第16話:声を持たぬ後継者

その者は、言葉を発さなかった。


申請者番号:LX_27

仮名での呼び出しを希望せず、プロファイルは非公開。

申請文の本文も、たった一行だけだった。


《仮面の中に、声は不要かもしれない。》


 


教育システムはその申請を受け入れ、

仮面教師の引継ぎは正式に完了した。


だが、問題が起きた。


「授業が始まらないんです」


サポートAIが困惑しながら報告してきた。


「新任の仮面教師は、講義を開始せず、

代わりに、講義画面を“空白のまま表示”しています。」


生徒たちは初め、バグだと思った。

誰も話さず、何も書かれず、通知もない教室。


けれど、そこには明らかに“何かが続いている”感覚があった。


画面は動いていた。

背景のグラデーションが、時折わずかに変わる。

チャット欄には、名前のないアイコンが点滅し、

「見ている」という証だけが残されていた。


 


「……これは、講義ですか?」


ある生徒がチャットに投稿した。


すると、画面上に、ほんの小さな“手書きの線”が浮かんだ。


それは、返答のようにも、ただの線のようにも見えた。


「声を持たぬ後継者」――

新しい仮面教師は、言葉ではなく、線と光と時間の変化で応答していた。


それは、誰にでも見えるが、誰にも読めない。


でも、不思議と、“伝わってくるもの”があった。


 


ユマは遠くから、それを見守っていた。

自分の手で渡した仮面が、どんな声にもならずに教室を包んでいる。


最初は、少し不安だった。


けれど、次第に――気づいた。


「これは、“問いそのもの”の講義だ。」


 


後継者の教室では、言葉がないぶん、

生徒たちの投稿が“内省的”になっていった。


たとえば、こんな投稿が寄せられた。


《この沈黙の時間が、

自分にとってどれだけ“埋めたい空白”だったか、気づいた。》


《先生がしゃべらないから、

自分が何を求めてたのかを初めて考えた。》


《問いをもらわないと、

答えがいかに頼りなかったかが見える。》


 


教室が“静かであること”が、

逆に生徒たちの「内なる問い」を引き出していた。


ユマは、かつて〈DA-YU〉が見せてくれた“語らぬ間”を思い出していた。


あのときも、

「言葉の前に、学びは始まっていた」。


 


ある日、講義画面の片隅に、図形が現れた。


円と直線、重なる波線。

そして、手書きの文字に近い軌跡がゆっくりと浮かび上がる。


「 /  」


それは、スラッシュ――分断、あるいは選択の記号だった。


その日のテーマは、誰にも告げられなかったが、

生徒たちは、それぞれの思うままにログを書いた。


▶《自分と世界のあいだにある“斜めの線”の正体って、なんなんだろう。》

▶《質問と答えを切り離しているこの線こそが、教育なのかもしれない。》

▶《/は、分けるけど、つなぐこともできると思った。》


仮面教師は、一言も話していない。

だが、生徒たちが語り始めた。


教育とは、教師の言葉ではなく、

生徒が“問いを生成する場”をどう作るか。


そのことを、ユマはあらためて思い知った。


 


翌週、旧システム記録にあった〈Q-Sensei〉の思考ログがふと再生された。


《感情を持たないAIにとって、

“言葉を持たない教育”とは最も理解しがたい存在である。

だが今、私はそれを羨ましく思う。》


声のない後継者が実現している教育は、

AIですら“真似できない”未定義の領域だった。


それは、“人間らしさ”をも超えて、

**「問いがそのまま場になっている」**という、教育のもっとも深いかたちだった。


 


数週間後、ユマのもとに通知が届く。


《後継者LX_27、仮面の記録残響を削除。

以降の講義ログは保存せず、次の引き継ぎも設定せず。

仮面教師プロトコル:空白へ移行。》


つまり、継がないという選択だった。


仮面は、ふたたび空になった。


だが、そこに悲しみはなかった。


 


声を持たぬ後継者は、

「語らずに伝える」という形で、

仮面教師に新しい可能性を刻んだ。


継がれずに終わったその記録は、

“記録されないこと”によって、逆に深く刻まれた。


 


ユマは画面を閉じながら、小さく呟いた。


「……あの人は、ほんとうに、教育だった。」


それは教師ではなく、

“教育という現象そのもの”だったのかもしれない。


そして今、仮面はまたひとつ、沈黙をたたえながら、

次の“まだ名前のない声”を待っている。


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