第4話:赤の眠り

白い門の前で、九条律は立ち尽くしていた。


 門の向こうには、あの“鼓動”がある。

 もう一つの心臓。

 自分の死と引き換えに動き出す、魂の中核。

 それは、安らぎでもあり、終焉でもあった。


 だが――律は踏み出せずにいた。


 誰もが“死”に抗いたがるように、彼もまた、“知ることの先”にある沈黙が怖かった。

 そこに待っているのが救済なのか、それとも虚無なのか。

 たとえもうひとつの心臓がそこにあると知っても、戻れない一歩を踏み出す覚悟は容易ではない。


「迷っているのか?」


 またあの声が後ろからした。

 振り返ると、そこには“もう一人の律”――律の裏側にある心臓の化身が立っていた。


「お前が動き出せば、俺の鼓動は完全になる。

 そうなれば、痛みも苦しみも、すべては終わる。

 永遠の静寂だ。心を眠らせる“赤の眠り”だよ」


「……それは、本当に救いなのか?」


 律は自分でも驚くほど冷静な声で問い返していた。


「何も感じず、何も選ばず、ただ安らかに鼓動するだけの存在になる。

 それを“生きる”とは言えるのか?」


 もう一人の律は、わずかに目を伏せた。


「そう思うなら、まだ“現世の心臓”に未練があるんだろうな。

 ならば、選べ。

 この門をくぐり、“赤の眠り”に入るか。

 あるいは――もう一度、目を覚ますか」


 律は門を見つめた。

 赤い光が、まるで胎児のようにゆっくり脈打ち、優しく呼びかけてくる。


 ここにいれば、何も苦しまなくていい。

 でも、それは自分であることをやめることだ。


 そして思い出した。

 病室の窓から見た月。

 音のない夜。

 “あの静けさ”が怖かった。


「……まだだ」


 律は静かに言った。


「俺はまだ、“ひとつ目の鼓動”を手放す覚悟ができていない。

 たとえ苦しくても、まだ、この世界に未練がある。

 まだ、生きていたいんだよ」


 そう言って、彼は門に背を向けた。

 すると、白い世界がゆっくり崩れ始める。


 そして――


 彼は病室で目を覚ました。


 窓の外は、朝焼けに染まり始めていた。

 胸の奥で、不器用に、だが確かに――ひとつの心臓が脈を打っていた。

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