1−4
大男、ひとり。静かに入ってきた。
この店に
エール、緑のやつ。それだけ言った。
「憲兵さんかい?」
声をかけてみる。そのまま、男の隣。カウンターに背をもたれて、並んでみせた。
大男だが、ごつごつはしていない。褐色の肌で、迫力こそあれ、静かで、穏やかだ。
格好は憲兵のそれだが、羽織ものが珍しかった。暗緑色。そして、油の匂い。この辺りの悪党でもそれが何を意味するのかは、誰だって知っている。
「中央の、警察隊本部ねえ。
「そちらも、お前がここの親分か。お前ひとり、面白そうな目をしていた。他は敵意剥き出しか、びびっている。お互い、人見知りは不得手なようだ」
目だけが、こっちを見た。やはり、穏やかな目だ。緑の瓶。よくあるエールビールを手酌でやっている。
不思議な男だ。手下どもは確かに、挑みかかろうとしているやつと、すくんでるやつの両極端。こいつの表面しか見えていないからだ。ちゃんと見れば、敵意も悪意もないことはすぐにわかる。ここら辺は、場数の差で決まってくる。
「図体の割に、頭も口もできてる。いいねえ。ご注文は?」
「情報をひとつ。お前たちの、大嫌いな連中のことだ」
ふと、大男はそう言って、外を見やった。おそらくは斜向かいの、あの“明けの明星”亭のことを言っているのだろう。
確かに、大嫌いな連中だ。ごく普通の外道の分際で、上にも下にも手を出すような、見境のない連中だ。盗みから殺しまで、なんでもやる。矜持もくそもない、ただの馬鹿の集まりだ。どこぞのご
うちもうちで、後ろめたい商売はしているが、憲兵連中が目を瞑ってくれる程度のものだし、なにより矜持がある。神妙にしろと言われれば、それに従うつもりでいる。
「いくら出せるのかしらい?」
「金はない。渡せば、つけ上がるだろう?」
「それじゃあ、この話はおしまいだな」
酒を飲んだら、一発
「ここのやり方で、支払うよ」
思わず、もう一度、目を覗き込んだ。
「友だちに、なりに来たんだよ」
男は、ちゃんとこちらを見て、少し微笑んでみせた。相変わらず穏やかで、そして爽やかな目だった。
へえ。憲兵さんなのに、面白いやつじゃないか。
指を三度、鳴らした。手下どもがいきり立って、奥の間に消えていく。そのうちに、店の外からも、ちらほら人が入ってきた。中には、“明けの明星”の連中も混じっている。
亭主が、男と同じ酒を寄越してきた。これもひとつの習いである。友だちになりにきたというのであれば同じ酒を飲むのも、決めた作法のひとつ。
瓶のまま飲んだ。ほんとうはグラスで飲むのがうまい酒だが、友だちの手前、格好をつけておく必要がある。向こうもそれを汲んだようで、途中から瓶のまま飲みはじめた。
ふたりとも、自分の瓶を飲み切ったのを確かめた後、奥の間に誘った。
あるのは、ちょっと広めの空間に、木の柵で囲われた場所が、ぽつりとひとつ。先に入っていた連中は、今か今かと、声や口笛を上げて騒いでいた。
喧嘩賭博。一番の稼ぎであり、ここいらの名物でもある。
「拳闘。使うのは、拳と蹴り。上半身だけ脱ぐ。膝、肘、頭突き、目突き、金的、組み伏せなし。反則三回か、先に倒れたやつが負け。柵にもたれる、膝をつくのは十秒まで。よろしゅうござんすかね?」
「案外、細かいな」
「友だちになるためだからな。殺しあうためじゃない」
大男が、上を脱いだ。おお、というどよめきがあがった。仕上がっている。体毛は少なく、褐色が煌めく、綺麗な肉体美だ。年増どもも、きゃあきゃあと黄色い声をあげている。
双方、両の手に布を巻かせる。痛めると後がこわい。拳という器官は、存外に繊細なのだ。
その準備の最中、向こうが左の薬指のものを取って、小間使いに渡した。そいつが舌なめずりをしたのを、目で刺した。すぐに気付いたようで、それだけで震え上がっていた。
男の。いや、人のそういうところを軽んじるやつは、断じて許せない。俺たちは悪党であっても、外道ではない。
「名前、聞いとこっか?何かあった時、墓に刻まなきゃあならん。友だちは、ちゃんと最期まで面倒見なくっちゃね」
「ダンクルベール。オーブリー・ダンクルベール」
「カジミール・アキャール。
そうやって、はじまった。
軍隊の、徒手格闘の構えだ。つまりは抑えつけ、とっ捕まえるためのやりかた。
こちらは左足を前にして、やや半身。両の手は、頬と顎のあたり。脇を軽く閉めて、揃えるように。
この作法においては、向こうの構えに対して有利が取れる。憲兵を相手取っての喧嘩を繰り返して、磨いたものでもある。
さてさて、はるばるお越しいただきましたお憲兵さまに、うちの
迫ってくる。踏み込んだ膝頭に、足の裏を叩き込んだ。痛みはないだろうが、動きは絶対に止まる。
そこに左。振りかぶらないで、直線距離。頬に触れさえすれば、それでいい。反応しきれないものに反応させる。そうすれば、もう片方が空く。
そこに右を叩き込むまでが、瞬殺の組み立てだ。
反応した。だが、反対の側頭部は、空けてくれていない。代わりに、分厚い脇腹が空いた。そこに右を二発。まったく動じない。
真っ直線に、向こうの右が飛んできた。速度を見ながら、すれすれで躱す。ものすごい風切り音だった。
「やるじゃん。第一関門、突破だ」
「そちらも。名前の通り、おっかない拳だね」
ダンクルベールという男は、頭も巨躯も、うまく使ってきた。
まずは、ほぼ足を捨てている。足は距離ができた時、あるいは、距離を取りたい時に使う、槍のようなものだ。それを捨てて、拳だけで攻めを組み立てている。硬い守りのまま、それを左右に振りつつ、どんどん前に詰めてくる。
狙いは、ほとんど腹だ。肘を曲げたまま、体を振る動きと背中の筋肉をうまく使って、細かく、小さな動作で放ってくる。必然的に、守りを下げざるをえなくなるし、距離を離そうとする動きに終始せざるをえなくなる。
そうすると、渾身の拳がいつ顔面に飛んでくるか、そこの恐怖との戦いがはじまってくるのだ。じりじりと、心に迫ってきた。
守っても当たっても、負ける。なら、自分のやり方だ。
近距離でも、足は使える。足への踵落とし。前足の
膝を上げるだけで、瞬時に足を守ろうとする。そうしたら上げた膝をそのままに、前蹴りに替えてやれば、腹のど真ん中に打ち込める。
そのうち、自分の距離になってきた。左右の拳を撒き餌にし、前足の膝につま先を刺す。蹴り足は戻さずに、左右どちらかに差し落とせば、もう片方の足を、また前足の膝に叩き込める。この蹴りは、軽くでいい。繰り返していると、向こうはまず、自分が前にいるのか、左右にいるのかもわからなくなってくるのだ。
そうしたらようやく、
それでも、たまに飛んでくる拳は、とんでもなく恐ろしい。
肩か、あるいは肘を見ていれば躱せる。見ていなければ躱すことはできず、守ることしかできない。
暴力とはえてして、質量と速度で成り立つ。守りの上からでも、芯を揺さぶられる。これだけは体格差、重量差を恨んだ。
上背にも、体格にも恵まれなかった。あるいは生まれにも。負けて、倒れて、そこから這いつくばって、そうやって培ってきた。剛腕を下すには、血と汗を流すしか道はなかった。
幾多の自分の屍の上に、このガンズビュールいちの喧嘩上手、
当たれば勝てる。当てられれば負ける。そこまで極端に作り込んできた。
顎が空いた。好機。届けば、倒せる。顎を狙うのは何よりの得意だ。外すことだけは、絶対にない。
とくと味わえ。
途端、倒れていた。前足の
今更、足だと。
立てる。折れていない。十秒、しっかり使おう。思いながら、相手を見た途端だった。
迫ってきている。
反射的に立ち上がっていた。姿勢ができあがった瞬間、また痛みが走った。忘れていた痛みが、戻ってきたのだ。
ダンクルベールが、止まった。
拳は握られておらず、平手だった。きっと向こうも反射的に動いたのだ。押し倒して、組み伏せようとしたのだろう。すんでのところで、うちの決まりの細かいところを思い出して留まったのだ。
目は穏やかだが、後ろに焦りとか、戸惑いがあった。それでも、冷静、沈着で。律儀なやつだ。
いいやつだな、お前。ダンクルベール。いい友だちになれそうだ。
頭では、そう思っていた。感謝すら、覚えていた。
だが、もっと奥の方は、違っていた。
吠え叫んで、襲い掛かっていた。体ごとぶつかっていく。
まともに食らった巨体が、柵にぶつかって跳ねる。そこに、思いきり頬をぶん殴った。倒れ込んだダンクルベールに、そのまま乗りかかる。
俺に、この
「俺の負けだ。それでいい。だが、止めるな。獲物を前にもじもじしやがって、可愛いこちゃんがよ」
衝動だけで、殴っていた。
どうしようもない馬鹿なことをしていることは、ちゃんとわかっていた。根っこの部分が、それを許してくれなかった。それだけだった。
根っこが、矜持や格好の邪魔をする。何度もそれを恨んでいた。
決まりを細かくするのも、根っこを前に出さないようにするためだった。根っこは、人を殺すほどに強かった。実際に何人か、体にも心にも、いやなものを遺してしまうことがあった。
本意じゃない。これは遊びであり、稼ぎでしかないことだ。殺し合いをしたいわけじゃない。
だから、とっととやっつける。早いところ終わらせる。勝とうが負けようが。根っこが出る前に。
そうでなきゃあ、こうなる。
「馬鹿にしやがって。悪党の領分に、真面目に付き合おうってかよ。悪党ってなあ、こういうもんなんだよ。お憲兵さま。くそみてえな連中なんだ。真正面から話もできねえような、ごみの集まりなんだよ」
殴りながら、叫んでいた。根っこが、自分を恨んでいた。
向こうは、ちゃんと両腕で、頭を守っている。冷静だ。いいね。こういう状況で、逆上している相手をちゃんと見れている。立派なやつじゃないか。俺みたいなのとは違って、いいやつだ。人に優しくできて、人のやり方に付き合うことができて、それを破ったとしても許してくれる。
ありがとうよ、ダンクルベールさんよ。
守りが、緩んだ。顎。見えた。
横から、何かがぶつかった。ぐらつく。脇腹か。しびれ。広がる痛み。苦悶が、口から飛び出す。
体勢が、崩れた。起き上がられるか。上体。少しだけ、上がった。
そこまでは、わかった。
仰向けになっていた。何を貰ったのかは、検討が付かなかった。
「立てるかいね?」
息切れの混じった、それでも穏やかな声だった。
「無理そうだねえ」
痛え。とにかく、そればっかりだった。
負けた。負けるようなことをして、ちゃんと負かされた。
悔しさはなかった。むしろ、ありがたかった。根っこごと全部をぶっ飛ばしてくれた。
ここのところ勝ちが続いて、きっとつけ上がってたんだろうさ。たまに負けないと学ぶもんもないだろうし、いい機会だったんだ。
ふと、体に何かがあたっていることに気付いた。そうして、視界が変わっていることにも。
「友だちになりに来たんだ。殺し合いに来たわけじゃない」
ダンクルベール。起こしてくれていた。
「そうだったねえ。じゃあ、なろうか」
思わず、笑っていた。
「あらためて、アキャールだよ。ダンクルベール」
「ダンクルベールだ。よろしくな、アキャール」
覗き込んだ顔は、満面の笑みだった。
こりゃあ、いい友だちを持っちまったなあ。
(つづく)
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