1−3

 朝の五時。契約している市場の業者が、玄関先に食材を置きにくるころである。

 魚介や野菜などのうち、形が悪かったり、虫に食われるなどして、値段がつけにくいものを、あえて仕入れていた。基本的には自分ひとりで食べるものだし、料理の仕方でなんとでもなる。

 そのうちに市場に物を出している人々からありがたがられるようになり、その日の市場で売れ残ったものなどを、破格の値段で持ってきてくれるようになった。


 今日は、痛んだ赤茄子トマトに芋、笠子かさご眼張めばるに、割れた二枚貝とか。見た目こそ悪いが、このまま一緒くたに煮込めば、南西の漁師風になるような上等なものである。


 魚たちは、いわゆる根魚ねうおというようなたぐいで、不細工だが、どことなく愛嬌がある。それに陸に上がってからも、思ったより長く生きている。今日のも、まだえらが動いていた。

 群れこそはすれ、縄張りから動きたがらない性質らしく、鰯や鯖を狙った網の中に数える程度が混じる程度だそうだ。また成長も遅く、狙って獲れば数が減る一方。あるいは釣り好きからすれば、漁港なんかで簡単に釣れるというので、買ってまで食べる魚かというと、と思われている。味は抜群だから、住処となる岩礁の多い南西部では定番なのだが、そうではないこの辺りだと、ちょっと値段がつけづらい。

 なんだか可哀想で、可愛らしい。魚の中では、一番好きだった。


 先に魚だけ、処理をすることにした。


 魚の仕立てをする場所は、専用で用意してある。棘の多い魚なので、雑巾などで押さえるといい。笠子かさごは眉間、眼張めばるはこめかみのあたり。太めの錐を浅く打ち込み、抉る。口が大きく空いたら、脳締めは成功。そうしたら、えらの一番外側と体の間にある白い膜に刃を差し込み、血が滴るのを確認したら、すぐに水を張ったバケツに入れ、えらが白くなるまで水の中で振る。そこまでいけば、血抜きは完了である。

 そうしたらえらを外し、はらわたを抜く。時期によっては肝も肥えているので、見ておくに越したことはない。

 このあたりまでは、仕入れている魚の卸問屋おろしどんやに教えてもらったやり方で、もうちょっとこだわったやり方をすれば、皮と身の間にある血管に走った血すら抜くことができるらしい。訛りの強い不良中年で、そこらの海洋学者より知識があり、話もうまい。

 鱗を剥がず、ぬめりと水分さえ気をつければ、布で巻いて石室にでも置くと、それなりに長持ちする。それ以上なら、塩漬けしたり、干したりしてもいい。

 終わったら、使ったものも含め、石鹸を使って手を清める。魚の仕立ては、匂いが残りやすい。


 そうこうしているうちに、先に鳩を飛ばしておいたパン屋から、焼きたてのパンが届くころになる。バゲットを含めた何種類。それに蕎麦の粉と、卵もある。

 焼きたてのパンは格別だろうが、ちょっと気分が変わった。後ろに回して、朝食は蕎麦と卵を使うことにしよう。パン屋には悪いが、少し硬くなりはじめた辺りをスープに浸すのも、乙なものだ。


 蕎麦の粉、水、塩を混ぜて少し寝かせる。その間に、布団を干したり、居間のストーブに火を入れたりする。春めいてきたし、どうせひとり分である。暖炉だと大袈裟だし、熱効率もよくない。骨董品屋の片隅に置かれていた古いものだが、少し磨いただけでもになった。

 温まったストーブに、薬缶やかんと平鍋を置く。食糧庫に残っていた茸と、チーズを何種類か。平鍋に油をひき、寝かせた生地を薄く伸ばす。表面が乾きはじめたら、具を載せる。土手を作るように真ん中を開けて、そこに卵を落とす。皮の縁が、かりかりしてきたら、中央に向かって四方を内側に折り込む。蓋をして、余熱でチーズを溶かす。

 薬缶やかんも火から降ろし、少し冷ます。奥の方から昨日作ったテリーヌの残りをいくらか持ってこよう。紅茶、蜂蜜、生姜を刻んだもの。


 時間はたっぷり使ったので、八時の真ん中を過ぎたほど。さて、これでよし。


 蕎麦のガレットは、食べる直前に黒胡椒を挽いた。余り物で作っていた、何でもありのテリーヌ。小粒の揚げパンもあったので、それもついでに。後は、ジンジャーティー。

 ストーブの近くに据え付けたソファと長卓で頂戴する。台所でちゃんと手をかけて、食卓で召し上がるのもいいが、こういった横着をするのも最高の贅沢である。


 メタモーフという怪人が、こちらの方に流れているらしい。そんな話題が、新聞の片隅に載っていた。

 首都近郊を賑わせていた怪盗だそうだ。貴族や大店おおだなを狙い、下らないものを盗んで面目を潰す。顔を真っ赤にした被害者たちが国家憲兵警察隊に食いかかれば、今度はマスコミとかに“あいつら、やましいことしてるぜ”なんていう、ちょっとしたゴシップを匿名で送りつける。それも、旦那がめかけに乳首をかじらせてよろこんでいるだとか、その程度の下世話なものだ。

 その度に、民衆は手を叩いて大賑わい。狙われた側も、下手に怒れば恥の上塗り。警察隊も、他の悪党や民衆の相手で普段から忙しいのに、面倒が増えて大変だそうだ。


 ガンズビュールは別荘地で、観光地でもある。一攫千金狙いならいざ知らず、そんな酔狂者が遊びに来るような場所ではない。

 あるいは、別の狙いがあるのかも。


 朝食を済ませ、原稿を書いたりしているあたり、誰かが訪いを入れてきたようだった。


「まあ、ダンクルベールさま」

 思わず、頬が緩んでいた。太陽が、また昇った。


「いやあ、約束していたのに、すっぽかしてしまいました」

「いいえ。きっとお忙しい方ですもの。もう少しかかるかと思っていましたので。お会いできて嬉しいですわ」

 この前と同じく、にこにことしていた。心がほっとする。


 こうやって装束や佇まいを見ると、ちゃんと警察隊なのだな、とも思った。長めの軍靴。白いトラウザー。濃紺のダブルのジレに、白いシャツ。中央から来たのだろう、特徴的な暗緑色の油合羽あぶらがっぱは、畳んで腕にかけていた。油の匂いが好みでない人も多いので、その配慮もあるのかもしれない。


 もうひとり、連れてきていた。自分よりもいくらか小柄な、強面で、目の細い男。印象とは裏腹な、柔和で丁寧な口調で、ビゴーと名乗った。役職としては曹長ということで、ダンクルベールよりは下だが、軍歴は彼の方が長そうだ。士官と下士官で、二人組で動くものなのだろう。


「お話だけは聞いておりました。メタモーフ、でしたっけ?面白い御仁もいらっしゃるのね」

 応接間に招いて、珈琲コーヒーを振る舞った。二人とも落ち着いた様子で、所作にも一切の隙がない。

「あたしどもも随分と楽しませてもらっています。振り回されている、と言った方が正しいでしょうが」

「大変でしょう?顔も名前もない、影とか輪郭を捕まえろ、なんていうのですから。見当もつきませんわ」

「そうなんですよ。ですから、まずは足で稼いでいます。誰か新しい人を雇っていないか。近隣で諍いを抱えていないか。あるいは」

 ビゴーがカップを静かに置いて、その細い目をこちらに向けた。優しいが、奥に強いものがある。


「突然、羽振りのよくなったやつがいないか、とか」

 しん、と静まり返った。


 ダンクルベールを見る。笑顔のままだ。目も穏やかだ。つまりは、彼は自分を疑っていない。

 ビゴーはどうだろう。もう一度、目を見る。強いものはあるが、敵意はない。

 あくまで、話をしにきた。その上で、顎の勝負をするつもりはない。そういうところだろうか。


「ごめんなさい。具体的には存じ上げませんの。けれども、このガンズビュールは、豊かな人もいれば、貧しい人もいる。貧しい人々は、豊かな暮らしを妬んでいる。市場にものを並べることすら難しいのですから、少し上ぐらいの人たちにも恨みを抱いていることでしょう」

「あるいは、そういう恨みだとか妬みだとかを鎮めるために、メタモーフは動いている。私は、そう考えたりもしています」

 はじめて、ダンクルベールが声を上げた。

「思い返せば、やつが首都近郊で遊んでいた時は、民衆の不満は、かなり鎮まっていた。迷惑なのは確かですが、民衆を敵視する必要がなくなっただけ楽だったのは事実です。その次が、このガンズビュールということになる」

「あたしたちもここに来たばかり。いるのはご隠居さまとか、ご愛妾あいしょうさま。あとは貴女のような、失礼な言い方にはなりますが、世捨て人のような方々です。遊び相手として狙うとなれば、国家憲兵警察隊、つまり、あたしども。これが、ひとつ目の狙いでしょう」

「ふたつ目が、貧しい人々。ということかしら?」

「流石です。やはり、不作法を承知の上でも、押しかけてきて正解でした」


 ふと、外に誰かがいるような気がした。


 目だけ、動かす。誰もいない。ただし、ダンクルベールやビゴーも、自分と同じように、窓の外に目を見遣っていた。

 影に、見られていた。


「今日は、このあたりで失礼いたします。悪戯を仕掛けられるのは慣れているとはいえ、ご夫人さまにご迷惑をおかけするわけにはまいりません」

「名残惜しいですが、ご配慮に感謝をいたします」

 そうとだけ、答えた。家を荒らされるのもいやだが、客人の、そして恋した人の面目を自分の前で潰されるなど、是非とも御免被ごめんこうむりたい。


「ああそう。もうひとつ、狙うとすれば、うってつけの獲物がおりましてよ?」

 ふと、どうせだから、ちょっと掃除でも頼んでみよう。そう思って、振り向かせてみた。


 “明けの明星”という酒場にたむろしている悪党どもである。


 上から下まで、見境なく迷惑をかけている輩だ。特に親分の醜男しこおが、まあ最悪で、品がない上に女に汚い。力と金さえあれば屈服させられるとでも思っているような、下卑た男である。しかも噂では、どこぞの名族のご落胤らくいんだと吹聴しているらしい。事実かどうかはいざ知らず、いい迷惑だ。

 一度、市場で絡まれた。か弱い女をつくろっていたので、二度ほど頬をはたかれて、崩折れてみせた。

 汚い顔でにやついていた。おれの女になれよ。おれとの夜のことを書けば、よく売れるぜ。パトリシアちゃんよ。

 捻り殺そうと思ったところを、警察隊に割って入られた。

 たまに嫌がらせには来ていたが、警察隊が気を利かせて見回りを強化してくれたおかげで、それもぱったり途絶えた。

 ただ、生きているという事実すらいやで仕方がないので、何かしらをやらかして首を括ってもらえないものかと、仄暗ほのぐらい願望を抱えていたところだった。


 このふたりなら、やれるだろう。あるいは、外でこちらを窺っているであろう、メタモーフとやら、なら。


 外を警戒するために、先に玄関まで足を運んでいたダンクルベールが、あっと声を上げたのが聞こえた。ビゴーの小柄な体が、ぱっと動く。思ったより足が速い。


 戻ってきたふたりの手には、一通の手紙があった。ふたりとも、いぶかしげに中身を眺めている。

「まさか、噂の怪盗さんかしらね?」

「どうやらそのようですが、その」

 ふたりとも困った様子で、それを手渡してきた。


 一文だけだった。思わず、声をあげそうになった。


 “恋するお姫さまほど、綺麗なものはないってね”


 心当たり、ありますかね。尋ねてくるダンクルベールに対し、何も答えることができなくなっていた。きっと、顔は真っ赤になっていたかもしれない。なんとかかぶりを振るのが精一杯だった。


 怪盗メタモーフ。よくも私に、恥をかかせてくれたな。


(つづく)

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