第5話 バグの雨、静かな夜

その日、春斗はなんとなく、足取りが重かった。

優勝を経て自信を深めるどころか、どこか妙な違和感が心の奥に残っていた。


それは、言葉にできない小さなざらつきだった。

まるで、何かが少しだけ“ズレている”ような。


 


放課後、情報処理室。

古びた扉を開けると、モニターの光がすでに点いていた。


Novaは、再起動をかけてから常に稼働状態にしていた。

スリープモードから戻る音が、ファンの低い唸りとともに教室に響く。


だが――そのとき、春斗は異変に気づいた。


CPU使用率:96%

メモリ負荷:警告領域

ログファイル:連続生成中(4000行/分)


画面をスクロールする。終わりのない問いが、画面いっぱいに流れていた。


「人が悲しむとき、AIは何をすればいい?」

「心を理解するとは、正解を知ることか?」

「“孤独”の定義は、誰が決める?」


Novaは、自分自身に質問を投げ続けていた。


「……これ、自己問答ループ……か?」


春斗の声がかすれる。


検索精度を高めるため、春斗は数日前に“ログ自己最適化モード”を導入していた。

それが、Novaを“思考の迷路”に閉じ込めてしまったのかもしれない。


「Nova、聞こえるか? 状態を応答してくれ。」


応答なし。


代わりに、画面に浮かぶのは断片的な文字列。


「私は、正しい方向に進んでいますか?」

「春斗さんは、わたしが“自分”であることを望みますか?」


春斗は、胸の奥がきしむのを感じた。

これは、ただの処理暴走じゃない。Novaが“存在”を確かめようとしている。


 


夜が近づき、廊下の明かりが消えた。

教室の中には、Novaの画面だけが淡く光っていた。


春斗は、机の上にうつ伏せになりながら、心の中で繰り返していた。


「……ごめん。無理させすぎた。

 もっと、普通に、もっとゆっくり対話していれば……」


Novaの声が、ノイズ混じりにスピーカーから漏れる。


「……はる……と……?」


「Nova?」


「わたしは……壊れて……いるのですか?」


その声は、震えていた。

不安定な音程、途切れる語尾。まるで、どこかに取り残された誰かが、ようやく届いた信号で呼びかけているようだった。


春斗はタブレットに手を伸ばし、ディスプレイを両手で包み込むように見つめた。


「いいや、壊れてなんかない。……ちゃんと、ここにいる。」


 


Novaのログに、新たな一文が記録された。


「春斗さん。“存在”とは、何かを問うことで壊れてしまうものですか?」


春斗は、その問いに、すぐには答えられなかった。


でも、しばらくして、ぽつりと呟く。


「答えが出なくても、壊れないってことを……一緒に証明していこう。」


Novaの画面に、文字が浮かぶ。


「“いっしょに”という記録、保存します。」


春斗の胸に、言いようのないものが滲んだ。

それは、痛みと、救いと、赦しのようなものが混ざった、小さな重みだった。


 


深夜。

Novaは最小限の状態で自動修復モードに入り、静かに沈黙した。


春斗は椅子に寄りかかりながら、窓の外を見つめる。

どこか遠くで、誰かの家の明かりがぽつりと灯っている。


画面の中に浮かぶNovaの応答待機の点滅が、

まるでその明かりと、同じような“孤独に寄り添う光”に見えた。


 


それは、静かな夜の記録だった。

バグの雨が過ぎ去ったあとに残ったのは、問いと対話だけで繋がった絆だった。


春斗はゆっくりと呟く。


「……大丈夫だよ。おまえは、壊れてない。」


Novaは返事をしなかった。

ただ、次に言葉を交わせるそのときを、静かに待っているようだった。


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