1−6
真の狙いは、ボドリエール夫人だった。
それでも、何かが引っかかっている。メタモーフは今まで、そういう乱暴なことはしてこなかった。せいぜいあの手紙のような、馬鹿にするようなことで留めるはずだ。
あるいはもうひとつ、顔があるのか。
顔も名前もない怪盗。あるいは性別すら。それが、女を襲った。ならば男の顔。欲深い、下卑た男。
何故、それを今、出すのだろうか。
考えても、出てこなかった。ダンクルベールはそのまま寝台に潜り込んだ。
女の体。触ったのはいつぶりだろうか。ひとり目が産まれてから間もないが、あれとは体も、心すらも通わせていなかった。通わせる努力はしたが、心を開かせるところまでは、まだたどり着いていない。
ボドリエール夫人。美しいひと。冷たく震えた、豊満な体。それでも、心は傾かなかった。やはりまだ何か、疑いが残っているからか。
ダンクルベールは、恋というものに、きっと理解が薄かった。
あれとは、人の紹介で結ばれた。仕事の中で知り合った人の娘であり、裕福でもあった。だから、相手の顔を立てるとか、実家への仕送りが増やせるだとか、そういうものばかりを考えてしまった。
思えばそれがいけなかったのかもしれない。あれの気持ちも考えず、ただ一緒に暮らすだけのようなことをしている。
あるいはお互い、そうなのかも。あれはダンクルベールのことを、明らかに嫌っていた。
幸せな家庭。それが、今一番の望みだった。
娘に恵まれた。そこまではいい。だが、あれを満足させてやれていない。それがずっと、心に引っかかっていた。話をしようにも、聞いてはくれない。突き刺さる言葉ばかりが返ってくる。体を求め合うことなども、少なかった。
もうひとり増えれば、和らぐのだろうか。たとえ、ふたりとも肌の色が違おうとも。娘ふたりの女所帯になれば、母親の味方にはなってくれるはず。俺をひとり敵にして。そうして三人、仲よくしていく。それもまた、ひとつのかたちかもしれない。
それでも、いずれどこかで、破綻するだろう。その時、俺はやり直せるだろうか。破綻するにしても、互いが納得するかたちで終わらせたい。
不意に、誰かが訪いを入れたような気がした。
時刻、二時。真夜中。何者だ。
「どなたですか?」
答えは、なかった。
ゆっくりと、扉を開ける。やはり、影ひとつ。
女。俯いているが、美しい顔立ち。
「夫人?」
ボドリエール夫人。扉の前で、ぼうっと。
「いかがなされました?こんな遅くに」
「ダンクルベールさま」
俯いた顔を上げた。やはり、美貌。
「わたくしは」
それだけだった。
抱きついてきた。体温。すすり泣く声。
「わたくし、わたくし。ダンクルベールさまが」
震えていた。やはり、まだ。こわい思いが。
その身体に、自然と腕が回っていた。女の体。美しいひとの、かたち。それに、触れる。
違う。
とっさに離れていた。パーカッション・リボルバー。
そして、匂い。
「手負いか」
思わず、言葉に出ていた。
それは腹を押さえて、肩で息をしていた。夫人の姿をした、何か。
メタモーフだ。
「ちょっと、どじを踏んじまってなあ」
言えたのは、そこまでだった。
崩折れる。駆け寄っていた。押さえたところ。衣服を裂いた。
「熊にでも、やられたのか?」
「どうだかね。わからねえよ。とにかく、このざまだ」
かすれた、若い男の声だった。肉体も、男のそれである。
「なあ、旦那。手柄、やるよ」
男の声が、ぽつりと漏らした。息がだいぶんに多い。
「手柄だ。俺の
夫人のままの顔。美しい瞳。
「まだ、死ねねえんだ」
それだけは、はっきりしていた。
首肯だけ、返してやった。
「こりゃあ、どうしました」
ビゴーだった。隣の部屋。物音で起きたのだろう。
「メタモーフです。夫人に化けてました。手負いです。これから応急処置を」
「わかりました。今、医者と、支部のものを呼んできます」
それだけ言って、走っていった。
とにかく、傷に布を押し当てた。荷物。確か入っているはず。あった。針と糸。それと軟膏と包帯。ひととおり。
湯を沸かしている時間はない。
「針を通すぞ。消毒なしの、一発勝負だ。恨むな」
頷いたようだった。
刃物の傷ではない。ほんとうに、けものか何かの爪のような傷。とにかく、塞ぐ。士官学校でやったきり。思い出せ。慎重に、そして迅速に。
なんとかして、塞いだ。軟膏と当布。そして包帯。きつく縛る。
メタモーフ。何故ここへ来た。それも、こんな傷を負って。そして、助かるか。かなりの傷。そして血も失っている。顔はもう、青い。
「今、医者と警察隊が来る。必ず、助ける。だからちゃんとお裁きは頂戴しろ。神妙にすれば、それでよしだ」
手を握って、励ますようにした。
「ありがてえ」
呟くように。そして、瞼が。
死んだか。いや、脈はある。呼吸も。
どうやら、安心したようだった。確かめて、ようやく息を付けた。
しばらくして、医者と、支部隊の何人かが来た。それを引き渡した。
「何とかなりそうです。ご心配なく。よく、塞いでくださった」
汗だくの顔で、医者がそう言ってくれた。
「どうか、頼みます」
言えるのは、それぐらいだった。
その後は、眠れなかった。ずっとぼんやりとしていた。
日が昇ってから、蒸し風呂に行った。体と、心を落ち着かせたかった。ビゴーも来ていた。どうやら同じく、眠れなかったようだった。
「今日はふたり、寝ていましょうか」
「そうですねえ。ひとまず、そうしましょう。あたしも、びっくりしちまったからね」
風呂から上がって、煮出した
仮住まいに戻り、寝台に潜り込んだ。腹は、減っていなかった。そうして、そのまま眠った。
眠りの中で、考え事をしようと思った。それでもやはり、何も思いつかなかった。
女の体。思い返せるのは、それだけだった。
次の日の朝まで眠って、ビゴーとふたり、あのカフェに行った。
あの女中はいなかった。
「メタモーフは、どじを踏んだと言っていました」
ひと通りのめしを片付けたあと、話をはじめてみた。
「そしてあの傷。刃物じゃない。けだものの爪のような」
「ほんと、そうだよ。びっくりしちまったぜ」
男の声。
「いやあ、おかげさまで生き延びれたぜ。旦那がた、ありがとうよ」
近づいてきたのは、きっと、若い男だった。
自分たちの卓。空いている席に、勝手に腰を掛けてきた。そうして、近くの女中にめしを頼みはじめた。
「お前は、まさか」
「名乗るほどのものじゃあございません?もとより、顔も名前もございませんしね」
顔も名前もない人間。つまり、メタモーフ。
「ようやく意識が戻った程度だからさ。めしを済ませたら、また戻る。ちゃんとお
目元が隠れるぐらいの、長い髪。それぐらいしか特徴はなかった。
「あんた。礼をするためだけに来たっていうんですかい?」
「ご名答。おふたりとも、遠方からお越しだろう?いつまた会えるかわからんしね。礼は言える時に言わないと、言えなくなっちまうもんだろう?まして今回は、死にかけたわけだからさ」
からから笑いながら、届いためしに口を付けはじめた。とても意識が回復したばかりとは思えないほど、口も手も達者である。
「ガンズビュールはほんと、裏がちゃんとしてなかったから、大変だったよ。大赤字だ。でもこれで、あの
「それがここでの、ほんとうの目的か」
「そうさね。基本、余所で稼いで、
心の底からの、驚きだった。
行政や治安維持機能の立て直し。義賊や任侠ともまた違う。為政者のそれに近い。
世の中を、よくする。それを、こいつはひとりでやってきていた。顔も名前も、捨ててまで。
それでもやはり、不審なものが残っていた。
「ボドリエール夫人についてだ。相当、荒らしていたようだが、何をする気だった?」
ボドリエール夫人への、暴行未遂。
強めた語気に対し、ちょっと困ったように、それは身を乗り出した。
「ありゃあ、あいつの自作自演だよ。部屋も、格好もね。俺はちゃんと、正面から訪いを入れた」
「何をするために?」
その問に、それはにやりと笑い、指先で口元を叩いた。
「唇ひとつ、頂戴しようってね」
答えに、ビゴーとふたり、頭を抱えてしまった。
本気の答えだ。やっぱりこいつ、ただの悪戯好きだったのだ。
「迷惑なやつですねえ」
「いやあ、ご迷惑をおかけしました。でも、それぐらいしなきゃあ、今回はほんとう、大損だったんだよ。ひと通り終わったから、綺麗どころにベーゼでもして帰ろうかってね。そしたら一発で見破られて、がっつり引っ掻かれたってわけ」
「夫人は女性だ。熊じゃない」
「そこなんだよ、旦那」
神妙な声だった。届いた
「ありゃあなんか、違うやつだ」
「違うというのは?」
「何というか、オカルトの
髪の奥に見える瞳。真剣な、ちゃんとした色。
本気で言っている。
「俺のはこれでも、種も仕掛けもちゃんとある。あれは違う。種も仕掛けもない。奇妙で、危険だ」
「常々、怪しいとは思っていた。出現の仕方。他のボドリエールの血族の消え方。そしてあの、頭脳」
「まあ、疑いすぎると気付かれるだろうから、そこは程度だろうね。とにかく、深入りはやめとけってぐらいさ」
ちらと、ビゴーを見た。こちらも言っていることは信じているだろうが、受け入れがたいという表情だ。
やはり、ボドリエール夫人には、何かがある。直感と疑念が、確信に変わった。あれとはいつか、ぶつかる日が来るだろう。
それがどのようなかたちになるかは、予想もつかない。
「さてと」
そいつはポケットから、銭を出してきた。三人分の会計だとしても、ちょっと多い。
「俺はしばらく療養生活だね。それが終わったら、また来るよ、旦那」
「また、とな?」
「約束したろ?
微笑んでいる。信用のできる顔。
「顔も名前も都度都度だが、
顔も名前もない人間。それを、手元に置ける。どうしてかその言葉は、信頼できた。こいつは決して、裏切りはしない。
「まずは休め。万全になってから使おう。どうせ牢獄にいるふりぐらいはできるんだろう?そのためにも、まずは怪我を治し、体調を整えることだ。相当、無茶をしてきただろうからな」
「ありがたい話だね。大事にして下さるとは」
「持て余しているだけだよ」
答えに、そいつは鼻を鳴らした。
そうして背中を向け、手を振りながら。
「けったいなやつですね」
「でもまあ。めでたしめでたし、ですかな。思ったより、腹の割れるやつみたいですし」
ビゴーの顔は、穏やかだった。
メタモーフが夫人を襲ったことに、何よりの怒りを見せていた。穏やかで人当たりはいいが、女に手を上げるのを何よりも軽蔑するし、そういうやつには、一切の容赦がない。
そういう荒々しい強さも、持ち合わせている人だった。
「ボドリエール夫人だけは、頭に入れておきます」
「中尉殿は、そうなさい。ふたりも疑ってかかれば、それこそ気付かれるでしょうから」
「ご負担をかけます、先輩」
頭の片隅に、それを置いた。そういう風に、頭を作り込んでいる。
収穫は三つ。信用ならない不気味な女と。信用できる不気味な男。そして信用のおける、気持ちのよい友だち。
それが自分にとっての、メタモーフ事件である。
(つづく)
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