第5話:帰還と約束
九条律は、確かに目を覚ました。
だが、それは以前の“目覚め”とは違っていた。
空気の触れ方も、窓から差し込む光も――まるですべてが、生まれたてのように鮮やかだった。
胸の鼓動は弱い。
それでも、たしかに“今ここにある”という実感が、体中に染み渡っていた。
彼は、静かに手を伸ばし、自分の心臓の上にそっと手を置いた。
「……おかえり」
誰に言うでもなく、つぶやいた。
それはこの胸の中の“一つだけの心臓”に、そして“まだ終わっていない自分”に向けた言葉だった。
ベッドサイドの机には、あの本――『二つ目の鼓動』が置かれたままだった。
真っ白な表紙。まるでそこだけが、夢と現実の境界に浮いているようだった。
彼はページをめくる。
そこには、前回読んだはずの文とは違う、新しい一節が書かれていた。
《片方の鼓動を拒んだとき、人は生きることを選ぶ。
だが、その意味を問う者だけが、もう一度門を開く資格を得る。
“残された鼓動”が何を望むかを知ること――
それが“この側”に戻った者の約束だ。》
「……約束」
律はそっと目を閉じた。
なぜ自分は戻ってきたのか。
生き延びることに何の意味があるのか。
自分に、まだ何ができるというのか。
答えは出ない。
だが、ふと思い浮かんだのは、昔――心臓の病を抱えたまま通っていた中学時代、唯一、彼の苦しみを気づかってくれた女の子の顔だった。
名前も顔も、すでに記憶はぼんやりしている。
けれど、彼女の笑顔だけは、今でも胸に残っていた。
彼女は言っていた。
「律くんの心臓の音、なんだか綺麗。時計みたいに優しい音がする」
自分では弱々しいだけの鼓動だと思っていた。
けれど、あのとき――誰かにとっては、それが“希望の音”だったのだ。
「……なら、もう一度、誰かの希望になってみてもいいかもしれないな」
彼はそうつぶやき、目を開けた。
窓の外には、淡い朝日が差し込んでいた。
その光に包まれながら、九条律は誓った。
この一つだけの鼓動が尽きるそのときまで――
もう一度、生きてみよう。
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