3.鯨たちの夢

3−1

―――――

あれだけ愛そうと必死だったのに

今ではもう、顔も覚えていない

名前すらも思い出せないのは

多分、いらなくなったからだろうか


変わりゆく思い出を確かめに

海の底

そのために、身体を横たえる


それは世界という、夢の終わり

醒めた後には、何も残ってはいない


詠人よみびと知らず

―――――


 夕飯時。もうそろそろ、できあがるころ。

 幸せな家庭。そう思っている。夫は領土紛争で片足を失ったものの、それで傷痍軍人年金が出ていて、それに近所の町工場で職工としても働けている。息子は、ちょうどはしゃぎたい盛り。それでも家事を色々、手伝ってくれるし。

 奉公に熱心になりすぎて、嫁ぐのが遅くなったにしては、十分以上が手に入っていた。

 いつも通り。ほんとうに幸せなひととき。

 つらかったのは、夫が足を失って帰ってきたときぐらいか。それでもなんとか生活はできているし。子どもも学舎に通わせて行けている。成績は優秀みたいだ。きっと、頭のいい子に育つだろう。

 今日は、ポトフとテリーヌ。あとは、黒いのが多いけど、美味しいパンを貰っていた。チーズも添えれる。やっぱり、十分以上。貧しい家で育ったけれど、今がこうして充実している。

 三人で食卓を囲える。それが一番、実感できる。

 さて、これで、できあがり。あとはふたりに、声を掛けて。


 ふと、音が消えたように感じた。


 居間に向かう。ソファに座っているはずの夫。家の中を走り回っているはずの息子。


 いない。


 さっきまで、ほんの数分。火にかけた鍋を見ていた。たったそれだけの間。


 かどわかしか。


 家を出た。着の身着のまま。走った。

 道行く人に、ふたりのことを尋ねながら。ふたりの名を、呼びながら。

 一瞬。どうして。一瞬で、いつも通りが、いつも通りでなくなっている。


 寂しさに追い立てられていた。走り疲れても、走るしか道がない。

 どこに行ったんだい、あんた。どこに行ったんだい、坊や。


 たどり着いた。いると思った場所。でも、何かが違う。

 あるのは、墓石だけだった。


「かあちゃん」

 知らない声。隣りにいた。知らない、若い男。

「誰だい?あんた」

「何、言ってるんだよ。どこに行ったかと思えば、こんなところにいて。どうしたんだい、かあちゃん」

 心配そうな声と顔。でも、知らない。誰だい。


 もう一度、墓石を見た。ここに何かが刻まれているはず。今、何が起きているか。それで、わかるはず。


 名前。あのひとの。


 叩きつけていた。右手にあった、あのひとの義足。どこから拾ったのかは覚えていない。

 とにかく、この墓石を壊さなければ。そんなはずはないんだから。


「かあちゃん。やめてくれ。やめてくれよう」

さっきまであの人、うちにいたんだよ。あのこも。どこいったんだい。

「お義母かあさん。どうか、どうかやめて」

 知らない女の声。

 なんで墓石が喋っている。意味がわからない。おかしい。誰の声だ。

 女。そんなはず。あのひと、別の女をこさえていたのか。許せない。私を、裏切ってたっていうのか。


「かあちゃん」

 悲鳴。


 それで、我に返った。


 見渡した。ふたり、傷だらけでうずくまっている。女の方は、鼻をすすって泣いていた。

 見たことのある風景。家の中。ものが散乱した、ひどい匂い。そんなはずはない。毎日、ちゃんと掃除して、片付けしているんだから。


 夕飯は、ない。墓石も。

 あるのは、痩せこけたふたり。息子と、その嫁。

 右手にあるのは、何かの棒きれ。何なのかはわからない。眼の前のふたりは、うずくまって、ぼろぼろで、泣いていて。そして私は、今。何を。



 私は今、何をした?


(つづく)

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