3−2

 ビゴーから、話があると言われた。

 問いかけには、あまり応じてくれなかった。ただその顔を、渋く、苦いものを噛み続けるようにして歩くばかりだった。


 ダンクルベールは、その後に付き従うことしかできなかった。


 先輩が、これほどまでの顔をする。人を理解するひとが、わかってあげるひとが、ここまでの苦悩を見せている。


 応接室。ガブリエリ。その隣で、顔を覆って泣いている男。

 見覚えがあった。


「ロリオじゃないか。随分、久しぶりだな」

 嬉しさがあったが、それ以上に戸惑いがあった。


 ロリオ伍長。本部配属の下士官。庁舎の警備を担当していた。

 いつも穏やかな笑顔を浮かべている、気さくな男だった。人より早めに出勤して、皆に明るい挨拶をして。そういう、明るい男。いてくれるだけで、ありがたい男。


 一年ほど前から、母親の介護を理由に休職していた。


 顔を上げた。頬が、こけていた。それが胸に突き刺さった。


「おっかさん、どうかしたのかい?」

「長官、申し訳ありません。俺、俺ぁね」

「ゆっくりでいいぞ。言える分から、言ってくれ」

 ペルグランが珈琲コーヒーを淹れてくれた。

 ペルグランやガブリエリからすれば、配属時期から考えても、面識があるかないかぐらいの男である。それでもその様子を見ただけで、ペルグランの顔にはつらいものが浮かんでいた。


 離れてもいい。眼で、ペルグランに促した。


「かあちゃんがね。もう、耐えられないんです」

「そんなに悪いのか」

「悪いってもんじゃねえんです。とにかく、かみさんも俺もぼろぼろになっちまって。ラポワント先生にも診てもらいましたが、手の施しようがないって。不治の病だって」

 震える体を、ガブリエリが抱きとめていた。その顔もまた、困惑と苦悶に近いものが大きく出ていた。



「生きているんでしょう?」

 ぽつりと。



「シェラドゥルーガは、生きているんでしょう?」



 背中に、怖気おぞけが走った。


 国家機密。何故それを、ロリオが知っている。


「何となく、わかっちまってたんです。誰にも言っちゃあいませんが。それでも長官の仕草とか、ウトマン少佐殿とか、そういう人たちを見ていて、そうなんじゃあないかと」


 勘の鋭いというか、人を理解する力のある男だった。ビゴーやガブリエリには及ばないものの、それでも十分以上に、そしてその人柄とあわせて、誰の相談でも乗ってくれる、気のいい男だった。

 それが、よくない方向に傾いた。


 一息。落ち着くために、作った。

 話を続けなければならない。


「それで、生きていたとして、おっかさんと何の関わりがあるんだ。おっかさんの病気とシェラドゥルーガ。何か関係があるのか?」


 ロリオが、目を覗き込んできた。

 漆黒。

 ひとごろしのそれとは違った、虚無。何もない常闇。


「喰ってほしいんです」

 その言葉だけ、しっかりと聞こえた。


「かあちゃんを、喰ってほしい。殺してほしい」

「何を言ってる?」

「終わりにさせてやりてえ。俺にゃあできなかった。ラポワント先生にも頼んだけれど、駄目でした。そりゃあそうですよね。人、殺してくれだなんて。誰だってやれないことですよ。だから、ガンズビュールの人喰ひとぐらいだなんていう、おっかないひとごろしになら、きっと」

「おい、早まるな。おっかさん、治らないからってよ。天寿をまっとうさせてやるっていうのは」

「できねえ。もう、耐えらんねえ。かみさんも俺も。かあちゃんにはもう、ついていけねえ」

 叫ぶように、吐き出していた。


 一度、ロリオそのものを見た。

 洗濯も十分にできていないだろう、汚れた服。そこから覗く肌に、青かったり、赤かったりする何かが刻まれている。めしも食えていない。髪だって随分薄くなった気がする。白髪も多い。


 母親の病。何かは、聞かないままにしていた。

 だが思い当たるものが、ひとつだけあった。


「だから、シェラドゥルーガに、かあちゃん、喰ってほしい。もう楽になりたい。終わりにさせてほしいんです」

 そこまで言って、また、顔を覆ってしまった。


 考えさせてほしいとだけ、伝えた。


「長官は、どうなされるんですか?」

 ムッシュの医務院に向かう途中、ペルグランが聞いてきた。庁舎から歩いて三十分程度だったので、歩きながら、それを考えようと思っていた。

「どうすればいいんだろうな」

「長官でも、そうなんですね」

「俺だってそうだ。お前もそうだろう。親を殺してくれだなんてさ。人に頼めることじゃないことを頼んできた。それほど、追い詰められているんだ」

「例えば、ジスカールの親分とかには、どうでしょうか?」

「やりたがらんだろう。任侠というのは、縁と絆を重んずる。特に、親子のそれは、一番に置くほどにな」


 おとこたることを任されたものたち。

 おとこは絆を反故にしない。おとこは親兄弟の縁を無下にはしない。それを破るようなものは、おとこではない。それが、生粋の任侠たるジスカールである。


「まして思いついたものが、あたりなら」

 単純な親殺しなら、見向きもしないだろう。だが、それだというならば、ジスカールは思い悩み、そして、を成すはずだ。

 そしてその後、二度と顔を見せてはくれなくなる。不義を働いたと自分を責めながら、去っていくだろう。


「そうですよね。俺もきっと、それだろうと思っています」

 ペルグランの顔も、沈んでいた。


「曽祖父が、そうだったらしいんです」

 少ししてから。ひねり出すようにして。


 驚きがあった。


 ペルグランの曽祖父。立身出世の代名詞。大提督、ニコラ・ペルグラン。伝記や、それを題材とした小説が山ほど出回っているほどの、独立戦争の英雄。

 その生涯の終わりについては、詳しくは記されていなかった。


 ムッシュの医務院。その名声とは裏腹に、こじんまりとしたもの。

 あの男は、ここでずっと飲んだくれていた。あの朗々とした美声を酒で焼きながら、ひっそり、日に何人かの患者と会うだけの生活。

 所詮、私はひとごろしだったのだ。それを悔やむことだけはすまい。ただ、嘆くことだけは許してくれまいか。

 真っ黒な眼で、それだけ言われた。


 それをセルヴァンとふたり、何度も通って口説き続けた。力になってほしい。人を殺すためではなく、活かすため。死んでしまった人からその死を確かめるため。あなたの力を、まだ必要としているひとがいる。

 通うたび、その眼に光が宿っていった。だから、通い続けた。


 酒と歌を愛する好漢。高潔にして公明正大な、そして誰よりも心豊かな人。それがフランシス・ラポワントという、本来の人となり。そっくりな顔つきの奥さまといつも笑い合っている、穏やかな町医者。

 それが、匙を投げるような病。そして記されざる、ニコラ・ペルグランの末路。


「ロリオという、うちの下士官。その母親の病について教えてくれないか?」

 何とか出した言葉に、ムッシュは静かに瞼を閉じた。


「認知症というものです」

 やはり、そうだった。


「不治の病です。現在、治療法はありません。死ぬまで生きるしかない。そういう病です」

「友だちの爺さんにも、ひとりいた。その頃はまだ、痴呆ちほうとか呼ばれていたよ。敷地に離れを作って、そこに閉じ込めていた。まるで罪人みたいな扱いでね。見るのが、いやだった」

「そうですよね。そういうものなんです。それの、きっと一番悪い状態です。もう、どうしようもない」

 ムッシュもつらそうに、ため息を入れた。


「殺してくれって、頼まれましたよ」

 ぼそりと。


「叱り飛ばしました。自分に向けるようにしてね。私も医者の端くれですから慈悲ミセリコルデはあります。だがね、ありゃああくまでトリアージのために使うもの。病であれ、五体満足の人には使っちゃあいけない。罪になります」

「そうだな。この国では、それ以外での安楽死は認められていない」


「それに私は、人なら殺せます」

 つらそうな表情のまま、ムッシュは静かに、瞳を見せた。


「人じゃないものを、殺すことはできません」

 真っ黒な眼。ひとごろしの、眼。


 人じゃない人。病の果てに、人そのものを患った末路。


「左様でございますか」

「左様でございますよ」

 ふたりとも、ため息しかつけなかった。


 奥さまが紅茶を出してくれた。温かさが、身にしみた。冬に入り、寒く、つらいものばかりを肌に感じていた。


「実家の家伝にて、曽祖父ニコラ・ペルグランの最期。一文だけ、綴られていたんです」

 ペルグランだった。ぼそりと、呟くように。

「呆けて、亡くなった。ただそれだけ」


 重たい言葉だった。


 男一本、腕一本。海の男、ニコラ・ペルグラン。体ひとつで爵位をつかみ取り、時の王妹おうまい殿下のご親族にまで上り詰めた、稀代の成り上がり。

 呆けて、亡くなった。

 家伝にのみ綴られたその一文だけで、その輝かしい生涯は片付けられていた。


「無理をするな。ペルグラン」

「大丈夫です。いやいや読まされたものです。それ以前に、面識ないですし。俺が産まれた頃にはもう、亡くなっていましたから」

 静かだが、吐き捨てるような言い方だった。


「英雄とか呼ばれてますけどね。家伝とか日誌とか読んでいると、とてもそうとは思えない。いやな人。実際、祖父や、面識のあった人も言ってましたが、そうだったんですって。毀誉褒貶きよほうへんの激しい人だったって。そして最期には、そんな死に方をした。そんな人の血を継いでいるのか。そればっかり思っていました。今はもう片付けが済んでいますが、周りの男連中は、その栄光にすがりついたままでいる。馬鹿馬鹿しい。上っ面しか見ないで、飾り物ばっかりに気を取られてさ。警察隊の皆さんと出会ってから、余計にそう思うようになってきました。母上とふたり、ああはなるまいって、いっつも言っています」


 いつ頃からか、ペルグランはを使いはじめた。


 切っ掛けは、微笑ましいものだった。同期の女の子に、きっと似合うからって。だからかっこつけてやってみた。体つきの割に幼い顔だから、皆で茶化していた。その度に、その女の子とふたり、顔を赤くしていた。

 ダンクルベールとしては、ペルグランらしいというか、年頃の男っぽさが、可愛く思えていた。。ペルグランに、似合っていた。


 だが今、こういった口調での、


 荒んだ。ひねくれた。可愛げがなくなった。あるいは今までもそうだったのが浮き彫りになったのか。とにかくそれが、少しだけ寂しかった。

 前のような、であれば、受け止めきれていただろう。


「呆けて死んだ男の血です。ありがたさなんて、どこにもありゃあしません」

 それだけ言って、淹れてもらったばかりの紅茶を一息で飲み干した。


 葛藤だったのだろう。真実と事実は別のもの。ニコラ・ペルグランという、巨大な存在の、光と闇。

 だからきっと、になりたかったのだろう。そういうものを、捨ててしまいたかったから。


 ムッシュが何も言わず、まだ口を付けていなかった紅茶をペルグランに差し出した。会釈だけして、それを受け取っていた。

「すっきりしたか?」

「はい。お聞き苦しい話をして、申し訳ありませんでした」

「構わない。お前のことが、ひとつ知れたのだから」

 本心だった。ペルグランは、少しだけ俯いた。


「ロリオに相談された。シェラドゥルーガに、母親を喰ってもらいたいと」

「ほう。夫人にですか」

「きっと、あいつもいやがる。食にはうるさいからな」

「でしょうなあ。健啖家とはいえ、美食家ですから」

「話はしてみる。駄目そうなら、俺がやる」

「おやめなさい。それこそ、座敷牢なりを用意してやったほうが、まだましです」

「ムッシュ」

 呼び止めるようにして、呼んでいた。


「尊厳を、大事にしたいんだ」

 目を見て、そう言った。

 その目に光が灯った。そして、微笑んだ。


「私がそれを忘れちまうとは、駄目なおやじですなあ」

「いいじゃないか。それだけ、離れたってことさ」

「そうなんですかねえ。そればっかり、考えていたんですがね」


 代々の死刑執行人。ムッシュ・ラポワント。

 過去を清算するために散る生命いのち嘲笑わらうことを、決して許さなかった異端児。生と死の尊厳を重んずる、高潔な男。


 今はもう、ただひとりの、気持ちのいいおやじである。


(つづく)

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