1−2

 捜査の基本は、足。それは叩き込まれている。

 ビゴー曹長も、先だってこちらに到着していた。ちょっとした寄り道をしたが、無事に合流できた。慣れない土地はどうしたって難しい。


「あれがあの、ボドリエール夫人ですか」

「はい。えらい別嬪さんですね。俺は本を読まないのでよくわかりませんが、やはり言葉の使い方、選び方は、作家とか、詩人であることがわかるような気がします」

 ビゴーと並びながら、話を続けた。


「それ以上に、中身がわからない人でした」


「あのダンクルベール中尉殿をもってしても、それですか」

「買い被らないでくださいよ、先輩」

 ひらめきが走る。あるいは、人を読める。人の心を見透かす。そう言われることが多かった。

 自分の中では、ちゃんと組み立てているつもりである。仕草や表情、あるいは着るものとか、女であれば化粧だとか。そういうものから、人となりがある程度、見えてくる。口さがない言い方をすれば偏見だが、自分なりの統計学でもあった。

 人は皆、それぞれに違うところがあるが、どこか共通項がある。それを、頭の本棚であるとか、引き出しにまとめている。それだけの話だ。


 パトリシア・ドゥ・ボドリエール。高名な、いや、今まさに巷を席巻している、大人気の作家である。


 奇妙な女。そう思っていた。ボドリエールというと、没落しかけの、放蕩者の爺さまだった。それが最後の最後に寵愛した、年若いめかけである。

 それが亡くなった後、ガンズビュールの小さな別荘だけを受け継いで、ひっそりと隠者のように暮らしている。その後すぐに、さまざまな不幸や因果応報が重なり、ボドリエールの名跡は、あの夫人だけのものになった。

 まるでそうなることが、見えていたかのように。


 そのうち、本を出すようになった。確か処女作は、“三十二年の赤”。本屋の片隅にぽつりと置かれていただけのそれは、一週間もせずに、たちまち入口に山積みされるほどの評判になった。


 紙の束から溢れ出るほどの語彙。鮮烈な愛の描写。文章の中で生き生きと踊るように綴られた、人々の暮らし。そして甘美な肉体と心の交わり。

 新作が出るたび、周りの皆が夢中になって、本屋に押しかけていた。


 ただ正直、あまり好みではなかった。

 自分に本を読み込む才能がないのもあるが、ちょっとエロスがくどい。きっと、恋に恋するお嬢さまや若奥さま、遊び好きなお貴族さまには受けがいいのだろう。もとより本は読まないし、読んだとしてもエッセイとか、淡々としたものの方が好みだった。


 作り話は、どこまでいっても、作り話だ。


 本人は、見たことがないぐらいの傾城けいせいだった。紫の差した黒いドレス。同じように、光の中で黒点のようにはっきりと纏めて結い上げた、艶やかな黒髪。とろけるような眼差し。幾つなんだろうか。自分と同じぐらいか、もう少し若いかもしれない。

 日傘の中に、美しい黒が佇んでいた。そういった印象だった。


 ただ何より、聡明というか、狡猾だ。細かいところに、すぐに気が付く。すべてを見透かす恐ろしさがある。あるいは鏡が語りかけてくる。そう思った。


 あれは信用してはいけない。心を、許してはならない。


 ただ、利用はできるのかもしれない。あの頭脳。もしかしたら、自分の知っている人間の中では一番だろう。相談、あるいは捜査協力には乗ってくれるかもしれない。そうすれば、かなり心強い味方になる。

 ただその時は、半ば戦いのようなやりとりになるだろう。絶対に試してくる。それを耐え切るか、受け流すかする必要は出てくるだろう。


「夫人は、メタモーフではない。それだけは確実です」

「理由を。中尉殿」

「悪戯はする。試しはする。ただ、馬鹿にはしてこなかった。メタモーフなら馬鹿にしてくるはずです」


 これが、ガンズビュールに着任した理由である。


 顔も名前もない怪盗、メタモーフ。あるいはシェイプシプター。そう呼ばれているやつが、こちらに移ってきている。


 盗むものは大したものではない。ただ、必ず馬鹿にしてくる。いつの間にか仲間の中に紛れ込んで、何かひとつ、ちょっとした物を盗んで、いなくなる。たとえば住み込みの奥女中であったり、執事だったり、あるいは主人の親戚に化けて、落書きをしたり、盗んだのを気付かせてから消えるのだ。向こうからすれば、ちょっとした遊びだ。ただ遊ばれるこっちからすれば、完全に面目を潰されるわけだ。


 恩人であり、上司であるコンスタンからの命令だった。お前ならやりあえる。下手に大所帯でやろうとするから、こうなっている。一対一で喧嘩してこい。とのことだ。


 真っ先に疑ったのが、ボドリエール夫人だった。


 だから、道に迷った口実で接触してみた。怪しいものは今も残っているが、自分の中にあるメタモーフの輪郭とは異なった。


「ひとまず、足で稼ぎましょう。このあたりで、鼻持ちならないやつ。気取っているやつ。そういうのを狙うはずです。お宝には目もくれない。人を、狙うやつですから」

「被害者となりうる人の、人となりを見るわけですね」

「人となりを見るのは俺の本領ですが、人となりを引き出すのは、やはり先輩の本領ですから。やっぱり、いてくれないと困ります」

「買い被りですよ。中尉殿」

 ビゴーが、強面を柔らかくして笑った。


 自分から見て、およそ五から六ぐらい上の、頼り甲斐のある下士官だった。二等兵からの叩き上げで、とにかく現場の人である。小柄だがしっかりとした面立ちで、優しさと厳しさの両方を器用に使いこなせる人だ。

 ビゴーに取っ掛かりを見つけてもらえば、自分がその後を組み立てることができる。役割分担としては、適切だった。


 とにかく、話を聞いた。最近、おかしなことがないか。新しく人を雇ったりしていないか。あるいは、ちょっとしたことでもいい、いさかいか何か、抱えていないか。

 ビゴーの語り口もあり、皆、一様に胸襟を開いてくれた。

 念の為、聞いた理由も付け足す。首都近郊で騒ぎを起こしている盗人の類がこちらに流れてきていると。くれぐれも、用心して欲しい。それだけを伝えた。


 ガンズビュール地方支部の庁舎の一室。あとは仮住まいを二部屋、用意してもらっていた。


 とにかく、聞いたこと、思いついたことを書いていく。紙であれば質は問わない。とにかく、頭の中にあるものを吐き出して、文面に起こす。それを、組み合わせていく。


 メタモーフは、何がしたいのか。


 自分の力量を見せびらかしたいのか。あるいは、人が恥をかく姿が、そんなに面白いものなのか。警察隊を馬鹿にしたい、というのもあるかもしれない。とすれば、動機は恨みか、妬みか。

 もっとこう、別の理由があるのかもしれない。目に見えているものは、全部、囮。あるいは、撒き餌とか。

 ほんとうの仕事は、別のところでやっている。後ろめたいものを盗んでいる。被害届を出せないようなもの。それで強請ゆすりり、たかる。狙いを見えなくさせるために。


 顔も名前もない。つまりは、輪郭だけの人間。自分を捨てるのは、他人のためだ。他人のために自分を捨て、闇に溶け込む。その他人は誰か。守るべき人。貧しい人。救いを求める人。今まさに、生命いのちを失おうとしている人。

 いわゆる、義賊。ならば輪郭はなくとも、信念がある。


「めしを持ってきましたよ」

 不意に、訪いの音が聞こえた。ビゴーだった。


「先輩。もうそんな時間ですか?」

「そんな時間って、あんた。昨日の夜からこもりっきりですよ。今、十八日の夕方です」

 呆れたような声で、眼の前の机にあった紙を片付け、どん、と、めしの乗った盆を置いた。

「ちゃんと休まないと、頭は回らんでしょう」

「すみません。ご心配をかけました」

「構いませんよ。むしろよく、ここまでできるもんだ」

 ビゴーが、珈琲コーヒーをすすりながら褒めてくれた。いい匂いだった。

「今日はまず、めしを食って、軽く清めて、じっくり寝る。明日は起きたら、改めて身を清めて、めしを食べる。それから一旦、整理しましょう。目も鼻も耳も、そして頭も、休みがなければ、きかなくなる」

 その一言で、どっと眠気と疲れが来た。


 めしの味は、わからなかった。ただ、温かかった。それほど疲れていたのかもしれない。

 言われた通り、軽く体を清めてから、一九時には床に入った。

 夢は、見なかった。


 五時には起きていた。

 近所にエルトゥールル様式の蒸し風呂があるらしく、かなり早い時間からやっているそうだった。値段も安いので、行ってみた。

 あの複雑な異国の情緒をちゃんと再現している、本格的な場所だ。風呂の作りも、かなり古い時代のものに則っているらしい。


 ガンズビュールは、豊富な水量のある場所だ。いろいろなところから水が湧き出て、大小様々な池や湖がある。それでいて地盤がしっかりしているので、湿地帯のような、ぐずぐず、じめじめとした感じにはならない、風光明媚な場所だった。

 貴族たちが別荘を建てたがる理由も、わかる気がする。


 まずはひとつ目の部屋で、湧き水を使って汗や汚れを落とす。春が来たばかりだが、冷たすぎない。ぼんやりした頭が、これだけでもすっきりする。

 ふたつ目の部屋から、蒸し風呂が始まる。どん、と八角形の大きな広間。結構暑い。汗が出てきたあたりで、布を使って肌を清める。十分ぐらいが目処と言われた。耐えれて六分だった。

 次の間で、温めの湯で汗を流す。そうしたら三つ目。ここが本番。蒸気がむわっとした。ここで、また十分。むせるような水蒸気だったが、ふたつ目の部屋よりは楽だった。入口に塩が置いてあって、それを体に刷り込むと、もっといいらしい。


 ひと通りを楽しんで、エルトゥールルらしい、煮出した珈琲コーヒーを味わって、たっぷり一時間だった。それで六時。

 戻ったあたりで、ちょうどビゴーも身支度を整えて、用意していた。


 ふたりで、近くのカフェに行く。朝は軽く、が普通だが、昨日までの頭脳労働と蒸し風呂のおかげか、すっかり腹が空っぽになっていたので、多めに頼んだ。めしが腹に入ると、さらに体に熱が回って、心地がよい。

 いい店だった。日がよく差して、めしも美味い。

 対応してくれた女中は、小柄で金髪の、可愛らしい娘だった。料理を持ってくる度に、これはこうで、あれはああで、とお喋りしてくれる。国家憲兵警察隊であることを伝えると、これは、頼もしそうなお二方。きっとすごい人たちなんですね、と目を輝かせていた。そばかすの残った、素朴な子だった。


「ひとごこち、ついたみたいですな」

「おかげさまで生き返りました。あの風呂、大当たりですよ。自分と同じ肌の色の人が、何人か働いていました。同じようにして、こちらに居着いたようです」

「中尉殿と同じ肌の人は、ちょっと少ないかもしれませんから。もっと黒かったり、もっと白かったりする」

「そうですね。だからといって、どうというわけでもないのですがね。人は、人ですから。根っこは全部同じですよ」


 さてと、といった感じで、仕事の話に移る。話をしながら、頭の中をまとめていくというところだ。


「今はまだ、準備中と行ったところでしょう。動くのは、これから。狙いを定めるより、足場を定める感じです」

「足場ですか。ねぐらとか?」

「メタモーフは、義賊です。庇護する、あるいは、援助する対象があるはず。たとえば孤児院とか、修道院」

「盗むものは、大した金にはならんはずですが」

「見えているものは、見せているだけです。本命は、もっと後ろめたいもの。盗品、裏帳簿、あるいは、浮気の証拠とか。それで稼いでいる」

 ビゴーが、ほう、と言いながら、メモを取っていく。


「まずは、三つの顔があります。表面上の、怪盗としての顔。貴族や名家の面目を潰し、民衆の快哉をほしいままにする。ふたつ目は、悪人。人の弱みを握り、強請ゆすり、たかる。それも、外道や下衆を相手に。そして、義賊としての顔。手に入れた大金を、困っている人のために使う」


 加えて、六つくらいは顔があるはずだ。だが、そこまでは考える必要はない。まずは捉えやすいものだけを抽出すればいい。


 目の端々で走り回っている、あの金髪の女中。てきぱきと働いている。朝も早いのに、結構繁盛していた。それを、ひとりふたりで、ちゃんと対応している。仕事のできる、気立のいい子じゃないか。


「先輩には、義賊としてのメタモーフを探っていただきたい。困っている人、餓えている人です。ガンズビュールは別荘地で、観光地。位の高い人が多い反面、貧しい人はとことんのはず。貧富の差が激しいでしょう。手を差し伸べるとすれば、そういう人たちだ」

「ならば、中尉殿は表の顔を?」

「そうなります。ただ、これも見当はつきました」

 朝、風呂に入りながら、思いついたことだった。


 そもそもなぜ、ガンズビュールなのか。

 言った通り、別荘地である。位の高い人間が常在しているとは限らない。いたとして、ご隠居さまとか、それこそボドリエール夫人のようなおめかけさんだとか。

 そこで盗みを働くとしても、あまり効果はないだろう。どうせなら一攫千金、宮廷にでも忍び込んだほうが、民衆からの支持は得られる。

 そこに流れてきた。理由があるはずだ。


「鼻持ちならないやつ。気取っているやつ。そういうのを狙うはず。俺はそう、言いました。やつにとってのそれは、このガンズビュールには数少ない。別荘地ですから、常日頃からそういうやつがここにいるとは限りません。ただ、この国に限っていえば、遊び相手はどこにでもいる」

「遊び相手。つまりは、ある程度の嫌われ者ですかね?」

「ええ、つまり」


 そこまで続けたあたりで、にわかに店内が騒がしくなった。


 男がひとり、騒いでいた。懐中時計がない、と叫んでいる。ついさっきまではあったのに。ああ、財布もなくなっている。そんな事を騒いでいる。

 誰も彼もが、何が起きたのかもわからず、混乱していた。


「狙いは、我々です」


 あの金髪の女中の姿は、消えていた。


(つづく)

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