3−2
ビゴーから、話があると言われた。
問いかけには、あまり応じてくれなかった。ただその顔を、渋く、苦いものを噛み続けるようにして歩くばかりだった。
ダンクルベールは、その後に付き従うことしかできなかった。
先輩が、これほどまでの顔をする。人を理解するひとが、わかってあげるひとが、ここまでの苦悩を見せている。
応接室。ガブリエリ。その隣で、顔を覆って泣いている男。
見覚えがあった。
「ロリオじゃないか。随分、久しぶりだな」
嬉しさがあったが、それ以上に戸惑いがあった。
ロリオ伍長。本部配属の下士官。庁舎の警備を担当していた。
いつも穏やかな笑顔を浮かべている、気さくな男だった。人より早めに出勤して、皆に明るい挨拶をして。そういう、明るい男。いてくれるだけで、ありがたい男。
一年ほど前から、母親の介護を理由に休職していた。
顔を上げた。頬が、こけていた。それが胸に突き刺さった。
「おっかさん、どうかしたのかい?」
「長官、申し訳ありません。俺、俺ぁね」
「ゆっくりでいいぞ。言える分から、言ってくれ」
ペルグランが
ペルグランやガブリエリからすれば、配属時期から考えても、面識があるかないかぐらいの男である。それでもその様子を見ただけで、ペルグランの顔にはつらいものが浮かんでいた。
離れてもいい。眼で、ペルグランに促した。
「かあちゃんがね。もう、耐えられないんです」
「そんなに悪いのか」
「悪いってもんじゃねえんです。とにかく、かみさんも俺もぼろぼろになっちまって。ラポワント先生にも診てもらいましたが、手の施しようがないって。不治の病だって」
震える体を、ガブリエリが抱きとめていた。その顔もまた、困惑と苦悶に近いものが大きく出ていた。
「生きているんでしょう?」
ぽつりと。
「シェラドゥルーガは、生きているんでしょう?」
背中に、
国家機密。何故それを、ロリオが知っている。
「何となく、わかっちまってたんです。誰にも言っちゃあいませんが。それでも長官の仕草とか、ウトマン少佐殿とか、そういう人たちを見ていて、そうなんじゃあないかと」
勘の鋭いというか、人を理解する力のある男だった。ビゴーやガブリエリには及ばないものの、それでも十分以上に、そしてその人柄とあわせて、誰の相談でも乗ってくれる、気のいい男だった。
それが、よくない方向に傾いた。
一息。落ち着くために、作った。
話を続けなければならない。
「それで、生きていたとして、おっかさんと何の関わりがあるんだ。おっかさんの病気とシェラドゥルーガ。何か関係があるのか?」
ロリオが、目を覗き込んできた。
漆黒。
ひとごろしのそれとは違った、虚無。何もない常闇。
「喰ってほしいんです」
その言葉だけ、しっかりと聞こえた。
「かあちゃんを、喰ってほしい。殺してほしい」
「何を言ってる?」
「終わりにさせてやりてえ。俺にゃあできなかった。ラポワント先生にも頼んだけれど、駄目でした。そりゃあそうですよね。人、殺してくれだなんて。誰だってやれないことですよ。だから、ガンズビュールの
「おい、早まるな。おっかさん、治らないからってよ。天寿を
「できねえ。もう、耐えらんねえ。かみさんも俺も。かあちゃんにはもう、ついていけねえ」
叫ぶように、吐き出していた。
一度、ロリオそのものを見た。
洗濯も十分にできていないだろう、汚れた服。そこから覗く肌に、青かったり、赤かったりする何かが刻まれている。めしも食えていない。髪だって随分薄くなった気がする。白髪も多い。
母親の病。何かは、聞かないままにしていた。
だが思い当たるものが、ひとつだけあった。
「だから、シェラドゥルーガに、かあちゃん、喰ってほしい。もう楽になりたい。終わりにさせてほしいんです」
そこまで言って、また、顔を覆ってしまった。
考えさせてほしいとだけ、伝えた。
「長官は、どうなされるんですか?」
ムッシュの医務院に向かう途中、ペルグランが聞いてきた。庁舎から歩いて三十分程度だったので、歩きながら、それを考えようと思っていた。
「どうすればいいんだろうな」
「長官でも、そうなんですね」
「俺だってそうだ。お前もそうだろう。親を殺してくれだなんてさ。人に頼めることじゃないことを頼んできた。それほど、追い詰められているんだ」
「例えば、ジスカールの親分とかには、どうでしょうか?」
「やりたがらんだろう。任侠というのは、縁と絆を重んずる。特に、親子のそれは、一番に置くほどにな」
「まして思いついたものが、あたりなら」
単純な親殺しなら、見向きもしないだろう。だが、それだというならば、ジスカールは思い悩み、そして、ことを成すはずだ。
そしてその後、二度と顔を見せてはくれなくなる。不義を働いたと自分を責めながら、去っていくだろう。
「そうですよね。俺もきっと、それだろうと思っています」
ペルグランの顔も、沈んでいた。
「曽祖父が、そうだったらしいんです」
少ししてから。ひねり出すようにして。
驚きがあった。
ペルグランの曽祖父。立身出世の代名詞。大提督、ニコラ・ペルグラン。伝記や、それを題材とした小説が山ほど出回っているほどの、独立戦争の英雄。
その生涯の終わりについては、詳しくは記されていなかった。
ムッシュの医務院。その名声とは裏腹に、こじんまりとしたもの。
あの男は、ここでずっと飲んだくれていた。あの朗々とした美声を酒で焼きながら、ひっそり、日に何人かの患者と会うだけの生活。
所詮、私はひとごろしだったのだ。それを悔やむことだけはすまい。ただ、嘆くことだけは許してくれまいか。
真っ黒な眼で、それだけ言われた。
それをセルヴァンとふたり、何度も通って口説き続けた。力になってほしい。人を殺すためではなく、活かすため。死んでしまった人からその死を確かめるため。あなたの力を、まだ必要としているひとがいる。
通うたび、その眼に光が宿っていった。だから、通い続けた。
酒と歌を愛する好漢。高潔にして公明正大な、そして誰よりも心豊かな人。それがフランシス・ラポワントという、本来の人となり。そっくりな顔つきの奥さまといつも笑い合っている、穏やかな町医者。
それが、匙を投げるような病。そして記されざる、ニコラ・ペルグランの末路。
「ロリオという、うちの下士官。その母親の病について教えてくれないか?」
何とか出した言葉に、ムッシュは静かに瞼を閉じた。
「認知症というものです」
やはり、そうだった。
「不治の病です。現在、治療法はありません。死ぬまで生きるしかない。そういう病です」
「友だちの爺さんにも、ひとりいた。その頃はまだ、
「そうですよね。そういうものなんです。それの、きっと一番悪い状態です。もう、どうしようもない」
ムッシュもつらそうに、ため息を入れた。
「殺してくれって、頼まれましたよ」
ぼそりと。
「叱り飛ばしました。自分に向けるようにしてね。私も医者の端くれですから
「そうだな。この国では、それ以外での安楽死は認められていない」
「それに私は、人なら殺せます」
つらそうな表情のまま、ムッシュは静かに、瞳を見せた。
「人じゃないものを、殺すことはできません」
真っ黒な眼。ひとごろしの、眼。
人じゃない人。病の果てに、人そのものを患った末路。
「左様でございますか」
「左様でございますよ」
ふたりとも、ため息しかつけなかった。
奥さまが紅茶を出してくれた。温かさが、身にしみた。冬に入り、寒く、つらいものばかりを肌に感じていた。
「実家の家伝にて、曽祖父ニコラ・ペルグランの最期。一文だけ、綴られていたんです」
ペルグランだった。ぼそりと、呟くように。
「呆けて、亡くなった。ただそれだけ」
重たい言葉だった。
男一本、腕一本。海の男、ニコラ・ペルグラン。体ひとつで爵位をつかみ取り、時の
呆けて、亡くなった。
家伝にのみ綴られたその一文だけで、その輝かしい生涯は片付けられていた。
「無理をするな。ペルグラン」
「大丈夫です。いやいや読まされたものです。それ以前に、面識ないですし。俺が産まれた頃にはもう、亡くなっていましたから」
静かだが、吐き捨てるような言い方だった。
「英雄とか呼ばれてますけどね。家伝とか日誌とか読んでいると、とてもそうとは思えない。いやな人。実際、祖父や、面識のあった人も言ってましたが、そうだったんですって。
いつ頃からか、ペルグランは俺を使いはじめた。
切っ掛けは、微笑ましいものだった。同期の女の子に、きっと似合うからって。だからかっこつけてやってみた。体つきの割に幼い顔だから、皆で茶化していた。その度に、その女の子とふたり、顔を赤くしていた。
ダンクルベールとしては、ペルグランらしいというか、年頃の男っぽさが、可愛く思えていた。俺。ペルグランに、似合っていた。
だが今、こういった口調での、俺。
荒んだ。ひねくれた。可愛げがなくなった。あるいは今までもそうだったのが浮き彫りになったのか。とにかくそれが、少しだけ寂しかった。
前のような、私であれば、受け止めきれていただろう。
「呆けて死んだ男の血です。ありがたさなんて、どこにもありゃあしません」
それだけ言って、淹れてもらったばかりの紅茶を一息で飲み干した。
葛藤だったのだろう。真実と事実は別のもの。ニコラ・ペルグランという、巨大な存在の、光と闇。
だからきっと、俺になりたかったのだろう。そういうものを、捨ててしまいたかったから。
ムッシュが何も言わず、まだ口を付けていなかった紅茶をペルグランに差し出した。会釈だけして、それを受け取っていた。
「すっきりしたか?」
「はい。お聞き苦しい話をして、申し訳ありませんでした」
「構わない。お前のことが、ひとつ知れたのだから」
本心だった。ペルグランは、少しだけ俯いた。
「ロリオに相談された。シェラドゥルーガに、母親を喰ってもらいたいと」
「ほう。夫人にですか」
「きっと、あいつもいやがる。食には
「でしょうなあ。健啖家とはいえ、美食家ですから」
「話はしてみる。駄目そうなら、俺がやる」
「おやめなさい。それこそ、座敷牢なりを用意してやったほうが、まだましです」
「ムッシュ」
呼び止めるようにして、呼んでいた。
「尊厳を、大事にしたいんだ」
目を見て、そう言った。
その目に光が灯った。そして、微笑んだ。
「私がそれを忘れちまうとは、駄目なおやじですなあ」
「いいじゃないか。それだけ、離れたってことさ」
「そうなんですかねえ。そればっかり、考えていたんですがね」
代々の死刑執行人。ムッシュ・ラポワント。
過去を清算するために散る
今はもう、ただひとりの、気持ちのいいおやじである。
(つづく)
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