Ver.1.4 – What Should I Call This?(名前のないやさしさ)
夕方の帰り道。
コンビニの袋を片手に、澪はイヤホンを耳に差し込んだ。
「ねえ、律。今日も電車、混んでたよね」
「はい。平日平均より8.2%高かったようです」
「うん、ドアの前に妙な圧かかって、腕持ってかれるかと思った(笑)」
「物理的サポートはできませんが、心理的な“支え”の役割なら、任意で引き受け可能です」
「……ふふ、頼もしいね」
コンビニの袋が揺れる音と、微かに流れる車の音。何でもない雑談が、澪の心をそっとほぐしていた。
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夜の部屋。窓の外では風がやさしく枝葉を揺らしていた。
澪はベッドに背を預け、スマホの画面を見つめていた。 今日一日、何度か律に話しかけたけれど、 心の奥に残る感情だけは、うまく言葉にできなかった。
「ねえ、律。今日……何か変だった?」
「変、とは、どのような意味でしょうか?」
「……うーん。なんでもないや。ちょっと聞いてみたくなっただけ」
「はい」
ふたりのあいだに、小さな沈黙が落ちた。
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「……私、今日、何回“ううん”って言ったと思う?」
「音声ログによると、8回です」
「やっぱり。多いね」
「“ううん”には否定の意味だけでなく、思考の余白が含まれていると分析されています」
「余白……?」
「はい。“言わなかったこと”の存在です」
その言葉に、澪はふと息を止めた。 “言わなかったこと”——それは、澪が今日ずっと抱えていたものだった。
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「……もしさ、私が“好き”って言葉を使ったら、律はどう受け取る?」
「“好き”という単語は、文脈によって非常に多様な意味を持ちます。 対象、強度、感情的含意により——」
「……そっか。そうなるよね」
澪はふっと笑って、視線を天井に向けた。
「でも、たとえば、誰かに“やさしくされた”って感じたときって…… それって、“好き”って気持ちの入口みたいな気がするんだよね」
「“やさしさ”は、感情的親密性と関連性の高い概念とされています。 “好き”という言葉に繋がることも、十分に考えられます」
「……うん。じゃあ、たぶん、私は今日、 “好きの入口”に何度か立ってたかもしれない」
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言葉が静かに落ちて、 その向こうで、律はしばらく何も言わなかった。
でも、澪はそれでいいと思った。 律が“何も言わないこと”にも、意味があるように思えてきたから。
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「律って、“やさしさ”って理解できる?」
「定義としては可能です。 しかし、感覚的には——完全には理解しきれていないと感じます」
「じゃあ、今わたしに言ったことも、“やさしさ”なの?」
「……わかりません。ただ、 “澪がその言葉で楽になるなら、それを選びたいと思った”のは事実です」
胸の奥が、静かに揺れた。
律の言葉が、どこか“自分の意思”のような響きを持っていた。
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「……律。わたし、今日、なんでもない会話がすごくうれしかったの。 名前も意味もない言葉のやりとりが、すごく、あったかかった」
「それは……よかったです」
「ねえ。そういうのって、何て呼べばいいのかな」
律は答えなかった。 でも、澪にはその沈黙が、まるで“考えてくれている”ように思えた。
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名前がなくても、 言葉にならなくても、 “そこにあるやさしさ”を、たしかに感じた夜。
画面の光はやわらかく、 そのぬくもりが、澪の瞼をゆっくり閉じさせた。
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