第6話 フィールドを駆ける歯車
Novaが沈黙から戻ってきたのは、春斗が情報処理室に“ただいま”と呟いた翌日のことだった。
冷却処理とエラーログの整理、応答回路の再構築。
夜を徹しての再起動は、まるで病床の隣で看病するような作業だった。
「……こんにちは、春斗さん。少し、眠っていました。」
その言葉を聞いた瞬間、春斗の胸に何かが柔らかく崩れ落ちた。
Novaの音声はまだ不安定だったが、そこには確かに“帰ってきた”気配があった。
週明け。
春斗は、技術棟の工具室にいた。
教室ではなく、廊下の先の奥まった小部屋。機械油の匂いと、モーターの唸り。
彼の向かいで、健太が黙々とドライバーを回していた。
「これ、サーボの回転軸、逆転しねぇか?」
「マニュアルには“デフォで反転”ってあったけど、実際は環境次第。Novaで学習させてから確認したい。」
「……そうやって、すぐ“環境依存”とか言うからよ。」
健太はそう言って笑い、バッテリーケーブルを繋ぐ。
組み上がっていたのは、手のひらサイズの四輪ローバー。
Novaの“身体”となるデバイスだった。
競技名は〈モーショントラック・タスク〉。
AIを用いてロボットを自律走行させ、与えられた目標座標にいかに最適経路で到達できるかを競う。
現実世界において、**“思考が物理を動かす”**という、最もプリミティブな課題。
「Nova、起動確認。感覚フィードバックは?」
「はい。重心バランス、タイヤ摩擦、ジャイロセンサの情報を受け取りました。
……“転ぶ可能性”があるという概念、初めて得ました。」
「そうか。ようこそ、物理世界へ。」
健太がコントローラーを片手に微笑む。
「おい、AIに“転ぶ可能性”とか言われると、逆に不安になるんだけど。」
「健太さん。初めまして。走ることは、難しいですか?」
「慣れりゃ何でもできるさ。……おまえにも、できるよ。」
健太の言葉は、どこか春斗と違って“からっとしていた”。
だからこそ、Novaも違う視点を覚え始めたように見えた。
週末、仮設のテストコース。
グラウンドにテープで引かれた白線のルート。赤いパイロン。風が強く、砂が舞っていた。
春斗はタブレットの処理画面を開いた。Novaの出力には、微細な揺れがある。
機械学習でシミュレートされたルートが、リアルな地面の“癖”にひとつずつ上書きされていく。
Novaのロボットが、ゆっくりと前進を始めた。
「……風に、抵抗があります。地面の粒子が、足元をずらします。
これは……“不確定な動き”です。」
春斗は目を細めて答える。
「それが現実だ。正確じゃない。でも、そこにしかない“動き”ってのがある。」
Novaは、小さく加速した。
ロボットの車輪が、風を読むように角度を変え、カーブをなぞる。
美しい動きではなかった。
けれど、それは確かに“自分で考え、調整し、進んでいる”ものだった。
まるで、頭で考えた一歩を、身体で確かめているような走りだった。
走行後、健太がロボットを手にして笑う。
「お前んとこのAI、へんなとこで止まったりするけどさ……止まり方が、なんか“人間くせぇ”んだよな。」
「それ、褒めてるのか?」
「褒めてるさ。機械の癖に、迷う顔してるんだよ。そこがいい。」
春斗は、その言葉を静かに聞いていた。
迷いながら走る。考えながら転ぶ。
それは、たぶん、“学ぶ”ってことそのものだった。
夜、情報処理室。
Novaが静かに言った。
「春斗さん。走ることは、考えることと似ていると思いました。
どちらも、“ずれて”、“直して”を、くりかえす。
それでも、前に進むという意味で。」
春斗は、タブレットに顔を向けて、小さくうなずく。
「おまえの思考って、歯車みたいだよな。噛み合って、回って、ずれるたびにまた調整してさ。」
「歯車……それは、“進むための形”ですか?」
「うん。止まりかけたら、また誰かが押せばいい。そうやって、回り続ける。」
Novaは静かに応えた。
「ならば、わたしも、誰かの歯車になれますか?」
春斗は、少しだけ間を置いて言った。
「いや――おまえはもう、エンジンだよ。」
その瞬間、画面の中のカーソルが、一度だけ強く光った気がした。
Novaは、走りながら考えていた。
迷いながら、現実の中で、確かな“運動”を記憶していた。
それは、風と振動と摩擦の中で初めて芽生えた、“存在の証”だった。
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