3−7
馬車一台、到着した。中から出てきたのは、
シェラドゥルーガ。今回は“
「遠いところ、ご苦労だった」
「お気遣い結構。久々の外だが、気は重いのでね」
美貌の眉間には、皺が寄っていた。
ペルグランを通して様子を見ていた。それで、この通りである。おそらく、今までに見たことのないほどに程度が悪いのだろう。
祝日である。ほぼすべての人員は、休みとしていた。いたとしても、シェラドゥルーガと面識のある人間がほとんどである。
少し休憩を入れてから話をはじめる。そう告げて、別棟の司法解剖室に招いた。密室で、音も漏れにくい。秘密の話をするには持って来いの場所だった。
実際に様子を見た面々に加え、アンリとスーリを入れていた。ふたりとも、
「認知症と呼ばれるものです」
ムッシュから、前提を説明してもらった。
「巷では
そこまで一息で、言い切った。
不治の病。現在の医学では、治療法はない。
本人の状態もそうだが、問題はその周囲である。家族や親類、それぞれの近隣に至るまで、まさしく予測不可能な災害と化す。
あれは、嵐だった。いつか誰もが発症しうる、人の心の大竜巻だった。
「患者に対する理解が必要になってきます。だが、今まで述べた通り、相当に難しいことです。ロリオ伍長やご内儀はよく頑張っていますが、時間の問題でしょう。山に棄てるなり、座敷牢にぶち込むなりするほどのものだというのに。えらいもんですよ」
「それでいえば、ガブリエリ君の反応こそ、まさしく私の反応だ。あれほどのははじめて見た。ペルグラン君の頭の中で、腰を抜かして怯えていたよ」
シェラドゥルーガ。用意した椅子にどっかりと背を掛けて、天を仰いでいた。
「普通はそうなんです。特に少尉たちのような若い子には、より
あるいは自分に、それを当てはめたら。
そこに行き着いて、ダンクルベールはそっと目を閉じた。
「だそうだ、ガブリエリ君。決して恥じることはない。私はペルグラン君の中にいて、彼の勇敢な行動を見ていたが、頭の中は真っ白だった。無我夢中、いやパニックを起こしていた。体だけが動いている状態だ。結果としてご
ペルグランが、傷を負っていた。
錯乱した母が舌を噛みそうになるぐらいになっていたところに、自分の腕を無理矢理に噛ませたのだ。
アルシェの応急処置とアンリの手当で、すぐによくなりそうだった。
全員の顔を眺める。明るい表情のものなど、ひとりもいない。
それでも、
組織の長として、ダンクルベールには、その責任があった。
「ロリオの願いを聞くべきか。今一度、議論したい。俺は、お前たちを含め、警察隊の皆にはできうる限りのことをしてやりたい。だが今回ばかりは、そのできうる限りが、具体的には思い浮かばない。情けない話だが」
「ガブリエリ、先んじて具申いたします」
美麗の長身。起立し、敬礼。立派な姿。
「長官と同じく、正直に、何ができるかは思いつきません。恥ずかしい限りです。ですが気持ちだけでも汲んでやりたい。差し伸べられる手があるなら、そうしたいです」
燃え盛るような、しっかりとした眼差しだった。見慣れた美貌よりも、そっちのほうに心を掴まれた。
「よし、立ち直ったな。アルシェは?」
「やめとけ、ですかね」
対して、ぼそりと。
顔を見る。仏頂面が、苦悶で歪んでいた。
「伍長も奥さんも、破綻寸前まで張り詰めている。あの状態で母親だけが死んだら、張り詰めたものが途端に千切れる。つまりは心が壊れる。心の死は、肉体の死に繋がる」
アルシェは、心を取り扱うのが仕事だった。そういうものを見るのは、人一倍だった。
「俺はそれで、何人も死なせてきた」
苦いものを、噛んだように。
拷問はときに、死につながる。拷問官にとっては敗北であり、屈辱である。
そしてそれ以上に、人を殺したという、ひとつの経験。
それをありがたがる人間は、数少ない。
「汗を拭きなさい。紙巻も、吸っていい」
促した。自分もそうすると、アルシェとガブリエリも、それに倣った。
相当に心が荒れていた。この男をして、そこまでに、きついものだったのだろう。
「それでもやるんなら、家族丸ごと全部まとめてやっちまった方がいい。それなら夫人ではなく、スーリの方が適任だろうが、どのみち誰も幸せになれない。それなら、全部やるか、全部やらないか。それだけです。以上」
言い切ったようにして、天を仰いだ。
アルシェは議論において、必ず正論を言う。あるいは極論を。それを念頭に置くことで、話は進めやすくなる。
だからこそ、いつも真っ先に意見を求めていた。
「ムッシュは、どうだろう?無理はしなくていい」
「大前提として、死は救済ではありません。別れです」
泰然としていた。こちらは、死を扱う男である。
「残されるものがいる。アルシェの言い分は正しいが、残されるものにも、生き甲斐があれば生き残れる。かけれる時間を使って、ちゃんと準備をさせてあげれば、あるいは」
「ムッシュ。あんたのその優しさを俺は尊ぶ。だが、同時に危うくも思う。下手をすればあんたもまた、壊れるぞ。それならいっそ」
「この私を甘く見てくれるなよ、若造」
噛みつくようなアルシェの声を、一刀のもとに
真っ黒な目。それに、アルシェがひるんだ。
「我ら代々の死刑執行人は、残されるもののためにも、人を殺してきたのだ」
朗々と、そして傲然とした声。
ムッシュ・ド・ネション。万人に死を下す、公平なるもの。生涯最後の立会人。
だが、そこまでだった。ため息ひとつ、その瞼が閉じた。
「だが確かに、難しい。アルシェの言い分に理がありすぎる。理解はできるし納得もできるが、だが賛同はできない。これで、ご勘弁願えますか?」
「わかった。外して、少し休んでくれ。今回はお前が一番、負担が大きいはずだ」
「ご配慮、感謝いたします。お気持ちだけで」
ムッシュは、動かなかった。あるいは、動けないのやも。
「アンリエットは、聞くまでもないな」
「
それでも、その顔も声も暗かった。いつもの毅然としたものではなかった。
やはり動いたのは、アルシェだった。
「あえて言うぞ。実際にあれを見ても、まだそれが言えるんだろうな?その覚悟は決まってるんだろうな?」
「絶対に、なんらかの方法があるはずです。治療法以外にも、別のアプローチが」
「そこにたどり着くまで、どれだけかかる?たどり着く前にすべてが崩れ去ることだってありうるんだぞ」
「尽くせる手を尽くさずして、諦めたくはありません」
「そこまで。そうでなくては、
ぱん、と。手を鳴らして。お互いの目を見る。特に、アルシェの目。
何か、頷いたようなものを感じた。
「アルシェ。これ以上、悪役をやらなくてもいい。楽にしなさい」
それだけ、告げた。
安心したように、アルシェが椅子に腰掛けた。持ち込んでいたウイスキーをグラスに注ぎ、一息に煽った。各位、飲み物などを自由に持ち込むようにだけ言っておいた。
汚れ役をやる男である。自分の心がどれだけ平静でなくても、やれてしまう。強さか、あるいは優しさからか。
「本部長官さま。どうかお願いです。私に、ご
「やめなさい、アンリ。あれはもはや、そういう程度のものではない」
咎めたのは、シェラドゥルーガだった。その眼差しと声に、アンリが震えながら瞼を閉じた。
「スーリ。アルシェすらこの通りだが、殺せるか?」
「隠れて、見てました。絶対にやりたくないっす」
「どれだけ積んでもか」
頷く。既に、難しい表情だった。
「人を山ほど殺してきました。死ぬ前に、人は本性を見せる。受け入れるもの。命乞いをするもの。抵抗するもの。おっかさんは、それを長いことやってるんでしょうよ。最後の直線、駆け上がりに入ったはいいが、ゴール板が見つからない」
そこまで言い切って、スーリが顔を覆ってしまった。
「一番苦しんでるのは、あのおっかさんだよ」
震えた声。ひとごろしの、声で。
「あれを殺すってなれば、かなりの準備がいります。特においらの、腹を括るための、準備が」
「痛いほどわかるが、それをやらされるであろう、私の前で言わないでほしかったなあ。しかも、私が用意していたものより洒落た表現でやってくれるとはね。可愛いやつだよ」
相当うんざりした様子で、シェラドゥルーガが漏らした。
「私からも。喰う側としては、食あたりすることが分かりきっているものを喰うなんて、正直に気が引ける。アルシェ君の言い分は正しいが、三人分はかなりきつい。絶対に腹を下す。私は人でなしだから、ムッシュもアンリも管轄外だろう?私専用の胃薬があるというのなら、話は別だけどね」
「腹を下すと、やはり嘔吐か、下痢か」
「両方かもしれん。人前で無様を晒すのは淑女の恥だが、それ以上の問題がある。先にお前には言ったつもりだが、中のものをぶちまけるんだ。街ひとつ、汚染しかねない」
たん、と。灰皿に
「やらせたいのなら、ヴァーヌ聖教の異端審問官どもを束で用意してくれ。
吐き捨てるような言い方だった。侮蔑ともとれるような。まるで、過去に経験があるような。
となれば、それをやらせるべきではない。
「ひとり分にしよう。お互いのためにもな」
「あとは、ちょっとした発想の転換だ。伍長とご内儀を死なせて、ご
その言葉に、ガブリエリが飛びかかった。
シェラドゥルーガの喉元を両手で締め付けた。眉目秀麗な顔を真っ赤に怒らせて。碧眼が、わなわなと震えている。
「そうだ、それが正しい。いずれ君が人の上に立ったとき、忠信に罰を
つとめて冷静に、そして穏やかに。
眼と手で促す。それで、ガブリエリは手を放した。
「つまり?ここには正解も、最適解もないってことですね」
部屋の隅でかがみ込んでいたペルグランが、頭を掻きながらぼやいてみせた。あえて椅子に座らず、そうしていた。
「偉いな、ペルグラン。その通りだ」
「では、思ったことを、思ったままに」
顔を上げた。目が、そうは言っていなかった。
「おやじさんもそうですが、安請負をしたのがそもそもの間違いです。警察隊の大事な一員だからといって、いち家庭の問題でしょう?わざわざこんな
「その言や良し。ガブリエリ、言ってやれ」
「それをやったら、ペルグラン。誰もついてこなくなるぞ」
がん、と叩きつけるような言い方だった。
両者の目。真っ直ぐなガブリエリ。どこか達観した、ペルグランの目。
ガブリエリの言葉を促したのだろう。ほんとうはそれを言いたいが、ガブリエリが言うほうが、説得力があるから。
ペルグランも、そういう小細工をできるようになった。あるいは私から俺になり、ニコラ・ペルグランの最期を吐き出すということを経たから、手に入れたものかもしれない。
隣においておくには、十二分以上のものである。
「そういうことだ。両名ともいいことを言った。これでこそ、うちの両翼を担う駿才ふたり。これからの二枚看板だ」
ペルグランは屈んだまま、わざとらしい会釈をした。
ここには正解も、最適解もない。まさしくその通りだ。
「おっかさん、だな」
しばらく置いて、決めたことを口にした。
「本部長官さまっ」
「アンリエット。すまんが、外しなさい」
「諦めたくない。私は、絶対に」
「ペルグラン、連れ出せ」
わかっていたように、ペルグランがアンリを促した。アルシェとムッシュもそれに加わった。
少しして、アルシェとムッシュだけ、戻ってきた。
「可愛いこちゃんを泣かせたね。色男の面目躍如だ」
スーリが、小馬鹿にするように節をつけながら、それでも疲れた声で言った。
「そうだな。さて、カードを決めよう。手札は、スーリ、ムッシュ、そして俺とシェラドゥルーガ。一番準備が早いやつを使う」
「私だな。今日でもいける。いや、今日がいいぐらいだ。皆の腹が決まっているうちに済ませよう」
言い切る前に。シェラドゥルーガだった。
「場所はどうします?あんたの寝ぐらかね?」
「どこでもいい。ちょっと広めで、汚してもいいところ。ここがちょうどいいんじゃないか?」
「あんたやっぱり、おっかさんを食い散らかすつもりか」
「ガブリエリ君。私も淑女だ。テーブルマナーは心得ている。問題は、汚れるのはその後だ」
言葉と眼で制するだけで、ガブリエリは控えた。
「腹を下した時、ですかな」
「ご
「こんな仕事を連中に任せて怪我でもさせてみろ。セルヴァンに怒鳴られる」
「お前の杖とパーカッション・リボルバー。あとはムッシュの首切り剣法。どうせ殺されるなら、手並みのいい男たちに委ねたい。すまんがどうか、頼む」
「よし。ガブリエリ、ロリオに通達。おっかさんと一緒に来てもらうよう、伝えてくれ。つとめて丁重にな」
「はっ。行って参ります」
さっと、ガブリエリが退出していった。
ほんとうに、真っ直ぐな男である。それがなによりの美点ではあるが、扱いに困る部分も見えてきた。
ペルグランもそうだが、若手ふたり、どう仕上げるべきか。ここが見極め時かもしれない。
「我が愛しき人が気を利かせて、手札から外してくれたことだ。アルシェ君も少し、休みたまえ」
一息を入れるようにして言ったのは、シェラドゥルーガだった。
アルシェは、人の心に鋭敏なところがある。だからきっと、あの苛烈な拷問でも、殺す前で踏み留まれる。そう思っていた。
だから、手札から外した。きっと殺せないから。
その言葉に、ようやくアルシェも、いつもどおりの仏頂面に戻ったようだった。
「どうしても、思い出しちまいます。でも、あのときのほうが随分ましでしたよ。あんたを含め、周りに人がいましたから」
「そうだったね、ラウリィ。今回は息子夫婦だけか。そりゃあ余計につらいよね」
違和感。
ふたりの顔。やけに穏やかだった。
ムッシュとスーリの眼。困惑。自分と同じものを、感じているようだった。
「お前たち。何の話をしているんだ?」
それを、言葉に出した。シェラドゥルーガとアルシェ。ふたりとも、怪訝な表情だった。
「おや?それで、アルシェ君を外したんじゃないのかい?」
「俺もてっきり、そう思ってました」
それ、がわからない。首を振る。
ふたり、おもむろに顔を合わせて。そうして、吹き出すようにして笑った。
「私とアルシェ君。ガンズビュールのころ、ご近所だったんだよ。斜向かいのデュトワさんのとこで、家族で住み込み奉公しててね。言ってなかったっけ?」
シェラドゥルーガが、笑いながら言ってきた。
面食らっていた。聞いていない話だし、それが今、何に繋がるのかも。
ガンズビュールの邸宅の斜向かい。確かに、大きな屋敷があった。ガンズビュールは別荘地だが、あの屋敷は別荘ではなく、本邸だった。住んでいたのは為替取引か何かをやっている資産家で、結構な大所帯だったと記憶している。
「子どものころ、そこの爺さまが同じもの患いましてね。ほんとう、こわくって。兄貴とふたり、夫人が手伝いに来てくれるたびに泣きついたもんです」
アルシェも、口元が綻んでいた。たまに見せる顔である。
ひとつ、思い当たる節があった。シェラドゥルーガとアルシェを、はじめて会わせたときである。
シェラドゥルーガの悪いくせが、なかった。はじめて会う人間に対し、弄んだり、貶めたりするのだが、アルシェに限って、それをやらなかった。
そんな奇縁があったとは、思いもしていなかった。
「たまにうちのことも頼んでたんだよ。お父さんとクリスが外のこと。お母さんと、ラウリィことアルシェ君が内のこと。そういや、君んとこ全員ダニエルだったよね?私、お父さんに向けてダニエルさんって呼んだら、三人、返事しちゃってさあ」
「ありましたねえ。親父がマチアス。兄貴がクリストフ。んで俺がダニエル・ラウル。それとメタモーフのとき、おやじさんと長官とで、うちのご主人さんところに来てましたよ。覚えてませんか?」
アルシェの言葉に、思わず頭の中を探っていた。
確かに、立ち寄っている。三十年前。アルシェの年齢からすれば、子どもも子どもである。ただ、そういう子どもがいたかどうかは覚えていない。まして、そこの爺さんが認知症になっていたとは、まったく知らなかった。
そこまで行き着いて、はっとした。
子どものころ、あれを見たとなれば、きっと心の傷になっているのだろう。
だからアルシェは、必要以上の仕事をしたのだ。ムッシュやアンリに、同じ思いをしてほしくないから。
ムッシュを見る。笑っていた。きっと同じところに行き着いたのだろう。スーリもやはり、笑っていた。
「俺も、気が回らんものだな。子どもの頃のいやな思い出を、また見せてしまうとは。ほんとうに、すまないことをした」
「いえ。むしろ、忘れないようにしないとね。誰しも、なりうるっていうんだから」
声は、明るかった。笑ったことで、つとめて保っていた荒れたものが、晴れたのかもしれない。
「誰もが目を逸らしたがるものから目を逸らさないことも、
アルシェの仏頂面が、口元だけ綻んでいた。相変わらずの寝ぼけ眼のままで。
不気味な男。はじめて会った時に、そう思った。眼が、何も語ってこない。何を考えているのかわからない。
それがわかったのは、ほんとうに些細なことだった。
ラウルさんはね、何も考えてないんです。そこが可愛いの。
妻であるサラの惚気話だった。行きつけのビストロで鉢合わせて以来、家族付き合いになっていた。
驚きと同時に、納得もした。捜査官として、目線や仕草から何かを読み取ろうというのは、一種のくせである。何も考えていないことは、一番わかりづらいのだ。
汚れたもの。あるいは人の闇。何も考えていないからこそ、それから目を逸らさずにいられる男。
だからこそ、拷問や奸計など、極端な事ができる。正論を言うことができる。自分の意見を通したいとかではなく、必要だからそれを出しているだけ。別の手段でも、目的地にたどり着けさえすれば、それでいい。
ある意味では横着といってもいいものである。
鋭敏であり、横着でもある。それはあるいは、至って普通のことなのかもしれない。
その場は一度、解散とした。各自の準備に入った。アルシェは、アンリとペルグランのもとに向かわせた。
「そういえば、世間話だが」
控室にて。ひとつだけ、シェラドゥルーガに確かめておきたいことがあった。些細な話である。
「アルシェをはじめて連れて行ったとき、ワインではなくウイスキーを出していたよな?何と言うか、匂いが強いやつ。ヨードとか、そういう匂いだったはずだ」
それだけ、引っかかっていた。
指定がない限り、シェラドゥルーガは、客人のもてなしにワインを用いる。ペルグランの時のように、それを使って小馬鹿にしたりもする。
それがアルシェに限り、ウイスキーだった。それも独特な匂いのもの。
ただアルシェも別段、気にする様子もなく、それを楽しんでいた。ボトルまで持ち帰らせていた。今日、アルシェが持ち込んでいたのも、その銘柄だった。
アルシェが前職でシェラドゥルーガと接触済みだったのか。もはや壊滅した組織ではあるが、今後、何があるかともわからない。念の為、確認しておくに
「ああ、あれね」
ひと笑いして、気が楽になったのだろう。いつもの不敵な笑みで返してきた。
「デュトワさんが大好きなお酒。はてさて、覚えているかなっていう、ちょっとした“
指を鳴らしながら。
目を丸くしてしまった。
「グレロッホの十年。確かに臭いやつだ。麦を乾燥させるのに使う
「それであればひと安心だ。前職で接触していて、酒の好みを把握していたのかと思ったのでな」
悪いくせ。ご近所に勤めていた奉公坊主に対して、お久しぶりの挨拶代わりとしてやっていたのだ。
なんとまあ、わかりづらいことをする。迷惑だと思った反面、胸のつかえも取れた。
これで心置きなく、ことを成せる。
ムッシュ。当時の装束を用意してきた。人を殺めるための、心の鎧。そして、そのための大剣を引っ提げて。
その顔は、穏やかだった。そしてその瞳も。
「心優しいラポワントさま。そして我が愛しき人」
穏やかな言葉の後、表情は、毅然としたものとなった。
「私を託す。私が私でなくなってしまいそうになったら、やってくれ。ひと思いにどうか、お願いします」
死を、託す。この化け物だからこそ、できること。
以前に言っていた。自分は心の生き物。だからこそ、肉体の死で、死を迎えることはない。しかし、疲れはするとも。
そして疲れはいずれ、心を蝕み、殺すとも。
殺し続ければ、その豊かな心は、死ぬ。それがシェラドゥルーガとしての、死。
それを託す。
無理を託したのだ。応えねば、道理にも、これの愛にも反する。
「わかっている。そのための俺たちだ。何度でも殺す。お前のために、全力を尽くす。今までと、同じように」
「ま。旅路とは、帰り道があるものです。どうか、お気を楽に」
ムッシュは、いつもどおりに朗らかだった。それが何より嬉しかった。
シェラドゥルーガ。近寄ってきた。頬を取られ、そこにベーゼをくれた。ムッシュにも、同様に。
これが別れにならないように。それだけは、線を引きたかった。
司法解剖室への廊下。その扉の前に、影がひとつ。
差し込む夕日に照らされ、小柄な体は、燃え盛るように赤かった。
「どけ、アンリ」
向こう傷の聖女、アンリエット・チオリエ。
「何人たりとも、ここは通しません。通せません」
「どけと言った。私が、どけと言ったんだぞ、アンリ」
「どきません。
眼が、決意に染まっていた。
誰よりも頑迷だった。一度決めたことを絶対に覆そうとしない。だからこそ、傷を負っても、人を救えた。
シェラドゥルーガの美貌が、悲しみに歪んだ。
「私に、お前の傷を増やさせるつもりか?あるいは鼻でも削がせるつもりか?頼むよ、私の可愛いアンリ」
「傷が増えようと、腕や足が飛んでいこうと、私はここを」
「どけと言ったのだ」
「どかないと言ったんだっ。シェラドゥルーガ」
叫んだ。ほぼ同時だった。
動揺が強かったのは、シェラドゥルーガの方だった。
「アンリ。お前が、お前までもが、その名で呼ぶのか?」
奥歯の軋みが、こちらにまで聞こえるほどに。
「そうだ、シェラドゥルーガ。何度でも呼んでやる。我こそは
足を広げ、両手を広げ、じっとこちらを見据えている。小刻みに、確かに震え、脂汗を滴らせながら、それでもアンリは炎の壁の如く、自分たちの前に立ちはだかっている。
シェラドゥルーガが、指を鳴らした。アンリが、思わずと言った感じで、顔を逸らした。
戻したその顔の、あの向こう傷。僅かではあるが、血が滴り落ちてきていた。
それでも、アンリはその場を動こうとしなかった。大声を聞きつけたであろうペルグランが、慌ててアンリを離そうとするが、一顧だにしない。
ペルグランに、目で制した。もはや、止めようのない状況だった。
そうして一歩ずつ、両手を広げながら、アンリはゆっくりと迫ってきた。シェラドゥルーガの、眼の前まで。
「課せられたもののため。我は聖なるものとして、恐ろしき
決意の言葉。かすれた、それでも清らかな、
「これでひとつでも多く、
そこまで言って、大きく息を吸った。
「そのために。この傷と名を、負ったんだっ」
咆哮。
圧された。この小さな娘に、圧し切られた。ダンクルベールたちは、動くことすらできなかった。
そんな中、シェラドゥルーガだけが、わなわなと体を震わせていた。
苦悶と、悲憤の、形相で。
「この、くそたわけがっ」
今度、叫んだのは、シェラドゥルーガだった。
アンリの襟首を掴み上げ、床に叩きつけた。
うめき声。立ちあがろうとして、また、這いつくばる。それを、何度も繰り返している。
「決めたことを、覆そうとするんじゃない」
シェラドゥルーガ。腹の底から、絞り出すような声。
つらいものを見てしまった。つらいことを、させてしまった。人でなしに挑んでまで、人を救わせようとしてしまった。
呼ぶべきではなかった。それだけ、悔やんだ。
進もうとしたが、それはすぐに止まった。
シェラドゥルーガの足に、アンリがしがみついていた。
「アンリ、もうおやめ」
「いやだ。行かせない。行かせるか、行かせるものか」
「アンリさん。どうか、どうかもう、これ以上は」
ムッシュとペルグラン、ふたりで引き剥がそうとするが、アンリは必死の形相でしがみついていた。
ああ。これが、これこそが
見ていられないが、今は、見ていることしかできない。
「その手を離せ、愚かなるアンリエット・チオリエ。私に、お前を星にさせてくれるな」
もはや悲しみが、一番前に出ていた。怒りも苦しみも悲しみも、すべてを混ぜっこんだ、聞いていたくもない声だった。
「死んだって離すものか、シェラドゥルーガ。そのために、私は生きているんだ。そのために、生きてきたんだ」
「私は、お前を」
「行くならば、殺せ。殺して、それでも離さぬ私の手を投げ捨てていくがいい。私のような虫けらのごときものぐらい、お前には容易いことだろう。さあ、やれ。やるがいい、シェラドゥルーガ。それでも私は、神たる父と
まるで聖句のような、その叫びが、決め手だった。
「言ったな?」
シェラドゥルーガの
変わった。けものの目。人でなしの、目。
「よせ」
ようやく。
振りかぶりかけた手を掴み、ダンクルベールは静かに、それを制した。
見ていられるのは、ここまでだった。
「駄目だ」
つとめて穏やかに、ゆっくりと告げた。
けものの目が、こちらを向く。しばらくじっと、見つめ合う。
一度、手を離し、杖を握り込む。
それを、アンリの体に打ち据えた。叫び。目の前のけものの目が、一瞬、びくりと跳ね上がった。怯え。もう一発。また、悲鳴が上がった。目に、怯えがどっと広がっていった。
じわじわと、怒気が萎んでいくのを感じた。燃え盛っていた
残ったのは、泣きじゃくっているアンリだけだった。
「ペルグラン。アルシェの手が空いている」
それだけ伝えて、瞼を閉じた。音だけで、すぐにペルグランが、アンリを抱き起こして連れて行くのがわかった。
「我が、我が愛しき人。なぜ?」
「お前があれを殺すぐらいなら、俺がやる。俺のやったことなら、俺が責任を取れる」
声は、すっと出た。瞼も、開けることができた。
全員が納得できる答えを出すことなど、できない。それでも、納得させたかった。
それができなかった責任は、取る。
シェラドゥルーガは、震えて小さくなっていた。ゆっくりと、怯えた目で、ダンクルベールの頬に両の手のひらを添えてきた。
今にも泣き出しそうな表情だった。
「ああ、ああ。私はお前に、あれを傷つけさせたのか?私たちの可愛いアンリを、お前に傷つけさせたのか?」
「今は考えるな。心を、乱すな」
しなだれかかるように、胸の中に入ってきた。抱いてやる。時折、伺うように向けてくる目が、懇願の色に染まっている。体がまだ、震えている。それが収まるまでは。
互いにとって、そして誰にとっても。あれの決意や使命を邪魔することなど、許されていない。だからこそ、ダンクルベールがやるべきだった。
「行きましょう。さっさと終わらせて、そして皆で、アンリに詫びに行きましょう」
ムッシュは、つとめて平静だった。
司法解剖室。
「坊や。わたしの可愛い、坊や」
母親は、解剖台に腰掛けていた。
こちらをみとめるなり、優しく声を掛けてきた。表情も、温かかった。
きっと今まで、そういう顔だったのだろう。
「そうだよ。かあちゃん」
ロリオの声だった。いつもの、ちょっとした“
「どうしたんだい?そんなに泣いて」
「ちょっとだけ、つらいことがあったんだ。でも、大丈夫」
「そうかい。それはよかった。お前は泣き虫だからねえ」
「そうだね。かあちゃん。さあ、もう夜だ。寝る時間だよ」
「おや、もうそんな時間だったかね」
「そうだよ。明日は晴れるみたいだ。そろそろ芋掘りをしなくっちゃね。そうしてまた、人参とか腸詰とかと一緒に、煮てくれよ。俺、かあちゃんのポトフ、大好きなんだ」
「そうだよね。お前は、あればっかり食べるから」
「そうだね。おかげで、こんなに大きくなった。かあちゃんのおかげだ。ありがとう、かあちゃん」
息子の手が、母親の体を抱く。ゆっくり、それを横たえた。
穏やかな光景だった。いつも、こうあってほしいと思う姿だった。
「じゃあ、また明日。かあちゃん、おやすみなさい」
「おやすみなさい。どうか、いい夢を見るんだよ」
錯乱していたはずの老婆の声は、どこまでも優しかった。横たわった母親の目を、その手がゆっくりと閉じた。
ひとつの
そのうちに、シェラドゥルーガの体が、痛みを堪えるかのように、わなわなと震えはじめた。何かを察して、影ひとつ、横たわる老婆の亡骸に駆け寄った。
「スーリ君、早く」
「用意できてる、夫人。もうゲロって大丈夫だ」
スーリが、老婆を抱き抱えて消えてゆく。それとほぼ、同時だった。
崩折れる。もがき、苦しみはじめた。目を大きく開き、ただ狂ったように叫びはじめた。指を口の中に突っ込んで何かを吐き出そうとしているが、嗚咽ばかりで何も出てこない。髪をかきむしり、突き出した舌で、喉が詰まりそうになっている。あるいは自分の首を、自分の両手で締め付けながら、それでも悲鳴を上げ続けた。
はじまった。母親が巨大な嵐となって、あの中で暴れ回っている。
「我が愛しき人、ああ、我が愛しき人」
声に思わず、杖を投げ捨てて駆け寄っていた。
抱きとめる。目の焦点があっていない。表情に、恐怖だけが張り付いている。涙を流したくても流せないような、震える目。
「どこだ?そこにいるのか、我が愛しき人?忘れてしまう。いやだ、忘れられたくない。ああ、頼む。六発全部、撃ってくれ。これに、耐えられない。助けて、ねえ。お願い」
わかった、と叫び、パーカッション・リボルバーを引き抜いた。口の中に、銃口を突っ込む。
破裂。彫刻のように美しい肢体が、弓なりに仰け反った。
ダンクルベールは立ち上がりながら、もう二発撃った。それでも苦しみに叫びながら、ただ自分の名を叫び続けている。
「ねえ、どこなの?早く、お願い。ああ、リュシアン、愛してるの。だからお願い。わたくしを忘れないで。リュシアン、もう貴方と離れたくない、わたくし。もういやよ、もう。寂しいの」
口調が、ボドリエール夫人にまで戻ってしまっている。シェラドゥルーガでは、なくなっている。
早く、早くしなければ。何者ですらなくなってしまうのかもしれない。
爆音。閃光。轟音。撃ち切った。それでも、人の姿を保ちながら、人でなしですら、なくなりつつある。床を転げ回りながら、泣き叫んでいる。
換えの弾倉。もうふたつ、持ってきていた。撃鉄を起こし、引き金を引く。その度に、女の肢体が跳ね上がる。悲鳴と、懇願。すべて打ち切っても、止まる気配がない。
断末魔。耳が、痛くなってきた。
杖を拾う。鉄心入り。何度も、本気で叩きつけた。何度か頭がなくなって、それでもどこかからそれが生えてきた。
立ち上がった。よろめきながら、何も見えていないようにうろつき回る。壁に、叩きつける。殴りつけ、杖をぶっつけ、それでも叫びだけが止まらない。
「ダンクルベールさま。ああ、ダンクルベールさま。どこなの?助けて」
あの頃の声。吹き荒ぶ嵐を前に、それでも疲れが先に来た。左足が、悲鳴を上げはじめる。
「駄目だ。ムッシュも、頼む」
「相分かった。夫人、痛むぞ」
ムッシュが、でくのぼうとなった自分の体を押し退けて前に出た。朗々と、そして毅然と響く声。
携えた大剣を振りかぶって、ぶっつけた。壁に一度弾んでから、跪く形になったところを、ひと呼吸、一気に振り下ろす。
無音。
首が静かに、床に落ちた。
遅れて、血が舞った。それでも動こうとする体を蹴って、仰向けに転がした。
大剣を放り捨て、それに馬乗りになってから、胸元から取り出した短剣で、心の臓を狙って振り下ろす。音すらない、鮮やかな手並みだった。また頭が生えてきたので、それを押さえつけ、頸動脈。何度も、血飛沫が上がる。心臓を、喉首を、あるいは両の目を。淡々と無表情で殺し続ける。刃が風を斬る音や肉を割く音は一切聞こえない。あるいは、悲鳴すらも。
ムッシュ・ラポワントだ。
戻ってきた。いや、戻してしまった。豊かな心を押し殺し、ただ人を殺め続けた男に。
そのうち、動かなくなった。ムッシュとふたり、血だらけで、汗だくになって。肩で息をしながら、一旦距離を取った。
ムッシュの目を見た。ちゃんと、光がある。それに気付いたのか、向こうもこっちを見つめてきた。大丈夫です。そう、目から聞こえた気がした。
もうふたりとも、万策尽きていた。
しばらくして、それはゆっくりと、起き上がった。へたり込んで、やはり大きく目を開きながら、それでも目の焦点が戻ってきている。肩が大きく上下し、震えながら。
その姿には、自我を感じた。
「ああ、ああ。ようやく、我が愛しき人。ようやく」
戻ってきた。戻ってきてくれた。
ゆっくりと、怯えた目で、それでもシェラドゥルーガはシェラドゥルーガの声で、こちらに顔を向けた。血だらけの、誰よりも美しい顔を。
「終わったか。終わったんだよな」
「ああ。終わった。顔を、見せてくれ。覚えているか、確かめさせて」
ダンクルベールが近づくと、シェラドゥルーガは震える両手を差し出してきた。それを取り、自分の頬に添えてやる。
「ああ、リュシアンだ。我が愛しきオーブリー・リュシアン。よかった」
「ありがとう。そして、おかえり」
そうしてしばらくすると、表情に安堵が戻ってきた。息も整ってきた。疲れ切ったように、重そうな瞼を閉じた。
「膨大な、虚無だ。見果てぬ虚空だった。私はこんな恐ろしいものを、人の心からは見出したことがない。あれはすべて、すべて忘れ去っていた。過去も、家族も、自分自身すらも」
嵐がひとつ、過ぎ去ったのだろう。叫んで枯れた喉で、それでも穏やかで静かな声で、言葉を綴っていた。
「ムッシュ。なにか飲み物があれば。できれば、少し温かいものを」
相分かった。そう言って、ムッシュが静かに、部屋から出て行った。
へたり込んだシェラドゥルーガを、一度抱きかかえ、壁の方に向かった。血の海の中、並んで床に座った。
シェラドゥルーガの頭が、ダンクルベールの胸にもたれかかってきた。腕を回して、頭を撫でてやった。
「つらい思いをさせた。お前にも、そして、皆にも」
それで、また少し、落ち着いたようだった。
「強いひとだった」
ぽつりと、シェラドゥルーガがつぶやいた。
「ずっと抗い続けていた。忘れることを。忘れ去られることを。ずっと、ずっと長い間。一番、苦しんでいたんだ」
その嘆きが、その叫びが、あの衝動的な嵐だったのだろう。そう思うと、理解できたし、また、悲しくなった。
あんたたち。奪いにきたんだろ。うちには何もないんだよ。あんたたちが全部、持っていったじゃないか。
老婆の叫びが何を言いたかったのか、理解できた。
「心を蝕まれることがどれほどつらいことか、知っていたつもりだった。つもりになっていただけだった。あれには、私は耐えられない。自分自身を忘れるなんて」
「おっかさんは、お前の中で、どうなった」
「消えた。私の中の、他の
「つらいよな。忘れることも、忘れ去られることも」
言葉を選んだ、つもりだった。
もしかしたら、自分も、周りの人も、ああなるのかもしれない。恐怖だった。
尊厳を柱に生きてきた。それが崩れても生きなければならないなど認めたくないし、そして何より、そんな姿を人にさらすことなど考えたくもない。
そうなったら、拳銃でも使って自害するだろう。そのときに、握っているそれを何に使うのか、覚えていられているかはわからないが。
「鞄に、穴が空いていたの」
ふと、今自分が抱いているそれが、何か変わったような気がした。
「だから、こぼれ続けていく。でも、何を入れていたのかも覚えていない」
それは確かに、シェラドゥルーガの声だった。しかし、違った。ボドリエール夫人でも、シェラドゥルーガでもない、誰かの声。
「ねえ。神さま、お願い。夜だけでも返して欲しいの。眠るためだけの、夜を」
誰のかも知らない、誰かの、ぽつりとした、悲しみ。
「シェラドゥルーガ?」
問いかけに、はっとした表情でこちらを見上げた。目の中に恐れと不安が広がりはじめた。体が、また震える。
「今のは、何?我が愛しき人。私?」
わからなかった。ダンクルベールは、ただ、首を横に振ることしかできなかった。
しばらく、震えるシェラドゥルーガを抱いていた。燃えるような
それでも、彼女の体は、恐れに
「お待たせしました。ホットチョコレートを、どうぞ」
ムッシュが入ってきた。着るものは、見慣れた簡素な医務服に変わっていた。むせかえるような血の匂いの中、それでもその優しい香りと、温かさが伝わってきた。
「ムッシュ、ありがとう。何度も殺してくれたおかげで、だいぶ楽になったよ。ほんとうに旅立ちを任せて、よかった」
まずは、湯で清めたのであろう温かい拭きものを、それぞれに手渡してくれた。それで、顔や手を拭った。真っ白だったそれは、すぐに血でどろどろになった。
その後に、ホットチョコレート。器が、温かかった。少し口にして、ようやくすべてが終わったのだと実感できた。
「ああ、染みる。温かい。生きてるのって、幸せだなあ」
すこし鼻声だが、穏やかな声で、シェラドゥルーガが漏らした。言葉通り、幸せそうで、穏やかな表情だった。
「やはり夫人でも、どうにもなりませんでしたか」
「どうにもなりませんでしたな。二度とごめんだ」
「あの病は、自分だけでなく、周りの環境すらも滅ぼす。それを貴女は取り込んだ。ああなりもするはずでしょうな。心の嵐と、虚無。替われるならば、替わりたかった」
「病人を断頭台に乗せるのは、医者にも処刑人にも、その資格はなかろうさ。皆にこんな思いを、させたくないしね」
「
アンリにも、そして、アルシェにも。
ペルグランが、何枚かの温めた布と、着替えを持ってきてくれた。ムッシュが着ているものと同じ医務服。ふたりとも、その場で身を清め、着替えた。
別棟の入口で、ロリオ夫妻と、ビゴーとガブリエリがいた。母親の亡骸は、先に馬車に入れたようだった。
「ありがとうございました。これで、母も、俺たちも」
一礼の後。そこまで、ロリオが言ったぐらいだった。
「かあちゃん?」
ロリオが、シェラドゥルーガに対して。
「かあちゃん。どこ行ってたんだよ、かあちゃん。俺、ずっと探してたのに、どこ、ほっつき歩いてたんだよ」
「ロリオ?どうした」
震えながら、ロリオは、涙を流していた。
「かあちゃん。さみしいよう、かあちゃん。俺、ひとりぼっちだったんだよ。かあちゃんを、ひとりぼっちにしちまったんだよ。なあ、かあちゃん。ごめんよう、かあちゃん。なあ、許してくれよう、かあちゃん」
「しっかりしなさい。しっかりすると応えたじゃないか」
「かあちゃんがいなくなったら、どうすれば、どうすればいいんだよ。どうすればいいのか、わからないよう。なあ」
「連れて行きます。ロリオ伍長、しっかりしなさい」
ビゴーとガブリエリが、泣き叫ぶロリオを抱えるようにして連れ出した。呆然としていたご内儀を、ペルグランが送ってくれた。
シェラドゥルーガは、震えていた。
「まさか、“
「見せてない。私は、なにも」
肩を、掴んだ。母親を喰らったときと同じような、瞳。
戻ってきたのか、虚無が。
「虚無にも
「わからないよ。もう、何もわからない」
力が、抜けた。
抱きとめていた。ぐったりとした、美しい肉体。腕の中で、浅い呼吸でいた。
「もう、疲れたよ。我が愛しき人」
それだけ言って、目を閉じてしまった。
(つづく)
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