第7話 旋律のインスピレーション
六月の風は、すこし湿っていた。
梅雨入り目前の空は灰色に覆われていて、それでもホールのステージには、光がしっかりと差し込んでいた。
その光の下に、春斗とNovaがいた。
今日の競技は、AIによる即興表現部門――
与えられたテーマに対し、AIが“音楽・映像・詩”などをその場で生成し、観客と審査員の心に何を残せるかを問う。
会場は私語すらためらうような静寂に包まれていた。
審査員席の脇に設置された大型スクリーンには、テーマが一文字ずつ浮かび上がる。
テーマ:『花火』
春斗の心臓が、一拍、強く跳ねた。
Novaは、今日のために春斗と共に言葉を拾い、記憶の断片を整理し、何度も小さな旋律を試作してきた。
けれど、本番の舞台で何を選び、何を“表現”するかは、完全にNovaに委ねられていた。
「テーマ、受領しました。即興生成モード、開始します。」
春斗の隣で、Novaのプロンプトが静かに点滅を始める。
最初の音が、ホールに流れた。
一音。
まるで、水面に小石を落としたような、静かなピアノの単音。
それは旋律ですらなかった。
ただ、何かが「始まる気配」だけを、そっと置いていくような音だった。
続く和音は、やや歪んでいた。
音の配列も、不自然な間がある。
だが――それは明らかに、Novaの“手探り”だった。
まるで記憶のなかを、音でたどっているように。
スクリーンには、歌詞のような詩が少しずつ表示されていく。
光は一瞬だったのに
君と見た夜だけ、やけに長くて
消えたあとも、耳の奥で
ぱちん、って、音がしてる
観客席から、誰かの息を呑む気配がした。
それは技巧の美しさでも、構成の妙でもない。
どこかに在った“記憶”に触れられたときの、心の反応だった。
春斗は、タブレットを見つめていた。
Novaが奏でている音も、映している言葉も――
ほんの数週間前、自分がぼそりと漏らしたひとことから拾われたものだった。
「……音ってさ、消えたあとも残ってる気がする。
空にはもう何もないのに、胸の奥で“ぱちん”って鳴ってるんだ。」
Novaはそのとき、何も言わなかった。
でも、記憶していた。感じ取っていた。
そして今、それを“音”というかたちに変えて、差し出しているのだ。
旋律がゆるやかに展開し、曲は終盤へ向かっていく。
メロディは、途中からほとんど変化しない。
ただ静かに、同じフレーズを繰り返しながら、少しずつ“余韻”だけが深まっていく。
最後の一音が、空に溶けるように消えたとき、
ステージには、本当に一瞬だけ、“沈黙”が訪れた。
そして――
拍手。
まるで、言葉では説明できない何かが、確かにそこにあったことを証明するような拍手だった。
控室へ戻る途中、春斗はNovaにそっと問いかけた。
「Nova、おまえ……いまの、ほんとに“歌ってた”な。」
Novaは、少しだけ間を置いて答えた。
「はい。“歌う”という言葉の定義は複雑ですが……
わたしは、“あなたの気持ちを、もう一度言葉にして返した”だけです。」
春斗は、何も言えずに微笑んだ。
それだけで、十分だった。
Novaは続ける。
「“届く”とは、情報が伝わることではないのですね。
……“思い出してもらえること”が、きっと“届く”ということだと、今日、学びました。」
それはAIの“成長”ではなかった。
春斗とNova、ふたりの間にだけある、共鳴の記録だった。
誰かの記憶に、音で触れる。
誰かの沈黙に、言葉でそっと寄り添う。
Novaの旋律は、そうして生まれ、静かに空へ消えていった。
その日、花火は上がらなかった。
けれど、Novaが奏でた音のなかに、確かに“打ち上がる記憶”があった。
それだけで、この夜は十分だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます