐしゃぐしゃになった顔。このこもまた、誰かの見た夢のかけらでしかないのか。

 いやだ。アンリは、アンリであってほしい。

「私の可愛いアンリ。星を眺めておやり。お前があの人々を忘れないように、語り合っておやり。お前が星と語り合えなくなった時が、お前の死ぬ時だ。お前が忘れ去られる時だ。そんなのはいやだから、その時は、お前だけはどうか、星になっておくれ?」

「その時は、夫人。どうか私を」

「いやだ。お前は、星になるんだ。アンリという星に。いつの日も、私がお前を眺めるから。お婆ちゃんになって、そして星になるんだよ」

「夫人。はい、夫人。約束します。私は、お婆ちゃんになって、そうして」

 また、耐えられなくなった。またふたり、しがみついて。こみ上げてくるものを出し続けていた。横たわった鯨の骨の中。深海の暗闇と、光り輝き漂う海月くらげたちの下で。

「私の可愛いアンリ、優しいアンリ。ごめんよ、ごめんよ」

「ああ、恐ろしいひと。そして、優しいひと。私こそ、ごめんなさい。どうか、ごめんなさい」

 ふたり、何かに謝り続けていた。何かに、ゆるしを請うていた。


 これが誰かの夢だとしても。どうかこの夢だけは醒めないでおくれ。ずっとずっと、続いておくれ。

 どうか、この夢だけは。


(つづく)

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