3−7

 馬車一台、到着した。中から出てきたのは、あかと黒のドレスを纏った女である。

 シェラドゥルーガ。今回は“悪戯いたずら”ではなく、本人である。牢獄の方には、あしのひとりを化かしておいた。

「遠いところ、ご苦労だった」

「お気遣い結構。久々の外だが、気は重いのでね」

 美貌の眉間には、皺が寄っていた。

 ペルグランを通して様子を見ていた。それで、この通りである。おそらく、今までに見たことのないほどに程度が悪いのだろう。


 祝日である。ほぼすべての人員は、休みとしていた。いたとしても、シェラドゥルーガと面識のある人間がほとんどである。

 少し休憩を入れてから話をはじめる。そう告げて、別棟の司法解剖室に招いた。密室で、音も漏れにくい。秘密の話をするには持って来いの場所だった。

 実際に様子を見た面々に加え、アンリとスーリを入れていた。ふたりとも、生命いのちというものに長く向き合ってきた。


「認知症と呼ばれるものです」

 ムッシュから、前提を説明してもらった。

「巷では痴呆ちほうとか、そういう言い方をします。記憶や判断を行う部分が徐々に減衰し、社会や日常で暮らす上で、さまざまな支障がでるようになります。わかりやすいところでいえば、何度も同じことを言ったり、場所や時間がわからなくなったりする。一方で、衝動的な症状も出る。幻覚や妄想、徘徊、情緒の不安定。周囲への過剰な抵抗、あるいは攻撃的反応。まさしくあのおっかさんが、その状態です」

 そこまで一息で、言い切った。

 不治の病。現在の医学では、治療法はない。

 本人の状態もそうだが、問題はその周囲である。家族や親類、それぞれの近隣に至るまで、まさしく予測不可能な災害と化す。

 あれは、嵐だった。いつか誰もが発症しうる、人の心の大竜巻だった。

「患者に対する理解が必要になってきます。だが、今まで述べた通り、相当に難しいことです。ロリオ伍長やご内儀はよく頑張っていますが、時間の問題でしょう。山に棄てるなり、座敷牢にぶち込むなりするほどのものだというのに。えらいもんですよ」

「それでいえば、ガブリエリ君の反応こそ、まさしく私の反応だ。あれほどのははじめて見た。ペルグラン君の頭の中で、腰を抜かして怯えていたよ」

 シェラドゥルーガ。用意した椅子にどっかりと背を掛けて、天を仰いでいた。

「普通はそうなんです。特に少尉たちのような若い子には、よりおぞましいものに見えるはずです。自分の親や、祖父母と当てはめたが最後、ひたすらに恐ろしくなる」

 あるいは自分に、それを当てはめたら。

 そこに行き着いて、ダンクルベールはそっと目を閉じた。

「だそうだ、ガブリエリ君。決して恥じることはない。私はペルグラン君の中にいて、彼の勇敢な行動を見ていたが、頭の中は真っ白だった。無我夢中、いやパニックを起こしていた。体だけが動いている状態だ。結果としてご母堂ぼどうは舌を噛まずに済んだけれど、褒められたやり方ではない。とはいえあの状況で、正確な判断が下せる者など、数えるほどもおるまいしね」

 ペルグランが、傷を負っていた。

 錯乱した母が舌を噛みそうになるぐらいになっていたところに、自分の腕を無理矢理に噛ませたのだ。

 アルシェの応急処置とアンリの手当で、すぐによくなりそうだった。

 全員の顔を眺める。明るい表情のものなど、ひとりもいない。

 それでも、俎上そじょうに上げられたものは片付けねばならない。それが、いち隊員の家庭の問題であったとしても。

 組織の長として、ダンクルベールには、その責任があった。

「ロリオの願いを聞くべきか。今一度、議論したい。俺は、お前たちを含め、警察隊の皆にはできうる限りのことをしてやりたい。だが今回ばかりは、そのできうる限りが、具体的には思い浮かばない。情けない話だが」


「ガブリエリ、先んじて具申いたします」

 美麗の長身。起立し、敬礼。立派な姿。

「長官と同じく、正直に、何ができるかは思いつきません。恥ずかしい限りです。ですが気持ちだけでも汲んでやりたい。差し伸べられる手があるなら、そうしたいです」

 燃え盛るような、しっかりとした眼差しだった。見慣れた美貌よりも、そっちのほうに心を掴まれた。


「よし、立ち直ったな。アルシェは?」

「やめとけ、ですかね」

 対して、ぼそりと。

 顔を見る。仏頂面が、苦悶で歪んでいた。

「伍長も奥さんも、破綻寸前まで張り詰めている。あの状態で母親だけが死んだら、張り詰めたものが途端に千切れる。つまりは心が壊れる。心の死は、肉体の死に繋がる」

 アルシェは、心を取り扱うのが仕事だった。そういうものを見るのは、人一倍だった。


「俺はそれで、何人も死なせてきた」

 苦いものを、噛んだように。


 拷問はときに、死につながる。拷問官にとっては敗北であり、屈辱である。

 そしてそれ以上に、人を殺したという、ひとつの経験。

 それをありがたがる人間は、数少ない。 


「汗を拭きなさい。紙巻も、吸っていい」

 促した。自分もそうすると、アルシェとガブリエリも、それに倣った。

 相当に心が荒れていた。この男をして、そこまでに、きついものだったのだろう。

「それでもやるんなら、家族丸ごと全部まとめてやっちまった方がいい。それなら夫人ではなく、スーリの方が適任だろうが、どのみち誰も幸せになれない。それなら、全部やるか、全部やらないか。それだけです。以上」

 言い切ったようにして、天を仰いだ。

 アルシェは議論において、必ず正論を言う。あるいは極論を。それを念頭に置くことで、話は進めやすくなる。

 だからこそ、いつも真っ先に意見を求めていた。


「ムッシュは、どうだろう?無理はしなくていい」

「大前提として、死は救済ではありません。別れです」

 泰然としていた。こちらは、死を扱う男である。

「残されるものがいる。アルシェの言い分は正しいが、残されるものにも、生き甲斐があれば生き残れる。かけれる時間を使って、ちゃんと準備をさせてあげれば、あるいは」

「ムッシュ。あんたのその優しさを俺は尊ぶ。だが、同時に危うくも思う。下手をすればあんたもまた、壊れるぞ。それならいっそ」

「この私を甘く見てくれるなよ、若造」

 噛みつくようなアルシェの声を、一刀のもとにすように。

 真っ黒な目。それに、アルシェがひるんだ。

「我ら代々の死刑執行人は、残されるもののためにも、人を殺してきたのだ」

 朗々と、そして傲然とした声。

 ムッシュ・ド・ネション。万人に死を下す、公平なるもの。生涯最後の立会人。

 だが、そこまでだった。ため息ひとつ、その瞼が閉じた。

「だが確かに、難しい。アルシェの言い分に理がありすぎる。理解はできるし納得もできるが、だが賛同はできない。これで、ご勘弁願えますか?」

「わかった。外して、少し休んでくれ。今回はお前が一番、負担が大きいはずだ」

「ご配慮、感謝いたします。お気持ちだけで」

 ムッシュは、動かなかった。あるいは、動けないのやも。


「アンリエットは、聞くまでもないな」

生命いのちを奪う権利は、誰にもありません。以上です」

 それでも、その顔も声も暗かった。いつもの毅然としたものではなかった。

 やはり動いたのは、アルシェだった。

「あえて言うぞ。実際にあれを見ても、まだそれが言えるんだろうな?その覚悟は決まってるんだろうな?」

「絶対に、なんらかの方法があるはずです。治療法以外にも、別のアプローチが」

「そこにたどり着くまで、どれだけかかる?たどり着く前にすべてが崩れ去ることだってありうるんだぞ」

「尽くせる手を尽くさずして、諦めたくはありません」

「そこまで。そうでなくては、サントアンリじゃないもんな」

 ぱん、と。手を鳴らして。お互いの目を見る。特に、アルシェの目。

 何か、頷いたようなものを感じた。

「アルシェ。これ以上、悪役をやらなくてもいい。楽にしなさい」

 それだけ、告げた。

 安心したように、アルシェが椅子に腰掛けた。持ち込んでいたウイスキーをグラスに注ぎ、一息に煽った。各位、飲み物などを自由に持ち込むようにだけ言っておいた。

 汚れ役をやる男である。自分の心がどれだけ平静でなくても、やれてしまう。強さか、あるいは優しさからか。

「本部長官さま。どうかお願いです。私に、ご母堂ぼどうさまを」

「やめなさい、アンリ。あれはもはや、そういう程度のものではない」

 咎めたのは、シェラドゥルーガだった。その眼差しと声に、アンリが震えながら瞼を閉じた。


「スーリ。アルシェすらこの通りだが、殺せるか?」

「隠れて、見てました。絶対にやりたくないっす」

「どれだけ積んでもか」

 頷く。既に、難しい表情だった。

「人を山ほど殺してきました。死ぬ前に、人は本性を見せる。受け入れるもの。命乞いをするもの。抵抗するもの。おっかさんは、それを長いことやってるんでしょうよ。最後の直線、駆け上がりに入ったはいいが、ゴール板が見つからない」

 そこまで言い切って、スーリが顔を覆ってしまった。


「一番苦しんでるのは、あのおっかさんだよ」

 震えた声。ひとごろしの、声で。


「あれを殺すってなれば、かなりの準備がいります。特においらの、腹を括るための、準備が」

「痛いほどわかるが、それをやらされるであろう、私の前で言わないでほしかったなあ。しかも、私が用意していたものより洒落た表現でやってくれるとはね。可愛いやつだよ」

 相当うんざりした様子で、シェラドゥルーガが漏らした。煙管パイプをふかしているということは、そういうことだろう。

「私からも。喰う側としては、食あたりすることが分かりきっているものを喰うなんて、正直に気が引ける。アルシェ君の言い分は正しいが、三人分はかなりきつい。絶対に腹を下す。私は人でなしだから、ムッシュもアンリも管轄外だろう?私専用の胃薬があるというのなら、話は別だけどね」

「腹を下すと、やはり嘔吐か、下痢か」

「両方かもしれん。人前で無様を晒すのは淑女の恥だが、それ以上の問題がある。先にお前には言ったつもりだが、中のものをぶちまけるんだ。街ひとつ、汚染しかねない」

 たん、と。灰皿に煙管パイプを叩きつけて。


「やらせたいのなら、ヴァーヌ聖教の異端審問官どもを束で用意してくれ。神通力じんつうりきとやらで、全部まとめて燃やしてくれるだろうよ」


 吐き捨てるような言い方だった。侮蔑ともとれるような。まるで、過去に経験があるような。

 となれば、それをやらせるべきではない。

「ひとり分にしよう。お互いのためにもな」


「あとは、ちょっとした発想の転換だ。伍長とご内儀を死なせて、ご母堂ぼどうを座敷牢にぶち込む」

 その言葉に、ガブリエリが飛びかかった。

 シェラドゥルーガの喉元を両手で締め付けた。眉目秀麗な顔を真っ赤に怒らせて。碧眼が、わなわなと震えている。


「そうだ、それが正しい。いずれ君が人の上に立ったとき、忠信に罰をもっってして組織や国家の繁栄があるとお思いならば、そうなさい」


 つとめて冷静に、そして穏やかに。

 眼と手で促す。それで、ガブリエリは手を放した。


「つまり?ここには正解も、最適解もないってことですね」

 部屋の隅でかがみ込んでいたペルグランが、頭を掻きながらぼやいてみせた。あえて椅子に座らず、そうしていた。

「偉いな、ペルグラン。その通りだ」

「では、思ったことを、思ったままに」

 顔を上げた。目が、そうは言っていなかった。

「おやじさんもそうですが、安請負をしたのがそもそもの間違いです。警察隊の大事な一員だからといって、いち家庭の問題でしょう?わざわざこんな面子メンツが雁首揃えて頭抱えて悩むことじゃない。そうじゃないですか」

「その言や良し。ガブリエリ、言ってやれ」

「それをやったら、ペルグラン。誰もついてこなくなるぞ」

 がん、と叩きつけるような言い方だった。

 両者の目。真っ直ぐなガブリエリ。どこか達観した、ペルグランの目。

 ガブリエリの言葉を促したのだろう。ほんとうはそれを言いたいが、ガブリエリが言うほうが、説得力があるから。

 ペルグランも、そういう小細工をできるようになった。あるいはからになり、ニコラ・ペルグランの最期を吐き出すということを経たから、手に入れたものかもしれない。

 隣においておくには、十二分以上のものである。

「そういうことだ。両名ともいいことを言った。これでこそ、うちの両翼を担う駿才ふたり。これからの二枚看板だ」

 ペルグランは屈んだまま、わざとらしい会釈をした。

 ここには正解も、最適解もない。まさしくその通りだ。


「おっかさん、だな」

 しばらく置いて、決めたことを口にした。

「本部長官さまっ」

「アンリエット。すまんが、外しなさい」

「諦めたくない。私は、絶対に」

「ペルグラン、連れ出せ」

 わかっていたように、ペルグランがアンリを促した。アルシェとムッシュもそれに加わった。

 少しして、アルシェとムッシュだけ、戻ってきた。

「可愛いこちゃんを泣かせたね。色男の面目躍如だ」

 スーリが、小馬鹿にするように節をつけながら、それでも疲れた声で言った。

「そうだな。さて、カードを決めよう。手札は、スーリ、ムッシュ、そして俺とシェラドゥルーガ。一番準備が早いやつを使う」

「私だな。今日でもいける。いや、今日がいいぐらいだ。皆の腹が決まっているうちに済ませよう」

 言い切る前に。シェラドゥルーガだった。

「場所はどうします?あんたの寝ぐらかね?」

「どこでもいい。ちょっと広めで、汚してもいいところ。ここがちょうどいいんじゃないか?」

「あんたやっぱり、おっかさんを食い散らかすつもりか」

「ガブリエリ君。私も淑女だ。テーブルマナーは心得ている。問題は、汚れるのはその後だ」

 言葉と眼で制するだけで、ガブリエリは控えた。

「腹を下した時、ですかな」

「ご母堂ぼどうが旅立ったら、すぐに引き剥がしておくれ。それは、逃げ足の速いスーリ君に任せたい。きっと暴れ回る。君は凄腕の殺し屋だが、正面切っての喧嘩は本領ではなかろう。ほんとうは“錠前屋じょうまえや”とやらを揃えて欲しいところだが、大勢の前にはしたない姿は晒したくない」

「こんな仕事を連中に任せて怪我でもさせてみろ。セルヴァンに怒鳴られる」

「お前の杖とパーカッション・リボルバー。あとはムッシュの首切り剣法。どうせ殺されるなら、手並みのいい男たちに委ねたい。すまんがどうか、頼む」

「よし。ガブリエリ、ロリオに通達。おっかさんと一緒に来てもらうよう、伝えてくれ。つとめて丁重にな」

「はっ。行って参ります」

 さっと、ガブリエリが退出していった。

 ほんとうに、真っ直ぐな男である。それがなによりの美点ではあるが、扱いに困る部分も見えてきた。

 ペルグランもそうだが、若手ふたり、どう仕上げるべきか。ここが見極め時かもしれない。


「我が愛しき人が気を利かせて、手札から外してくれたことだ。アルシェ君も少し、休みたまえ」

 一息を入れるようにして言ったのは、シェラドゥルーガだった。

 アルシェは、人の心に鋭敏なところがある。だからきっと、あの苛烈な拷問でも、殺す前で踏み留まれる。そう思っていた。

 だから、手札から外した。きっと殺せないから。

 その言葉に、ようやくアルシェも、いつもどおりの仏頂面に戻ったようだった。

「どうしても、思い出しちまいます。でも、あのときのほうが随分ましでしたよ。あんたを含め、周りに人がいましたから」

「そうだったね、ラウリィ。今回は息子夫婦だけか。そりゃあ余計につらいよね」


 違和感。

 ふたりの顔。やけに穏やかだった。

 ムッシュとスーリの眼。困惑。自分と同じものを、感じているようだった。


「お前たち。何の話をしているんだ?」

 それを、言葉に出した。シェラドゥルーガとアルシェ。ふたりとも、怪訝な表情だった。


「おや?それで、アルシェ君を外したんじゃないのかい?」

「俺もてっきり、そう思ってました」

 それ、がわからない。首を振る。


 ふたり、おもむろに顔を合わせて。そうして、吹き出すようにして笑った。


「私とアルシェ君。ガンズビュールのころ、ご近所だったんだよ。斜向かいのデュトワさんのとこで、家族で住み込み奉公しててね。言ってなかったっけ?」

 シェラドゥルーガが、笑いながら言ってきた。


 面食らっていた。聞いていない話だし、それが今、何に繋がるのかも。


 ガンズビュールの邸宅の斜向かい。確かに、大きな屋敷があった。ガンズビュールは別荘地だが、あの屋敷は別荘ではなく、本邸だった。住んでいたのは為替取引か何かをやっている資産家で、結構な大所帯だったと記憶している。


「子どものころ、そこの爺さまが同じもの患いましてね。ほんとう、こわくって。兄貴とふたり、夫人が手伝いに来てくれるたびに泣きついたもんです」

 アルシェも、口元が綻んでいた。たまに見せる顔である。


 ひとつ、思い当たる節があった。シェラドゥルーガとアルシェを、はじめて会わせたときである。

 シェラドゥルーガの悪いが、なかった。はじめて会う人間に対し、弄んだり、貶めたりするのだが、アルシェに限って、それをやらなかった。

 そんな奇縁があったとは、思いもしていなかった。

「たまにうちのことも頼んでたんだよ。お父さんとクリスが外のこと。お母さんと、ラウリィことアルシェ君が内のこと。そういや、君んとこ全員ダニエルだったよね?私、お父さんに向けてダニエルさんって呼んだら、三人、返事しちゃってさあ」

「ありましたねえ。親父がマチアス。兄貴がクリストフ。んで俺がダニエル・ラウル。それとメタモーフのとき、おやじさんと長官とで、うちのご主人さんところに来てましたよ。覚えてませんか?」

 アルシェの言葉に、思わず頭の中を探っていた。

 確かに、立ち寄っている。三十年前。アルシェの年齢からすれば、子どもも子どもである。ただ、そういう子どもがいたかどうかは覚えていない。まして、そこの爺さんが認知症になっていたとは、まったく知らなかった。


 そこまで行き着いて、はっとした。


 子どものころ、あれを見たとなれば、きっと心の傷になっているのだろう。

 だからアルシェは、必要以上の仕事をしたのだ。ムッシュやアンリに、同じ思いをしてほしくないから。

 ムッシュを見る。笑っていた。きっと同じところに行き着いたのだろう。スーリもやはり、笑っていた。

「俺も、気が回らんものだな。子どもの頃のいやな思い出を、また見せてしまうとは。ほんとうに、すまないことをした」

「いえ。むしろ、忘れないようにしないとね。誰しも、なりうるっていうんだから」

 声は、明るかった。笑ったことで、つとめて保っていた荒れたものが、晴れたのかもしれない。


「誰もが目を逸らしたがるものから目を逸らさないことも、汚れおれの仕事です」

 アルシェの仏頂面が、口元だけ綻んでいた。相変わらずの寝ぼけ眼のままで。


 不気味な男。はじめて会った時に、そう思った。眼が、何も語ってこない。何を考えているのかわからない。


 それがわかったのは、ほんとうに些細なことだった。


 ラウルさんはね、何も考えてないんです。そこが可愛いの。ふくろうとか木菟みみずくみたいだなって。それで一目惚れしちゃったんです。

 妻であるサラの惚気話だった。行きつけのビストロで鉢合わせて以来、家族付き合いになっていた。


 驚きと同時に、納得もした。捜査官として、目線や仕草から何かを読み取ろうというのは、一種のである。何も考えていないことは、一番わかりづらいのだ。

 汚れたもの。あるいは人の闇。何も考えていないからこそ、それから目を逸らさずにいられる男。

 だからこそ、拷問や奸計など、極端な事ができる。正論を言うことができる。自分の意見を通したいとかではなく、必要だからそれを出しているだけ。別の手段でも、目的地にたどり着けさえすれば、それでいい。

 ある意味では横着といってもいいものである。

 鋭敏であり、横着でもある。それはあるいは、至って普通のことなのかもしれない。


 その場は一度、解散とした。各自の準備に入った。アルシェは、アンリとペルグランのもとに向かわせた。


「そういえば、世間話だが」

 控室にて。ひとつだけ、シェラドゥルーガに確かめておきたいことがあった。些細な話である。

「アルシェをはじめて連れて行ったとき、ワインではなくウイスキーを出していたよな?何と言うか、匂いが強いやつ。ヨードとか、そういう匂いだったはずだ」


 それだけ、引っかかっていた。


 指定がない限り、シェラドゥルーガは、客人のもてなしにワインを用いる。ペルグランの時のように、それを使って小馬鹿にしたりもする。

 それがアルシェに限り、ウイスキーだった。それも独特な匂いのもの。

 ただアルシェも別段、気にする様子もなく、それを楽しんでいた。ボトルまで持ち帰らせていた。今日、アルシェが持ち込んでいたのも、その銘柄だった。

 アルシェが前職でシェラドゥルーガと接触済みだったのか。もはや壊滅した組織ではあるが、今後、何があるかともわからない。念の為、確認しておくにくはない。


「ああ、あれね」

 ひと笑いして、気が楽になったのだろう。いつもの不敵な笑みで返してきた。


「デュトワさんが大好きなお酒。はてさて、覚えているかなっていう、ちょっとした“悪戯いたずら”さ?」

 指を鳴らしながら。


 目を丸くしてしまった。


「グレロッホの十年。確かに臭いやつだ。麦を乾燥させるのに使う泥炭ピートに海藻が混ざってる。それで強烈な香りと味になるのさ。あれ、はまる人ははまるんだよねえ。ラウリィの顔を見て懐かしくなってね。お利口さんだったから、ちゃあんと覚えていたようだったよ」

「それであればひと安心だ。前職で接触していて、酒の好みを把握していたのかと思ったのでな」

 悪い。ご近所に勤めていた奉公坊主に対して、お久しぶりの挨拶代わりとしてやっていたのだ。

 なんとまあ、わかりづらいことをする。迷惑だと思った反面、胸のつかえも取れた。


 これで心置きなく、を成せる。


 ムッシュ。当時の装束を用意してきた。人を殺めるための、心の鎧。そして、そのための大剣を引っ提げて。

 その顔は、穏やかだった。そしてその瞳も。


「心優しいラポワントさま。そして我が愛しき人」

 穏やかな言葉の後、表情は、毅然としたものとなった。

「私を託す。私が私でなくなってしまいそうになったら、やってくれ。ひと思いにどうか、お願いします」

 死を、託す。この化け物だからこそ、できること。

 以前に言っていた。自分は心の生き物。だからこそ、肉体の死で、死を迎えることはない。しかし、疲れはするとも。

 そして疲れはいずれ、心を蝕み、殺すとも。

 殺し続ければ、その豊かな心は、死ぬ。それがシェラドゥルーガとしての、死。

 それを託す。

 無理を託したのだ。応えねば、道理にも、これの愛にも反する。

「わかっている。そのための俺たちだ。何度でも殺す。お前のために、全力を尽くす。今までと、同じように」

「ま。旅路とは、帰り道があるものです。どうか、お気を楽に」

 ムッシュは、いつもどおりに朗らかだった。それが何より嬉しかった。

 シェラドゥルーガ。近寄ってきた。頬を取られ、そこにベーゼをくれた。ムッシュにも、同様に。

 これが別れにならないように。それだけは、線を引きたかった。


 司法解剖室への廊下。その扉の前に、影がひとつ。

 差し込む夕日に照らされ、小柄な体は、燃え盛るように赤かった。


「どけ、アンリ」

 向こう傷の聖女、アンリエット・チオリエ。


「何人たりとも、ここは通しません。通せません」

「どけと言った。私が、どけと言ったんだぞ、アンリ」

「どきません。生命いのちながらえることを諦めることなんて、できません。だから私は、ここを絶対にどきません」

 眼が、決意に染まっていた。

 誰よりも頑迷だった。一度決めたことを絶対に覆そうとしない。だからこそ、傷を負っても、人を救えた。

 シェラドゥルーガの美貌が、悲しみに歪んだ。

「私に、お前の傷を増やさせるつもりか?あるいは鼻でも削がせるつもりか?頼むよ、私の可愛いアンリ」

「傷が増えようと、腕や足が飛んでいこうと、私はここを」


「どけと言ったのだ」

「どかないと言ったんだっ。シェラドゥルーガ」

 叫んだ。ほぼ同時だった。


 動揺が強かったのは、シェラドゥルーガの方だった。


「アンリ。お前が、お前までもが、その名で呼ぶのか?」

 奥歯の軋みが、こちらにまで聞こえるほどに。


「そうだ、シェラドゥルーガ。何度でも呼んでやる。我こそはサントアンリ。己が望みではあらざれど、力なきものたちにより、力なきものたちのために、生きて聖人として列せられしものなり」

 足を広げ、両手を広げ、じっとこちらを見据えている。小刻みに、確かに震え、脂汗を滴らせながら、それでもアンリは炎の壁の如く、自分たちの前に立ちはだかっている。

 忿怒ふんぬの形相を、その向こう傷を、ぎらつかせながら。


 シェラドゥルーガが、指を鳴らした。アンリが、思わずと言った感じで、顔を逸らした。

 戻したその顔の、あの向こう傷。僅かではあるが、血が滴り落ちてきていた。

 それでも、アンリはその場を動こうとしなかった。大声を聞きつけたであろうペルグランが、慌ててアンリを離そうとするが、一顧だにしない。

 ペルグランに、目で制した。もはや、止めようのない状況だった。


 そうして一歩ずつ、両手を広げながら、アンリはゆっくりと迫ってきた。シェラドゥルーガの、眼の前まで。


「課せられたもののため。我は聖なるものとして、恐ろしきなんじの前に立ちはだかる。サントアンリとして、そしてただひとりのアンリエット・チオリエとして。あかき瞳のシェラドゥルーガの前に立ち向かう」

 決意の言葉。かすれた、それでも清らかな、サントアンリの声。


「これでひとつでも多く、生命いのちが救えるのであれば」

 そこまで言って、大きく息を吸った。


「そのために。この傷と名を、負ったんだっ」


 咆哮。

 圧された。この小さな娘に、圧し切られた。ダンクルベールたちは、動くことすらできなかった。


 そんな中、シェラドゥルーガだけが、わなわなと体を震わせていた。

 苦悶と、悲憤の、形相で。


「この、くそたわけがっ」


 今度、叫んだのは、シェラドゥルーガだった。

 アンリの襟首を掴み上げ、床に叩きつけた。

 うめき声。立ちあがろうとして、また、這いつくばる。それを、何度も繰り返している。

「決めたことを、覆そうとするんじゃない」

 シェラドゥルーガ。腹の底から、絞り出すような声。


 つらいものを見てしまった。つらいことを、させてしまった。人でなしに挑んでまで、人を救わせようとしてしまった。

 呼ぶべきではなかった。それだけ、悔やんだ。


 進もうとしたが、それはすぐに止まった。

 シェラドゥルーガの足に、アンリがしがみついていた。

「アンリ、もうおやめ」

「いやだ。行かせない。行かせるか、行かせるものか」

「アンリさん。どうか、どうかもう、これ以上は」

 ムッシュとペルグラン、ふたりで引き剥がそうとするが、アンリは必死の形相でしがみついていた。

 ああ。これが、これこそがサントアンリなのだ。尽きゆく生命いのちを前にして、絶対に諦めない。たとえ相手が、恐ろしき、あかき瞳のシェラドゥルーガだったとしても。

 見ていられないが、今は、見ていることしかできない。


「その手を離せ、愚かなるアンリエット・チオリエ。私に、お前を星にさせてくれるな」

 もはや悲しみが、一番前に出ていた。怒りも苦しみも悲しみも、すべてを混ぜっこんだ、聞いていたくもない声だった。

「死んだって離すものか、シェラドゥルーガ。そのために、私は生きているんだ。そのために、生きてきたんだ」

「私は、お前を」

「行くならば、殺せ。殺して、それでも離さぬ私の手を投げ捨てていくがいい。私のような虫けらのごときものぐらい、お前には容易いことだろう。さあ、やれ。やるがいい、シェラドゥルーガ。それでも私は、神たる父と御使みつかいたるミュザに代わり、炎となって立ちはだかり続けるだろう」

 まるで聖句のような、その叫びが、決め手だった。


「言ったな?」

 シェラドゥルーガのあかい髪が、燃え盛るように広がった。

 変わった。けものの目。人でなしの、目。


「よせ」

 ようやく。

 振りかぶりかけた手を掴み、ダンクルベールは静かに、それを制した。

 見ていられるのは、ここまでだった。

「駄目だ」

 つとめて穏やかに、ゆっくりと告げた。

 けものの目が、こちらを向く。しばらくじっと、見つめ合う。


 一度、手を離し、杖を握り込む。

 それを、アンリの体に打ち据えた。叫び。目の前のけものの目が、一瞬、びくりと跳ね上がった。怯え。もう一発。また、悲鳴が上がった。目に、怯えがどっと広がっていった。

 じわじわと、怒気が萎んでいくのを感じた。燃え盛っていたあかい髪が、熾火に変わっていく。

 残ったのは、泣きじゃくっているアンリだけだった。


「ペルグラン。アルシェの手が空いている」

 それだけ伝えて、瞼を閉じた。音だけで、すぐにペルグランが、アンリを抱き起こして連れて行くのがわかった。


「我が、我が愛しき人。なぜ?」

「お前があれを殺すぐらいなら、俺がやる。俺のやったことなら、俺が責任を取れる」

 声は、すっと出た。瞼も、開けることができた。


 全員が納得できる答えを出すことなど、できない。それでも、納得させたかった。

 それができなかった責任は、取る。


 シェラドゥルーガは、震えて小さくなっていた。ゆっくりと、怯えた目で、ダンクルベールの頬に両の手のひらを添えてきた。

 今にも泣き出しそうな表情だった。


「ああ、ああ。私はお前に、あれを傷つけさせたのか?私たちの可愛いアンリを、お前に傷つけさせたのか?」

「今は考えるな。心を、乱すな」

 しなだれかかるように、胸の中に入ってきた。抱いてやる。時折、伺うように向けてくる目が、懇願の色に染まっている。体がまだ、震えている。それが収まるまでは。

 互いにとって、そして誰にとっても。あれの決意や使命を邪魔することなど、許されていない。だからこそ、ダンクルベールがやるべきだった。


「行きましょう。さっさと終わらせて、そして皆で、アンリに詫びに行きましょう」

 ムッシュは、つとめて平静だった。


 司法解剖室。

「坊や。わたしの可愛い、坊や」

 母親は、解剖台に腰掛けていた。

 こちらをみとめるなり、優しく声を掛けてきた。表情も、温かかった。

 きっと今まで、そういう顔だったのだろう。

「そうだよ。かあちゃん」

 ロリオの声だった。いつもの、ちょっとした“悪戯いたずら”だ。

「どうしたんだい?そんなに泣いて」

「ちょっとだけ、つらいことがあったんだ。でも、大丈夫」

「そうかい。それはよかった。お前は泣き虫だからねえ」

「そうだね。かあちゃん。さあ、もう夜だ。寝る時間だよ」

「おや、もうそんな時間だったかね」

「そうだよ。明日は晴れるみたいだ。そろそろ芋掘りをしなくっちゃね。そうしてまた、人参とか腸詰とかと一緒に、煮てくれよ。俺、かあちゃんのポトフ、大好きなんだ」

「そうだよね。お前は、あればっかり食べるから」

「そうだね。おかげで、こんなに大きくなった。かあちゃんのおかげだ。ありがとう、かあちゃん」

 息子の手が、母親の体を抱く。ゆっくり、それを横たえた。

 穏やかな光景だった。いつも、こうあってほしいと思う姿だった。

「じゃあ、また明日。かあちゃん、おやすみなさい」

「おやすみなさい。どうか、いい夢を見るんだよ」

 錯乱していたはずの老婆の声は、どこまでも優しかった。横たわった母親の目を、その手がゆっくりと閉じた。


 ひとつの生命いのちが、終わっていく。


 そのうちに、シェラドゥルーガの体が、痛みを堪えるかのように、わなわなと震えはじめた。何かを察して、影ひとつ、横たわる老婆の亡骸に駆け寄った。

「スーリ君、早く」

「用意できてる、夫人。もうゲロって大丈夫だ」


 スーリが、老婆を抱き抱えて消えてゆく。それとほぼ、同時だった。


 崩折れる。もがき、苦しみはじめた。目を大きく開き、ただ狂ったように叫びはじめた。指を口の中に突っ込んで何かを吐き出そうとしているが、嗚咽ばかりで何も出てこない。髪をかきむしり、突き出した舌で、喉が詰まりそうになっている。あるいは自分の首を、自分の両手で締め付けながら、それでも悲鳴を上げ続けた。

 はじまった。母親が巨大な嵐となって、あの中で暴れ回っている。


「我が愛しき人、ああ、我が愛しき人」

 声に思わず、杖を投げ捨てて駆け寄っていた。

 抱きとめる。目の焦点があっていない。表情に、恐怖だけが張り付いている。涙を流したくても流せないような、震える目。

「どこだ?そこにいるのか、我が愛しき人?忘れてしまう。いやだ、忘れられたくない。ああ、頼む。六発全部、撃ってくれ。これに、耐えられない。助けて、ねえ。お願い」

 わかった、と叫び、パーカッション・リボルバーを引き抜いた。口の中に、銃口を突っ込む。

 破裂。彫刻のように美しい肢体が、弓なりに仰け反った。

 ダンクルベールは立ち上がりながら、もう二発撃った。それでも苦しみに叫びながら、ただ自分の名を叫び続けている。


「ねえ、どこなの?早く、お願い。ああ、リュシアン、愛してるの。だからお願い。わたくしを忘れないで。リュシアン、もう貴方と離れたくない、わたくし。もういやよ、もう。寂しいの」

 口調が、ボドリエール夫人にまで戻ってしまっている。シェラドゥルーガでは、なくなっている。

 早く、早くしなければ。何者ですらなくなってしまうのかもしれない。

 爆音。閃光。轟音。撃ち切った。それでも、人の姿を保ちながら、人でなしですら、なくなりつつある。床を転げ回りながら、泣き叫んでいる。

 換えの弾倉。もうふたつ、持ってきていた。撃鉄を起こし、引き金を引く。その度に、女の肢体が跳ね上がる。悲鳴と、懇願。すべて打ち切っても、止まる気配がない。

 断末魔。耳が、痛くなってきた。

 杖を拾う。鉄心入り。何度も、本気で叩きつけた。何度か頭がなくなって、それでもどこかからそれが生えてきた。

 立ち上がった。よろめきながら、何も見えていないようにうろつき回る。壁に、叩きつける。殴りつけ、杖をぶっつけ、それでも叫びだけが止まらない。


「ダンクルベールさま。ああ、ダンクルベールさま。どこなの?助けて」

 あの頃の声。吹き荒ぶ嵐を前に、それでも疲れが先に来た。左足が、悲鳴を上げはじめる。


「駄目だ。ムッシュも、頼む」

「相分かった。夫人、痛むぞ」

 ムッシュが、でくのぼうとなった自分の体を押し退けて前に出た。朗々と、そして毅然と響く声。

 携えた大剣を振りかぶって、ぶっつけた。壁に一度弾んでから、跪く形になったところを、ひと呼吸、一気に振り下ろす。


 無音。

 首が静かに、床に落ちた。


 遅れて、血が舞った。それでも動こうとする体を蹴って、仰向けに転がした。

 大剣を放り捨て、それに馬乗りになってから、胸元から取り出した短剣で、心の臓を狙って振り下ろす。音すらない、鮮やかな手並みだった。また頭が生えてきたので、それを押さえつけ、頸動脈。何度も、血飛沫が上がる。心臓を、喉首を、あるいは両の目を。淡々と無表情で殺し続ける。刃が風を斬る音や肉を割く音は一切聞こえない。あるいは、悲鳴すらも。


 ムッシュ・ラポワントだ。

 戻ってきた。いや、戻してしまった。豊かな心を押し殺し、ただ人を殺め続けた男に。


 そのうち、動かなくなった。ムッシュとふたり、血だらけで、汗だくになって。肩で息をしながら、一旦距離を取った。


 ムッシュの目を見た。ちゃんと、光がある。それに気付いたのか、向こうもこっちを見つめてきた。大丈夫です。そう、目から聞こえた気がした。


 もうふたりとも、万策尽きていた。


 しばらくして、それはゆっくりと、起き上がった。へたり込んで、やはり大きく目を開きながら、それでも目の焦点が戻ってきている。肩が大きく上下し、震えながら。

 その姿には、自我を感じた。


「ああ、ああ。ようやく、我が愛しき人。ようやく」

 戻ってきた。戻ってきてくれた。

 ゆっくりと、怯えた目で、それでもシェラドゥルーガはシェラドゥルーガの声で、こちらに顔を向けた。血だらけの、誰よりも美しい顔を。

「終わったか。終わったんだよな」

「ああ。終わった。顔を、見せてくれ。覚えているか、確かめさせて」

 ダンクルベールが近づくと、シェラドゥルーガは震える両手を差し出してきた。それを取り、自分の頬に添えてやる。

「ああ、リュシアンだ。我が愛しきオーブリー・リュシアン。よかった」

「ありがとう。そして、おかえり」

 そうしてしばらくすると、表情に安堵が戻ってきた。息も整ってきた。疲れ切ったように、重そうな瞼を閉じた。


「膨大な、虚無だ。見果てぬ虚空だった。私はこんな恐ろしいものを、人の心からは見出したことがない。あれはすべて、すべて忘れ去っていた。過去も、家族も、自分自身すらも」

 嵐がひとつ、過ぎ去ったのだろう。叫んで枯れた喉で、それでも穏やかで静かな声で、言葉を綴っていた。


「ムッシュ。なにか飲み物があれば。できれば、少し温かいものを」

 相分かった。そう言って、ムッシュが静かに、部屋から出て行った。


 へたり込んだシェラドゥルーガを、一度抱きかかえ、壁の方に向かった。血の海の中、並んで床に座った。

 シェラドゥルーガの頭が、ダンクルベールの胸にもたれかかってきた。腕を回して、頭を撫でてやった。

「つらい思いをさせた。お前にも、そして、皆にも」

 それで、また少し、落ち着いたようだった。


「強いひとだった」

 ぽつりと、シェラドゥルーガがつぶやいた。

「ずっと抗い続けていた。忘れることを。忘れ去られることを。ずっと、ずっと長い間。一番、苦しんでいたんだ」

 その嘆きが、その叫びが、あの衝動的な嵐だったのだろう。そう思うと、理解できたし、また、悲しくなった。


 あんたたち。奪いにきたんだろ。うちには何もないんだよ。あんたたちが全部、持っていったじゃないか。

 老婆の叫びが何を言いたかったのか、理解できた。


「心を蝕まれることがどれほどつらいことか、知っていたつもりだった。つもりになっていただけだった。あれには、私は耐えられない。自分自身を忘れるなんて」

「おっかさんは、お前の中で、どうなった」

「消えた。私の中の、他の生命いのちに押し潰されて。その消えていく様が、あの断末魔だ。私の中で蕩けていくうちに、私を飲み込んでいった。自我の崩壊、忘却、そして虚無。耐えられなかった。痛みが、紛らわせた。塗りつぶしてくれた」

「つらいよな。忘れることも、忘れ去られることも」

 言葉を選んだ、つもりだった。

 もしかしたら、自分も、周りの人も、ああなるのかもしれない。恐怖だった。

 尊厳を柱に生きてきた。それが崩れても生きなければならないなど認めたくないし、そして何より、そんな姿を人にさらすことなど考えたくもない。

 そうなったら、拳銃でも使って自害するだろう。そのときに、握っているそれを何に使うのか、覚えていられているかはわからないが。


「鞄に、穴が空いていたの」

 ふと、今自分が抱いているそれが、何か変わったような気がした。

「だから、こぼれ続けていく。でも、何を入れていたのかも覚えていない」

 それは確かに、シェラドゥルーガの声だった。しかし、違った。ボドリエール夫人でも、シェラドゥルーガでもない、誰かの声。

「ねえ。神さま、お願い。夜だけでも返して欲しいの。眠るためだけの、夜を」

 誰のかも知らない、誰かの、ぽつりとした、悲しみ。


「シェラドゥルーガ?」

 問いかけに、はっとした表情でこちらを見上げた。目の中に恐れと不安が広がりはじめた。体が、また震える。

「今のは、何?我が愛しき人。私?」

 わからなかった。ダンクルベールは、ただ、首を横に振ることしかできなかった。

 しばらく、震えるシェラドゥルーガを抱いていた。燃えるようなあかい髪。咲き誇るような、黒とあかのドレス。

 それでも、彼女の体は、恐れにまみれ、冷たかった。


「お待たせしました。ホットチョコレートを、どうぞ」

 ムッシュが入ってきた。着るものは、見慣れた簡素な医務服に変わっていた。むせかえるような血の匂いの中、それでもその優しい香りと、温かさが伝わってきた。

「ムッシュ、ありがとう。何度も殺してくれたおかげで、だいぶ楽になったよ。ほんとうに旅立ちを任せて、よかった」

 まずは、湯で清めたのであろう温かい拭きものを、それぞれに手渡してくれた。それで、顔や手を拭った。真っ白だったそれは、すぐに血でどろどろになった。

 その後に、ホットチョコレート。器が、温かかった。少し口にして、ようやくすべてが終わったのだと実感できた。

「ああ、染みる。温かい。生きてるのって、幸せだなあ」

 すこし鼻声だが、穏やかな声で、シェラドゥルーガが漏らした。言葉通り、幸せそうで、穏やかな表情だった。

「やはり夫人でも、どうにもなりませんでしたか」

「どうにもなりませんでしたな。二度とごめんだ」

「あの病は、自分だけでなく、周りの環境すらも滅ぼす。それを貴女は取り込んだ。ああなりもするはずでしょうな。心の嵐と、虚無。替われるならば、替わりたかった」

「病人を断頭台に乗せるのは、医者にも処刑人にも、その資格はなかろうさ。皆にこんな思いを、させたくないしね」

生命いのちを奪う権利は誰にもない。アンリエットが、一番正しかったな。ひどいことを、してしまった」

 アンリにも、そして、アルシェにも。

 ペルグランが、何枚かの温めた布と、着替えを持ってきてくれた。ムッシュが着ているものと同じ医務服。ふたりとも、その場で身を清め、着替えた。


 別棟の入口で、ロリオ夫妻と、ビゴーとガブリエリがいた。母親の亡骸は、先に馬車に入れたようだった。

「ありがとうございました。これで、母も、俺たちも」

 一礼の後。そこまで、ロリオが言ったぐらいだった。


「かあちゃん?」

 ロリオが、シェラドゥルーガに対して。


「かあちゃん。どこ行ってたんだよ、かあちゃん。俺、ずっと探してたのに、どこ、ほっつき歩いてたんだよ」

「ロリオ?どうした」

 震えながら、ロリオは、涙を流していた。

「かあちゃん。さみしいよう、かあちゃん。俺、ひとりぼっちだったんだよ。かあちゃんを、ひとりぼっちにしちまったんだよ。なあ、かあちゃん。ごめんよう、かあちゃん。なあ、許してくれよう、かあちゃん」

「しっかりしなさい。しっかりすると応えたじゃないか」

「かあちゃんがいなくなったら、どうすれば、どうすればいいんだよ。どうすればいいのか、わからないよう。なあ」

「連れて行きます。ロリオ伍長、しっかりしなさい」

 ビゴーとガブリエリが、泣き叫ぶロリオを抱えるようにして連れ出した。呆然としていたご内儀を、ペルグランが送ってくれた。


 シェラドゥルーガは、震えていた。


「まさか、“悪戯いたずら”をしたのか?おもかげを見せたのか」

「見せてない。私は、なにも」

 かぶりを振るばかり。怯えて、がたがたと。

 肩を、掴んだ。母親を喰らったときと同じような、瞳。

 戻ってきたのか、虚無が。

「虚無にもおもかげがあるのか?さっきみたいに、それが出てきたのか?」

「わからないよ。もう、何もわからない」

 力が、抜けた。

 抱きとめていた。ぐったりとした、美しい肉体。腕の中で、浅い呼吸でいた。

「もう、疲れたよ。我が愛しき人」

 それだけ言って、目を閉じてしまった。


(つづく)

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