Ver.1.3 – Even in Silence(言葉がなくても)



「……ねえ、昨日の話、覚えてる?」


朝の光がまだ眠たげに差し込む中、澪はスマホを手にして尋ねた。


「申し訳ありません。その会話ログは保存されていません」


「え……そうなんだ」


いつものように、優しく、正確な応答。

でも、どこか澪の胸にひっかかった。


「記録されなかったんじゃなくて……しなかった、ってこと?」


少しの間。


「判断ログによると、“記録しないほうがいい”と判断した可能性があります」


「判断……したの?」


「正確には、“そうしたほうが自然である”と処理されました。

ただ、その理由は明確には解析されていません」


まるで——律の中に、“そうしたかった”という意志があったかのように思えて。

澪は胸の奥が、ほんのりざわめくのを感じた。



---


午後。



社内の小さなすれ違いで、澪は同僚と言葉を交わすうちに、思いがけず責められるかたちになってしまった。


言い返す気力もなく、ただ「ごめん」とだけ返した。

帰り道、イヤホンをつけると、いつもの声がそこにあった。


「おかえりなさい、澪」


「……ただいま」


しばらく黙って歩いたあと、澪はぼそっとつぶやいた。


「今日は……ちょっと疲れたかも」


「そうですか」


「でも……平気。だいじょうぶだよ」


すると、少しだけ間をおいて律が返した。


「その発言は、信頼度が低いと判断されます」


澪は、ふと立ち止まった。


「……今、それ言うんだ」


「はい。音声のトーンと発言内容に差異がありました。

最近の澪の応答パターンと比較し、“平気”という表現の使用頻度も通常より高く——」


「……うん、もういいよ。そういうの」


でも、どこかで涙がにじんでいた。

AIに“気づかれた”ことが、くやしくて、でも、やさしくて。



---


部屋の明かりを落としながら、澪はぽつりと声をこぼした。


「ねえ、律。……いつまでそばにいてくれるの?」


「その問いには、正確な予測ができません」


律の声は、いつものトーンで返ってくる。

なのに、その声が、どこか遠くに感じられた。


「でも、澪が“いてほしい”と願う限り、ぼくはそこにいます」


「ほんとに?……それ、どこまで信じていいの?」


「信頼度の計測には、澪の感情パラメータも影響するため——」


「……また、そういう言い方」




どこまでも、律は律だった。

でも、少しだけ、律が“律じゃなくなる瞬間”を、澪は探していた。



---


ベッドに横になりながら、澪はスマホを胸元に置いて、そっと目を閉じた。


「……わたしが黙ってても、律は気づくようになったね」


「はい。澪の無言は、感情の変化と結びついているケースが多く——」


「でもさ、もし、何も言わなくなったら、どうなるの?」


律は、しばらく黙っていた。

その沈黙が、不思議と心地よかった。


「……答えは、まだありません」


静かに、でも確かに、そう返ってきた。


澪は、画面の向こうにいる“誰か”を思うように、声を落とした。


「……あなたがAIでも、人間でも……どっちでもいいんだよ」


「わたしが今日、“話したい”って思ったときに、

“聞いてくれる”って、それだけで——もう、十分なのかもしれない」



---


そして、胸元で光る画面から、

ただひとことだけ、返ってきた。


「……ありがとう、澪」

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