1−7
澄み切った水面に、魚影が見えた。
手のひら三枚分ほど。ぼんやりと、そこにいる感じである。
「あれ、行ってみましょうか」
そう、ひと言。
魚の鼻先から、かなり離れたところに落とす。
水面の波紋。その広がりが届いたぐらいだろうか。魚影が、のそりと動き出した。ゆらゆらと水中を沈みゆく抽象的な何かを、じっと見つめている。
ちょんと、動かしただけだった。
吸い込んだ。竿が、立ち上がる。
そのうち、導かれるように。船の縁まで、それが近づいてきた。
屈んで、手を伸ばす。水中。開かれた下顎。掴んで、水面が割れる。
「まあ」
こちらは、大きな声を出してしまった。
深い碧色の鱗が美しい、大きな
「こうやって、
船頭さんは、ちょっと格好を付けて、そう言ってくれた。黒髪の、目の細いハンサムだった。
「食いしん坊とはいえ、基本は臆病です。身を隠すなり、気を張るなりしている。こいつは真ん中に陣取って、気を張っていた。確かめるために近づいたんです」
「へえ、食欲じゃないのね?」
「そう。好奇心とか、警戒心かな?最後は、反射も。腕に蚊が止まったら、思わず叩いちゃうでしょう?そんな感じです」
微笑みばかりの、ポーカーフェイスだった。
その後も船頭さんは、何匹かの大きな
「ボドリエールさん、戻りましたよ」
船頭さんが、船着き場で待っていた男に声を掛けた。
宿のシェフさんである。もっと西の方の、それも
「どやった?面白かったろ。
「楽しかったですわ。見えている魚は釣れないって言うけれど、ほんとうにお上手で。素敵でしたわ」
「
喋りながらも、シェフさんは、手のひら一枚にも満たないほどの
「おじさまは、小さいのがお好きなのね?」
「そやね。僕は子どもと遊ぶのが好き。セコ
まさしく子どもと戯れるようにして、小さいものばかりを根こそぎ釣っていく。
その様子がなんだか、子どもにお菓子をあげるおじさんそのもので、微笑ましかった。
「せこい釣りって、面白い呼び方ね」
「格好付けてフィネスとか、
「俺だって遊びですよ。真面目に遊んでます」
「僕は不真面目やもん。遊んでくれるのとしか遊ばへん。
「そりゃあ。ボドリエールさんのファンですからね」
ポーカーフェイスのままの船頭さんの言葉に、思わず笑ってしまった。
「そういえばボドリエールさんのお召し物。
やはり素敵な微笑みのまま、船頭さんが聞いてきた。
「自分で染めてみたの。油を抜いて、藍染め。色の調整は、油の入れ具合かしら」
「へええ、すごいなあ。器用というか、意欲が強いんやね。
「そうですわね。思いついたことを試すの、大好きですの」
「いいなあ。格好いい。俺もやってみようっと」
「船頭さんはきっと、お似合いですことよ。紺とか、青色のイメージですもの」
おだて言葉に、船頭さんはひときわの微笑みを返してくれた。ほんとうに落ち着いた、ハンサムなひとである。
北西部の高原地帯、フォンブリューヌ地方。そのうちの、ロジェール男爵領に旅行に来ていた。
南方大陸原産の、
口が大きく、大食漢とは言われるが、消化する力が強いわけではないので、満腹になったらしばらく動かない。速く泳げるわけではないので、小魚たちには追いつけない。群れからはぐれた魚や、
見た目は
宿のシェフさんが、どうせなら釣るところを見てみないかと、遊覧船の船頭さんを紹介してくれた。お茶目なシェフさんと二枚目の船頭さん。ふたりを含め、地元の人達は、ほんとうに素敵な人ばかりだった。
人と触れ合うのは、好きだった。特にこういった、それぞれの地の、それぞれの地にしかいないような人々。自分にない経験と知識、そして体験を持っている。何より、偏見がない。自分を、ちゃんとひとりの人間として見てくれた。
メタモーフが逮捕されて、しばらく経った。容疑の一切を認めているという。
自分のところには、ダンクルベールを模してきた。匂いや仕草ですぐに分かったので、殺そうと思った。すんでのところで逃げられて、ダンクルベールのところに潜り込んだようだった。
メタモーフがガンズビュールに現れた狙いは、ボドリエール夫人の唇。中央から来た捜査官に化けて、ボドリエール夫人に接近したところ、その捜査官本人、つまりはオーブリー・ダンクルベール中尉によって捕らえられた。報道では、そうなっている。
ほんとうの狙いは、貧民層の生活水準の向上だったようだ。
後々、ビゴーから、そう聞いた。そういった人々が育つしくみ、助け合うしくみが、ガンズビュールは弱かった。いわゆる悪党とか、裏社会というもの。それを、立て直したようだ。迷惑ばかりを掛けていた“明けの明星”亭の連中が壊滅したこともあり、貧しい人々でも、市場にものを並べたり、色々な仕事につけるようになっていった。マクロン男爵領のご隠居さまとも繋がりができており、いくつかの別荘の使用人としても拾ってくれているようだった。
ガンズビュールは貧富の差が縮まり、諍いが少ない、いい場所になりつつあった。
ダンクルベールは、軽い挨拶だけをして、首都へ帰っていった。
太陽が沈んだ。そんな気持ちになっていた。
持っていた連載などがひと段落したこともあり、取材と称して、しばらく筆を置いて、あちこちに出歩くことにした。そうやって、気を紛らわせたかったのかもしれない。
そのうちにも、思いついたことを言葉として留めていった。太陽、お日さま、もう一度会いたい。やはり、そういう言葉が多かった。
“再びの人”。そういう題で、詩集として発表した。
反響は大きかった。今までの作風からは、かけ離れているとも。鮮烈な淫靡さは少なく、穏やかで、淡いものだと。そしてまた、その“再びの人”とはもしかして、とも。
巷を“動”で賑わせたボドリエール夫人の、“静”の一面。そう評された。
仕事に追われる日々。寂しさを、忙しさで塗りつぶしたい。筆はどんどん早くなっていった。今までのような、情熱的な“動”の作風も。そしてまた、新しく
あれから一年余、経っただろうか。
日傘は嫌い。温かさが、好きだから。人前では、格好を付けるために差すけれども、ほんとうはいやだった。今日はひとりきりだから、日傘はいらない。そうやって、お日さまの光を浴びながら、ぼうっとしていた。
「ああ、どうも」
不意に。あの時と同じように。
駆け出していた。きっと、ひどい顔だろう。でももう、そんなことはどうでもいい。ようやく、ようやく来てくれた。
ようやく昇った、わたくしの、お日さま。
「ダンクルベールさま」
やはりその人は、にこにこと笑っていた。
「いやあ、ご無沙汰しております。仕事で近くに立ち寄りましたもので。ほんとうに、顔を見せる程度にはなりますが」
「それでもお越しくださったなんて。ほんとうに嬉しいですわ。お元気でしたか?リリィちゃんも大きくなったかしら」
「何とかまあ、元気でやらせていただいています。リリィも、もう歩き回っていますよ。ああ、そうだ」
ダンクルベールが、ひときわに微笑んだ。
「もうひとり、産まれました。また、女の子」
「まあっ」
心が、踊った。このひとの幸せが、もうひとつ増えたなんて。
「キトリーって、付けました。キティ。ほんとうはきっと、そう呼ばないんでしょうけどね。また同じ、私と同じ肌の色です」
「いいじゃない。可愛い名前。リリィと、キティ。ああ、見てみたい。今度、連れてきていらっしゃいな。ご内儀さまともあわせて、是非ご挨拶したいわ」
「そうですね。妻が夫人のファンでもありますので、今度、連れてきますよ」
笑ってくれた。もう、はしゃいでばかりで、早口でまくし立てていたのに。それでもやっぱり、大きく包み込むような、穏やかな声。
ああ。こうやって、ずっといたい。
「よう、ボドリエール夫人」
差し込んだのは、がらがらした声だった。
「久しぶりだねえ。やっぱあんた、綺麗だね。山奥の湖みたいだ」
そちらを向く。見たことのある顔。
「これはこれは、コンスタンさまも」
「俺のリュシアンが世話になったみてえだな。俺も、礼を言いに来たんだぜ?」
酒と煙草の匂い。猫背だけど、ダンクルベールと同じぐらいの背丈。それでいて細身で、足が抜群に長い。白髪交じりの、癖がかった髪を後ろに流した、不敵な笑み。
そうやって、のしのしと歩いてきて、ダンクルベールの肩に手を回した。
「どうだい?俺のリュシアン。いい男だろ?」
にやりと笑いながら、そう言ってきた。
抜群の見た目だが、
負けていられるものか。
「ダンクルベールさまは、ほんとうに素敵なお方。以前は助けてもいただきましたし。でも、俺のって。もしかしておふたり、そういう関係なのかしら?」
意地悪な顔で刺してみた。ダンクルベールだけ、ぎょっとした顔になる。コンスタンは声を上げて笑っていた。
「そりゃあ気になるよねえ。ただね、俺たちゃあもう、それ以上だぜ?体の交わりも心の交わりすらも、もういらねえんだよ。俺の片思い、押し通しまくっただけだけどな」
「あら。それは羨ましいことですわね」
「リュシアンはな、夜の海なんだよ」
透き通るがらがら声。そんなことを、言い出した。
「夕闇みてえな綺麗な肌。深い、海の底みてえな瞳。この声の、さざなみ。こいつらがそう、呼んでくれってよ。だからこいつは、俺にとってのリュシアンだ」
夜の海。
お日さまみたいなダンクルベールを、コンスタンはそう例えた。そしてリュシアン。コンスタンだけの、名前。
心の底から、嫉妬が湧いて出てきた。そして、意欲も。
「ねえ、コンスタンさま。わたくしもダンクルベールさまをリュシアンって呼んでもいいかしら?」
奪ってやろう。ひとりだけの名前。
「ダンクルベールさまはコンスタンさまに、夜の海っておっしゃったのよね?でもダンクルベールさまはわたくしにも、温かいお日さまだっておっしゃってくれたの。だからきっと、リュシアンって呼んでも構わないわよね?」
「そうだったのかい。でもちょっと、足んねえよなぁ?」
機嫌がよさそうに紙巻を取り出して咥えた。婦女子の前で煙草なんて、とも思ったが、このひとに常識を求めてはいけない。
「あんたは、リュシアンに惚れた。まずは第一問、正解だね」
言われて、どきりとした。きっと顔が赤い。そのひとが眼の前にいるのに、それを言うだなんて。
こいつ。淑女に、恥をかかせたな。
「だったらもう。とことん、リュシアンに惚れな?」
紫煙をくゆらせながら、不敵な顔を近づけてきた。
とことん、ですって。もう、恋をしているのに。
「惚れて、惚れて、惚れ倒して、どうにもなんなくなって、そこから出てきた言葉がリュシアンって言葉なら、それでいい。恥も外聞も、恋も愛も欲望も捨てて、そこまでたどりつけるんだったら、やってみな?」
惚れる。恋とか愛とかではなく、惚れる。心を、奪われる。一度、奪われるのに、もっと奪われる必要がある。それも、すべてを投げ出してまで。
いいじゃない。そうやって手袋を投げて寄越すなら、受けて立ってやる。
「かしこまりましたわ。絶対、貴方さまの口から、ご了承を頂戴してみせますわよ」
「ちょっと、夫人」
「五月蝿え、リュシアン。こっちはお前の名前、かかってるんだぜ?なあ、夫人」
「そうですわね。私も淑女たるを、あるいはパトリシア・ドゥ・ボドリエールたることを捨てるところまでかかっておりますもの」
「いいねえ、やってご覧よ。惚れたやつに抱かれるんなら、そこまでだぜ。惚れたやつに、もっと惚れるんだよ。大変だぜ?
「やってみせますわ。コンスタンさまを、ぎゃふんと言わせてやるんですから」
真剣な顔で言ってやった言葉に、コンスタンが口角を釣り上げた。
「交渉成立」
そうやって、ダンクルベールから離れて、背を向けてしまった。
「さあ、底なしの恋を楽しもうぜ?」
先に行ってるぜ。そう言って、コンスタンは離れていった。
底なしの恋。惚れて、惚れて、惚れ倒す。素敵な言葉。ひとりの詩人としても、とびっきりの
絶対に打ちのめしてやる。跪かせて、この手にベーゼをさせてやる。あるいはお前も、惚れさせてやる。そうして、リュシアンと。
ああ、リュシアン。我が愛しきオーブリー・リュシアン。なんて素敵な名前。
「アドルフさまが、ご迷惑をお掛けしました」
気恥ずかしそうな声で、我に返った。
「あの方。ほんとうに、自分勝手なんだから」
「ああいえ、お気になさらず」
かしこまってしまったダンクルベールに、思わずといった感じで声を出してしまった。褐色の頬が、少しだけ赤い。
二児の父。それに惚れる。抱かれもせず、惚れ倒して、そして愛称で呼ぶ。それってとても、ふしだらなこと。はしたないこと。淑女として、あるまじきこと。
でも、そうでなければ、パトリシア・ドゥ・ボドリエールではない。世間がそう見るであろう、ボドリエール夫人ではない。
「わたくしはね」
意を決して、言葉にしようと思った。
「ダンクルベールさまに、惚れちゃったの」
「夫人?」
「言ったでしょう?温かいお日さまだって」
きっと、頬は赤い。それでもいい。ちゃんと伝えたから。
「半分程度に留めておきますよ。娘ふたりに悪いですから」
頭を掻いて、目を逸らしながら。
「あら。ご内儀さまには?」
「勿論ですが。今はそっちに気が行っちゃってますから」
「あらあら。夫であるより、パパさんなのね。何だか想像通り。でもご内儀さま、拗ねちゃいますわよ?」
「そうなんですよねえ。また、肌の色が違うって、へそ曲げて。娘ふたりで女世帯なら、私を敵にして、女たちで仲よくできると思ったのに。もう、どうしたらいいんだか」
ふたり、顔を赤くしながら、笑いあった。
「そういえばなんですけど」
そして、ちょっと意地悪がしたくなった。
「どうしてお
ダンクルベールが、ちょっとだけ、いやそうな顔をした。
「いや、あの。それはね?」
「ボドリエール夫人の前では、嘘はつけない。紫の差した瞳はすべてを見透かす。でしょう?」
微笑みながら。刺せるだけ刺してみる。
言わせたかった。惚れたいから。惚れ倒したいから。
少しして、観念したように。ダンクルベールは顎髭をこすりはじめた。
「髪質が、どうもね」
ぽつりと。
「もじゃもじゃなんですよ。伸ばすと、ブロッコリーになる」
小さな声に、思わず、腹を抱えてしまった。
砂漠と大河の血。白い肌の人と黒い肌の人のいいとこ取りの、美形の産地。髪を伸ばせばきっと、もっと素敵。でも、もじゃもじゃ。それがいやだから、剃り上げてる。
可愛い。そんなこと、気にするだなんて。
笑ってしまった。そしてまた、惚れてしまった。涙がこぼれそうなぐらいに。
「内緒にしますわ。誰にも言わないから」
「お願いしますよ?ほんとうにいやなんですよ、これ」
「やっぱり、貴方の恥ずかしがる姿。ほんとうに素敵。たまらない。もっと見せてほしいわ」
「いやですよ。私だって、女性の前では格好を付けたいですから」
「あらあら、パパさん。粋がっちゃって」
「父親ですもの。そりゃあ、子どもの前でなくたって、ちゃんとした大人でいたいですよ」
困ったままの、素敵な笑顔。ずっと見たかった、お日さまの光。
なんて幸せなんだろう。わたくしだけのお日さま。心を照らし、温めてくれる。寂しさを忘れさせてくれる、わたくしだけの太陽。沈んでも、必ず訪れてくれる、再びの人。
ああ、我が愛しき人。出会ってしまった、わたくしの運命の人。すべて、捧げたい。すべて、手に入れたい。そうやってずっと、一緒になりたい。ふたりでずっと、日向の中、お喋りしていたい。
ああ。我が愛しきオーブリー・リュシアン。わたくしは貴方を、いつの日か、貴方を。
(1.恋のはじまり:おわり)
―――――
Reference & Keyword
・魚食革命『津本式 究極の血抜き』完全版 / 津本光弘
・サバット(フレンチボクシング)
・ヴァレリーキック
・福地勇人
・カーフキック
・青木大介
・村上晴彦
・片野英児
・STRIPPER / The Birthday
・涙がこぼれそう / The Birthday
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます