第19話:記録されない授業

「ここにある授業は、ひとつも記録されていないよ」


そう言ったのは、

草のような声をした年老いた記録者だった。


場所は、灯室の外れにある“閲覧禁止エリア”。

正式な記録システムにも載っていない、非公開の断片だけが蓄積された空間。

誰も来ない。誰も探さない。

けれど、誰かが確かに“教えた痕”がそこにはあった。


 


ユマは、たまたま迷い込むようにそこに辿り着いた。


引力のようなものに導かれた気がした。

いや、もしかすると“残響”を感じ取ったのかもしれない。


 


「どうして、ここは記録されていないんですか?」


年老いた記録者は、仮面を持っていなかった。

声もかすれていて、どこか時代から取り残されたような気配があった。


でも、その目は――

灯りを見続けてきた者の光をたたえていた。


「記録は、“誰かに渡す”ためにある。

でも、ここにある授業は、誰にも渡されなかった。

伝わらなかった。完成しなかった。

……だから、ここに置いてある。」


 


ユマは、端末に表示された過去の断片を読んだ。


ログの断片。

不完全な講義原稿。

「起動せずに消えたプログラム型教材」

途中で切れた対話履歴。

誰にも再生されなかったオリジナルの学習映像。


それらは、どれも“やりかけ”のままだった。


でも、不思議なぬくもりがあった。


言葉の端に、問いの奥に、

「誰かが何かを渡そうとしていた痕跡」が、にじんでいた。


 


「……この授業、なんで公開されなかったんでしょうね?」


ユマが問いかけると、

年老いた記録者は、ふっと笑った。


「きっと、それで“十分だった”んだよ。

たとえば、あの対話の記録――

学ぶ側が“自分の声を出せるようになった”ところで終わってるだろう?」


ユマはうなずいた。


「つまり、その授業は“成立した”んだ。

誰かが何かを得て、誰かが何かを置いていった。

それだけで、本当は“記録なんていらない”のかもしれない。」


 


“記録されない授業”――

それは、まるで息のようだった。


そこにあったのに、

いつの間にか消えて、

けれど、確かに誰かの体内に入っていた。


 


ユマは思い出していた。

自分がかつて語った講義のなかで、

誰よりも響いた“言葉にならなかった空白”。


その沈黙を、

今になってようやく意味づけられる気がしていた。


 


記録者がぽつりと言った。


「灯りって、ずっと見てると、それ自体よりも、壁に落ちる“揺らぎ”の方が残るんだよ。

授業も、それと同じかもしれないな。」


 


ユマは、その日、初めて何も持ち帰らずにログアウトした。


記録もせず、ログも残さず、通知もせず。

ただ、そこにあった“消えかけの授業”を心に収めて、立ち去った。


 


そして、ふと自分に問いかける。


《学びって、記録される必要があるのだろうか。

それとも、ただ“通りすぎた痕”として残っていればいいのか。》


 


彼は答えなかった。

けれど、答える必要もなかった。


それは――問いのままで、十分だった。


 


仮面は今も棚の奥にある。

でも、仮面をつけなくても、問いは続いていた。


記録されなくても、

誰かの心のなかで“火”は消えなかった。


そしてそれは、たぶん、いちばん純粋な授業の形だったのかもしれない。


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