シェラドゥルーガ・オムニバス

ヨシキヤスヒサ

1.恋のはじまり

1−1

―――――

あの人と会いたいと思うたび、あの人は訪れる。

あの人に包まれたいと思うたび、包んでくれる。

優しく、ときに燃え尽くさんばかりに。

でも、夜になると、いなくなってしまう。


だって、お日さまだから。

夜の後には、必ず訪いを入れてくれるの。


パトリシア・ドゥ・ボドリエール、著

詩集“再びの人”より

―――――


 一目で、心を奪われていた。


 大きかった。自分より、ひとまわり、ふたまわり。いや、もっと。それ以上。

 筋肉質で、いかにも男性的な体格。それでいてごつすぎず、不自然さがない。そこにいるのが当たり前のような、そんな出立いでたち。濃茶の吊りズボンと生成りのシャツ。地味な服装だが、すごく似合っていた。

 肌は、黒。いや、褐色か。よく見る黒い肌の人たちより少し薄いし、顔立ちもちょっと違う。砂漠と大河の民かもしれない。陽の光に照らされて、輪郭が柔らかかった。

 頭は、剃り上げているのかも。だから自然とそこより視点が下にいく。しっかりとした鼻立ち。厚すぎない、白が差した唇。整えられた顎髭。若くも見えるし、年嵩があるようにも見える。

 目は、小さかった。眉との間は狭く、彫りは深め。瞳が穏やかな、木漏れ日のようだった。


「ああ、どうも」


 そのひとは、にっこりと笑った。

 特に近づくとかどうとかいうわけでもなく、その場で。

 笑顔が可愛らしかった。


「昨日、こちらに来たばかりで、迷子になってしまいました。ご婦人さま。道を訊ねてもよろしゅうございますか?」


 声や仕草から、年の頃、きっと二十の半ばを超えたところ、というよりは、三十の手前といった感じ。こちらも落ち着いてしまうぐらいに落ち着いていて、のんびりした心地になる。ああ、ずっと聞いていたいぐらい。


 見惚れていて、返答を忘れていた自分を、そっと恥じた。


「よろしゅうございますわよ」

「ありがとうございます。公営博物館、というのが、このあたりだったと聞いていて、そこで待ち合わせなのですが、どこもかしこも博物館みたいに大きなお屋敷ばっかりだから、わかんなくなっちゃいまして」

 穏やかな、太く、深い声。聞き惚れていた。

「それであれば、もう少し行ったところですね。わたくしでよろしければ、ご案内いたしますわ」

「ああ、いや。ご婦人さまのお手を煩わすのも」

「お客人をもてなしたくて仕方なくなるのは、この女主人の悪いところでもございます。もしよろしければ、お付き合いいただいても?大きなお客人さま」

 少しからかってみようと差し出した手を、その人は大きな手で、優しく迎え入れてくれた。

 体が跳ね上がるのを、必死で堪えた。きっと今、自分の顔は赤らんでいるのかもしれない。恥ずかしい。でもそれすら、見てもらいたい。

「それでよろしければ、喜んで。そして謹んで」

「エスコート、よろしくね?」

「承りました」

 大男が一礼ついで、自分の手の甲に、型式程度の軽いベーゼをした。唇をつけない程度。ときめいた反面、ちょっとがっかりした。どうせならもっと、吸い跡が付くぐらいに。


「オーブリー、ダンクルベールと申します。警察隊。こちらに配属となりました」

「あら、迷子の警察さんを案内することになるなんて」

「お恥ずかしい限りです」

 ダンクルベールと名乗ったひとは、からっと笑った。目を細めて。とろけてしまいそうだった。


 でも、駄目。私は淑女。そこいらの馬の骨に誑かされるなんぞ、恥も恥。

 ここはひとつ、格好をつけなければ。


「ミドルネームを隠したわね?」

 自分の言葉に、その人は、小さな目をまんまるくした。


「わたくしの方も名乗りが遅れましたわ。パトリシア・ドゥ・ボドリエールと申します」

「これはこれは。あの、ボドリエール夫人だったとは」

「それも、きっとわかって、声をかけてくれた」


 つとめて意地悪な目で刺してみた。力を振り絞ってでも、主導権を握りたい。そうでもしなければ、包まれてしまいたくなる。そんなところまで、心は傾いていた。


 少しの間を置いて、ダンクルベールは、またにこにこと笑った。


「これは、まいりました。噂をひとつ、聞いておりましたので、確かめてみたかったんですよ」

 恥ずかしそうに、頭を掻いていた。

「ボドリエール夫人の前では、嘘はつけない。紫の差した瞳はすべてを見透かすって。ほんとうだったんだ」

「いいえ。貴方は下手なだけ」

「精進いたします。改めまして、オーブリー・リュシアン・ダンクルベールと申します。夫人、どうぞよろしく」

 こちらを見て、改めて一礼した。


 リュシアン。大男には似つかわしくない、綺麗な名前。でも、この人なら似合っているかもしれない。


「私の恩人に名付けられました。他人には、そう呼ばせるなとも。その方のためだけの名前なのです」


 左手の薬指を覗き込んでしまった。綺麗な銀色がはめ込まれていた。

 思わず、唇を噛んでいた。


「ご内儀さまから?」

「いえ。ほんとうの恩人です。奉公坊主のときに出会った、奉公先の三男坊。悪い意味で名が通っているから、もしかしたらご存知かな?アドルフ・コンスタンという方です」

「ああ、あの。飲兵衛のんべのお殿さま」

 知っている。何度か話したことがある。今、警察隊本部の捜査一課主任だか、その上だかをやっているはずだ。見た目は最高にいいが、破天荒というか、滅茶苦茶な人だった。

 ほっとした反面、恋敵こいがたきがまた増えたような気がして、複雑な感情になっていた。しかも男である。

「昔飼っていた、犬の名前だそうです」

「それじゃあ貴方は、ワンちゃんなのね?」

「そういうことになっちゃいますね」

 恥ずかしそうに、歯を見せて笑った。

 言われてみれば、大きい犬みたいだ。遠くから見るといかめしいが、近づくと舌を出して、尻尾を振って飛び込んでくるような。自分と同じぐらいに大きくて、黒い、綺麗な毛並みの大型犬。温かい、ふかふかの、もふもふのやつ。


 隣にいると、いい匂いだった。太陽の匂い。温かくって、頬擦りしたくなるのを、微かな理性だけで堪えていた。


 貧民の出だという。南東の国エルトゥールルから交易のために流れてきて、そのうちここに根付いた移民のひとつ。祖父母のあたりから、ようやく姓を名乗れるようになった、その程度の家。

 三人きょうだいで、父は早くに亡くなったので、家族みんなで食べるために働いた。体が大きかったので、それだけで働き口が見つかった。それが、海運業の大手であるコンスタン家。そこの三男坊こと、飲兵衛のんべの殿さま、アドルフ・コンスタンに気に入られ、国家憲兵になることを勧められたそうだ。そのためのものもコンスタン家から捻出してもらったとのことで、感謝してもしきれないとのことだった。

 今では、自分の暮らす分を差し引いた残りを仕送りするだけでも、贅沢を望まなければ暮らしていけるし、他のきょうだいもすっかりコンスタン家に取り込まれてしまって、兄は職工、妹は使用人として働かせてもらっているという。

 長く働いてくれた母に、ゆっくりと婆さん暮らしをさせてあげれる。ようやく、そこまで来たところです。自分もまあ、仕事をしている中でご縁をいただいて、それで。

 ちょうどひとり目が産まれたあたりらしい。女の子だそうだ。自分とおんなじ肌の色で、可愛くて、可愛くって仕方ないと。

 素朴な道なりだった。苦労があって、幸運があって、今がある。どこにでもあるような、素敵なお話だった。


「リリアーヌ?リリィ、ね。可愛らしいお名前」

「そう呼びたくって押し切りました。向こうは、オーギュスティーヌだとかアレクサンドリーヌだとか、そういうのを付けたかったみたいです。ただ、言い方はあれですが、ごっついなと。口に出した時、かわいいなって思えるように、リリィ。リリアーヌにしようって」

「いいところの出なのかしらね。女は、身の回りの全部を、自分を飾り立てるための装飾品として扱いたがる生き物。自分に自信がないと、特にそうなるの」

「そうなんでしょうかね。難しいんですよ。おっしゃる通り、お嬢さまで。肌の色も、自分と違う。自分だけ仲間はずれだって、へそ曲げて」

「わたくしだったら嬉しくなりますわよ?だって貴方と同じ、綺麗な色の肌なんですもの。きっと可愛くて、綺麗なこに育つって。子育て、張り切りすぎちゃうかも」

「労いのお言葉、感謝いたします。気が楽になりました」

 口説いたつもりだったのに、綺麗に躱されてしまった。女慣れしているのかしら。もしくは、ちゃんとみさおを立てているのかも。


 そのうちに目的地が見えてきた。ゆっくり歩いてきたはずなのに、あっという間だった。もっとお話をしていたい。もっと一緒にいたい。

 もっと。いや、ずっと。隣にいてほしい。


 はじめてかもしれない。ここまで人を恋しいと思うのは。人を必要とし、人に必要とされたいと思うのは。

 何か理由があるわけでもない。ただ、ときめいてしまった。それだけだった。


「ボドリエール夫人のお手ずからのご案内、ほんとうに感謝いたします」

 連れ添っていた手をゆっくりと離し、そのひとは笑顔で向き直り、綺麗な所作で敬礼をした。


 温かさが、離れてしまった。胸が苦しい。


「よろしくてよ。こうして見ると、ちゃんと警察さんなんですね。ダンクルベールさま」

「いやあ。お恥ずかしい限りです」

「貴方の恥ずかしがる姿、もっと見せてほしい」

 名残惜しかった。でも、きっとまた会える。

「いつでも訪いにいらっしゃいな。わたくしはあの屋敷で、いつだって、ひとりぼっちだから」

「私でよろしければ、いつでも」

「そのお言葉、忘れませんわよ?忘れちゃ、駄目よ?」

「承知いたしました。では、夫人」

 ゆっくりと踵を返し、あの人は背中を見せた。そうして、小さくなっていった。


 太陽が傾いたような気がした。まだ、真昼間だというのに。寒い夜が来てしまうような寂しさが湧き上がってくる。

 また、ひとりぼっちになってしまうような気がした。


 寝床が、欲しかった。

 人として産まれたわけではなかった。何か違う生き物として産まれ、人に紛れ、人を喰らい、暮らしていた。

 強い力を持っていたので、人を支配するようなやり方で生きていたこともあったが、色々あってやめた。きっと、向いていなかったのだろう。そう思うことにしている。


 人になるために、寝床と名前と、仕事が必要だった。


 そこかしこに別荘を持っている爺さん貴族がいて、死にかけていた。

 家に潜り込んで、愛妾あいしょうのひとりに化けた。パトリシア。綺麗な女だったが、あまり賢くはなかった。


 誘い出して、食い殺した。骨の髄から髪の一本まで、余すところなく。


 それで、その女の生涯を手に入れることができた。そうやって、その女を模しながら、爺ひとりたぶらかし、手玉に取り、それでも絶対に体を許さずに。

 それで、ほんの少しの財産と、この屋敷を手に入れた。

 ボドリエールの名を継いだものは、闇の中から順々に消していった。

 全員、くだらない連中だった。金に目の眩んだ女。地位にすがる男ども。味には期待していなかったが、それにしても美味しくなかった。ただこれで、寝床と名前は捕まえた。


 仕事は、作家を選んだ。

 人を喰らうことで、その人の歩んできた道を知ることができた。それをちょっと組み合わせて、人が望んでいるであろうニーズ、あるいはエッセンスを加えてやるだけで、面白いように飛びついた。

 大抵は快楽だった。官能的なエロス。道徳と信仰で抑えつけられたそれを、解き放つ。思いつくままに、知っているままに書くだけ。それを皆、求めていた。


 そのうちに、不自由ない暮らしが手に入った。

 でも、ひとりだった。

 昔からそうだったが、環境が整うと、余計にそれが浮き彫りになった。


 小さな屋敷。使用人は、老いた夫婦のふたりだけ。それも、掃除と洗濯、庭の手入れを週に何回か頼んでいるだけだった。


 そのうち、求めるものを文章にしはじめていた。求めてくれる人。抱きしめてくれる人。包みこんでくれる人。そして、隣りにいてくれる人のことを。


 それが、ぽんと現れた気がした。


 ダンクルベールと、あの人は名乗った。

 名を綴る。おそらくはダンルベールが正しい発音だろう。彼の生まれから、そういう訛りなのかもしれない。むしろ耳に入るそれの方が心地よかった。文字にすると味気がない。

 ああ、ダンクルベール、ダンクルベール。そうだ。ダンルベールよりも、ダンルベール。とん、とひと心地が付く。


 耳に入ってくるものと、文字に起こすものの違いは結構、気になった。

 ボドリエールも、確かボドリヤールとかボードリヤールが正しい。でも言葉にした時、ボドリエールの方が耳心地がよかったから、間違いのまま受け入れていた。正しく間違うことを、し続けた。


 寂しい夜。言葉を綴った。明け方まで。


 膨大な、紙の束と、詩の山積み。自分でもびっくりした。

 これまで意識して綴っていた淫靡なものは少なかった。それよりもずっと素朴で、婉曲的で、精神の充足の方を求めていた。太陽とか、お日さまとか。そんな言葉が、たくさん。

 夜通し綴っていたのだろう。かなりの疲労があった。眠たい。でも、胸の中が、すっきりしている。全部、吐き出したのだろうか。


 推敲は後にしよう。陽の光の中、服を脱ぎ、寝台に潜り込んだ。


 掛け布団は必ず日干しをして、ふかふかにしていた。温かいものが、好きだったから。

 陽の光と、ふかふかのおふとん。あの人に包まれているんだ。そう思うと、眠るのが惜しくなったが、すぐに寝入ったようだった。夢すら見なかった。


 起きると、夕暮れだった。

 あの人が沈んでいく。あの人との一日を、ひとつふいにした気がして、悲しくなった。


 でも、約束してくれたのだから。訪いを入れてくれると。

 その言葉だけをずっと反芻しながら、また筆をった。


(つづく)

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