3−3
黒いカーテンと、鉄格子。それが、開く。
いつもの応接間のレイアウトがいくらか変わっていたのには、すぐに気付いた。
「ああ、我が愛しき人。不作法お許しあれ。今日は寒くて」
夫人は、壁際の揺り椅子に座って、ゆらゆらと揺れながら出迎えてくれた。
温かいのが好き、と聞いているが、今日の姿も大概である。熊の毛皮のようなものを首元まですっぽりと巻き付けて、膝掛けも毛布ぐらいに分厚い、羊毛のものを使っている。いつもは見せびらかすようにしている肌色の部分は、顔ぐらいしかない。燃え盛るように広がった髪と相まって、ひとつの毛玉のようになっていたのが、なんだかちょっと可愛らしかった。
揺れ椅子の隣に、サイドテーブル。それと、小さな調理口をふたつほど備えた、古めかしくも味わいのあるストーブが置いてある。そこに
巨大な書庫でもあるこの牢獄では、きっと薪暖炉などは使いづらいのかもしれない。必要に応じて、このぐらいの小さなストーブなどで暖をとっているようだ。夜になったらここで眠ってしまってもいいぐらい、居心地がよさそうだ。
妖艶な美女の姿はしているが、おそらく何百年も生きている化け物である。ただ、こうやっている姿を見ると、そこらへんのお婆ちゃんみたいで、おかしかった。
「こちらこそすまんな。時間を取らせる」
「構わない。私は虜囚で、人でなしだからね。時間なんて山ほどある。お前がもう少し爺になって、目が霞むようになり、その職を辞する時が来たならば、きっと同じ気持ちになるだろうさ」
「ひとりぼっちの爺の、ひとり暮らしか。今のうちに何か、手慰みになるようなことを覚えておかないとな」
「ピアノがあるじゃないか?ガンズビュールのあの屋敷で、たまに弾いてくれたのを覚えている。上手だったよ。小さなものであれば、近所迷惑にはならんだろうに」
「もう弾けないさ。もとより娘たちのために買ったものだ。ついでで覚えたようなものだし、転居ついでに売ってしまった。今更買い直すのも面倒だよ」
「後で買っておくから。小さいやつ。弾きにくるといい」
挨拶程度の軽い会話をしながら、いつもの卓の方に移動してきた。もふもふとした
手にした盆には、きっと彼女と同じものが注がれたカップがふたつ。口にすると、ふんわりと甘さが広がった。なんだろう、と思って尋ねてみたが、ないしょ、の一言だけ。
不思議だったが、きっと、とても簡単なもので、そして何より、懐かしい味だった。
「単刀直入に。人ひとり、喰ってもらいたい」
ダンクルベールが話を切り出した。
「ほう?これはまた」
「警察隊の下士官。それの母親だ。病というか、そういうものを患っている。本人より、周りがもう、疲れ切っている」
その言葉に、夫人はくすくすと笑った。
人でなし。ガンズビュールの
「この化け物に、慈悲を与えろとでも?」
「認知症」
一転。夫人がぎょっとした顔を見せた。
「おい。あれを喰えというのか?」
身を乗り出して、ものすごい剣幕で言ってきた。それこそ、人を殺すような声で。
「曲げて頼む。無茶は承知の上だ」
そう言って頭を下げたダンクルベールに、しばらくして夫人は、呆れたような、そして観念したような顔つきで、腰をかけ直した。
その後、そばの棚から綺麗な塗りが施された、細長い木箱を取ってきた。開くと、豪奢な装飾が施された、細長く上品な
鮮やかな手並みで、煙草を炊き、静かにふかす。煙草は嗜まないが、それでも上質なものだろうと思うぐらい、芳醇な香りだ。
気に入らない時、気が乗らない時、夫人は
「ペルグラン君と、ちょっとお話をしようか」
夫人はおもむろに立ち上がり、ペルグランたちに背を向けた。何となくではあるが、話の内容はわかった気がした。
「君は、認知症、あるいは
「知識としては、あります」
「実際に見たことは?」
「ありません、夫人」
「君のような若者は、まして良家のぼんぼんだ、見る機会もなかろう。機会があれば見ておくといい。きっといい経験になる。あるいは大きな、心の傷になる」
そう。知識としてはあった。そして、見たこともない。その通りだ。あるいは、自分以外の、家族たちも。
「あえて君に尋ねたのは、君の大事なご先祖さま、曽祖父たるニコラ・ペルグラン提督も、晩年にあれを患ったと聞いていたからだ。ご存知かしらね?」
知っていた。きっと、これを尋ねてくることも。
小さな頃にいやいや読まされた、代々の家伝に記されていたので、脳裏に刻まれている。
呆けて、亡くなった。一文。ただ、それだけだった。
「ただそれだけ。そうだろうな。あれを言葉にすることは、とても難しい。病なのか。老いが、人を保つしくみを保てなくなったのか。ただ、若くとも発症しうる。見てきた。何人も。そして周りの人たちが」
「シェラドゥルーガ」
断ち切るように、ダンクルベールが言ってくれた。
「ペルグランに、何か強いものを」
多分、自分の顔に、それが出ていたのだろう。
「ごめんよ」
少しして、夫人はぽつりと、言ってくれた。
「大丈夫です。長官やムッシュにも、出しましたから」
ペルグランは、つとめて平静に言ったつもりだった。
出された透明なもの。放り込んだ。舌では何も感じなかったが、澱んでいたものが焼き払われた気がした。
「夫人。そして、長官」
また背を向けた夫人に、声を掛けた。
「不作法を承知の上で、思ったことを、思ったままに。あえてまた、お尋ねいたします」
知りたかったこと。確認したかったことを。
「夫人はなぜ、人を喰らうのですか?」
人ならざるもの。そして、頂点捕食者。
この第三監獄は、夫人にとっての
ヴィジューションから戻った後、一度、その場面に遭遇したことがあった。
思っていたものとは、まるっきり違った。四肢を引きちぎり、血に
口づけ、ひとつだけ。
ちょっとした“
人の血肉ではなく、また何か別のもの。それを夫人は食している。魂だとか、そういうものを。
「大好きだから」
嬉しそうな声だった。
「栄養価が高い。腹がふくれる。何より、美味い。それもあるが、それ以上に、その人そのものが大好きだからだ。愛しているから。その愛を失いたくないから。取り込んで、私の中で、ずっとしまっておきたい。時の流れで朽ち果てて、老いさらばえて消えてゆくぐらいならば。私の中で、私とともに。そう。ずっと、私の手を取り、歩んでほしいから」
背を向けたまま、弾んだ声で続けた。まさしく
「あのガンズビュールの時も。最終目的こそ、そこに座る男だがね。その途上で手にかけた人々も心から愛していた。そして何より、愛してくれていた。私が著作の中に仕込んだ“
そこまで言い切って、夫人の体が、わなわなと震えだした。
「ああ、美味しかったなあ」
歓喜の、声。絞り出すようにして。
振り向いた。恍惚とした、喜びの顔。
「二十年。まだ噛み締めていられる。まだあの余韻を楽しむことができる。言ってしまえば養殖ものだ。それでもたまらない。やみつきになる。愛。そう、それが何よりの美味。どんな調味料も、どんな香辛料も、どんなソースもいらない。火も通さなくったっていい。余計なことなんて一切いらない。盛り付けも飾りつけも、あるいは皿もカトラリーもいらない。食卓でなくたっていい。温かな日差しの中、実ったそれをもぎ取って、そのまま口に運ぶのだよ。愛。愛こそが。ああ、そう。路端の野苺を、そうするようにして」
まるでオペラのように、狂った言葉を歌い続けていた。その、吐息が多分に含まれた、蠱惑的で、官能的な、蕩けるような声で。踊るように、身振り手振りを加えながら。どれだけそれが素晴らしいかを、体全体で表現していた。
不思議と、恐怖はなかった。それがきっと、この人でなしの、何よりの望みなのだろうから。
人の
そうしてひとしきりが終わったあと、夫人の顔に、陰が差した。
「故に、望まぬ
ぱちん、と。
書架の林から、何冊かが飛んできた。それを上手に受け止めて、卓の上に開いて乗せていく。医学書。あとは、過去の新聞のスクラップだろうか。
知識と、先例。特に先例の方は、いたましいものばかり。親殺し。
「だがしかし、言わんとしていることはわかる。あれが与える苦しみは当人だけではないのだから。家族たちや周りの人のことを思うと、可哀想で、そして哀れで仕方がない」
沈んだ顔のまま、正面に座す。そしてまた
「はるか昔、私が神の端くれだったとき、私を奉ずるものどもにも
いつぞやに聞いた話。
夫人はその時、軽口を叩くようにして、それを言っていた。昔、邪教のご神体をやっていたこともある。ヴァーヌ聖教にぼこぼこにされたけどね。そんな感じに。
今、この口ぶりからすれば、それは事実であり、またその在り方というのは、ヴァーヌ聖教のような一神教のそれではなく、もっと素朴な、いわゆるシャーマニズムだとかアニミズムと呼ばれる、土着の信仰だったのだろう。
そしてヴァルハリア貴族とヴァーヌ聖教の侵出により、迫害、駆逐されていった。そういう、悲しい存在。
生死を司る、愛と豊穣の女神。シェラドゥルーガ。異端として火に焼かれ、棄てられた神性。
「大変な目にあった。あたり一面、ひどいことになった。そうならないよう、海の底に沈んでから吐いたこともある。美しい水面の潮が赤く染まっていった。ただひとつの、
もはや先ほどまでの、心躍るようなものは一切、残っていない。ただ空虚で、つらいものばかりを吐き出すように。
責務として人を喰らった。愛ではなく、毒を喰らい、それに蝕まれた。
「俺が撃ってもいい。あるいはスーリ。責任を負って、人を殺めることができるやつはいくらかいる。ただ、課せられる責任があまりに大きい」
ダンクルベールの声も、沈んでいた。紫煙をくゆらせながら、その褐色は、夜そのもののように暗くなっていた。
「俺はもう、辞表は書いてある。もうウトマンに任せてもいい頃合いだ」
「おやめ」
はっきりと。
「私は、警察隊本部長官オーブリー・ダンクルベールをこそ、愛している」
「罪人は、愛せない」
ぽつりと。言葉と、ひとすじが。
締め付けられ、思わず目を逸らした。
やはり夫人は心から、ダンクルベールを愛しているのだ。そして喰らいたいのだ。いつまでも、一緒にいるために。
そしてダンクルベールも、あるいは、また。
「この国では、安楽死は認められていない。人は、自然の時の中で死ぬべきだとね。
「ああ。至極、正しい。自然の時の中で、あるいは自然の摂理の中で。そして私もまた、自然の摂理のひとつ。おそらくは今、ただ唯一の、人間の天敵にして、捕食者だ」
ペルグランは、何ひとつ口を挟めなかった。
ここで語られているのは、道徳であり、社会通念であり、哲学だった。普段の犯罪捜査では聞くことのできない、高尚なものだった。
老境目前の、歴戦の捜査官。作家にして凶悪殺人犯、そして太古の女神。そのふたりの問答。
「壊れる前に収める唯一の方法こそが私ならば、赴こう。だが先程言った通り、私にとってあれは猛毒だ。心の準備をさせてほしい。構わないかね?我が愛しき人」
「ああ。ただ、あまり余裕はないだろう。俺たちも一度、様子を見に行く。明後日。お前も来るか?」
「見たいのは山々だが、皆の迷惑になるだろう。私にとっても、きっと刺激が強いものだろうからね。その場で取り乱してしまえば、誰も抑えられまい」
悲しい笑いを浮かべながら、夫人が言った。勝手気ままに出歩く奔放なひとがそこまで言うのだ。ペルグランは既に、気が重くなっていた。
「そうだ、ちょっと試してみたいことがある」
ぱん、と。手を叩いて。その顔は、打って変わっていた。
「ペルグラン君、お手を少し、いいかね?」
不敵な笑み。いつもの、夫人の顔だ。
ペルグランは訝しみつつも、言われたとおりにした。差し出した手に、その白い指が絡む。
目を、閉じてご覧?
聞こえた。どこかから。それでも、こわさはない。
やはり、言われたとおりにした。瞼の裏の、暗闇。
「よし。目を開けて」
言われたとおりに。
私の声は、聞こえるかい?
「はい。夫人」
大成功だ。はじめて試してみたが、これはきっと便利だ。今、君の頭の片隅を、ちょっと借りてみたんだ。
「そんなところに、いらっしゃるのですか?」
「おい、どうした?ペルグラン」
「わざわざ口に出さなくても大丈夫みたいだ。ああ、我が愛しき人、安心したまえ。気が触れたわけではない。ペルグラン君を、ちょっと借りた。今までの方法から、アプローチを変えてね?」
にこにこと笑いながら。
ちょっとした“
あんなこといいな、できたらいいな。それができるのだから、便利なものである。
「少し訓練に付き合ってくれたまえ。私は少し離れる。ペルグラン君は我が蔵書から好きなものを一冊、選んでご覧?それが見えるか確かめてみよう。時間はたっぷり使っておくれ。そのあたりも、評価点のひとつだ」
そう言って、赤と黒の毛玉は、また壁際の揺り椅子に座り込んだ。そうしてすぐに、うたた寝するように、ゆらゆらと揺れはじめる。妖しく、そしてどこか可憐な寝顔だった。
「承りました」
それだけ、あえて口で言って、席を立った。
(つづく)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます