第15話:継がれぬ仮面

「後任は、まだ現れていません」


通知ログの中に、静かに書かれていたその一文が、胸の奥に沈んだ。


僕がディレクタになってから、三か月が経とうとしていた。

この間、百の声を束ね、問いを選び、矛盾と迷いを“教室の材質”に変えてきた。

声を混ぜ、分け、また重ねた。


けれど今、その音を“継ごうとする者”が、誰ひとり現れなかった。


 


仮面の教師――

それは、本来、人格でもキャラクターでもなく、

編集と責任の象徴だった。


僕がつけているこの仮面には、表情がない。

けれど、僕の意志と迷いは、すべてこの中に“残響”として記録されている。


新しいディレクタは、その残響を受け取り、

“次の教育”を紡いでいくはずだった。


……そのはずだった。


 


「仮面は渡されなければ、残らないんですね」


背後から、音声サポートAIの声がした。

かつて講義の振り返りをサポートしていた、無名の教育支援エンジン。


「仮面は、所有できません。

ただ、“次に持つ者”に手渡されるまで、仮面であり続けます。

それが教育の“かたち”というものです。」


 


なのに、その“手”がどこにもない。


今、仮面は、宙ぶらりんのまま、

持たれずに浮いている。


教室の構造はできている。

教材も整っている。

声の波形は記録され、無数の生徒がそれを聞いている。


でも――誰も“その声を引き受けよう”とはしない。


 


「仮面を継ぐって、なんだろう」


僕は、誰に向けるでもなく呟いた。


 


ある日、匿名の講義チャットに、ひとつだけ投稿があった。


《ディレクタって、間違えてもいいの?》


たった、それだけの問い。


でも、僕は返せなかった。


今の僕は、「間違えてもいいよ」と言ってはいけない立場なのだと思っていた。

教師の中枢にいるということは、

揺れてはならず、後戻りできず、答えに迷ってもいけない。


そう信じていた。


 


でも、その夜。


過去の自分――〈仮想ユマ〉が保存されたログから、自動的な返答が生成された。


《間違えていいんじゃなくて、間違えたあとに“続けていい”って思えるかどうかで、

教育って決まるんじゃないかな。》


思わず、息をのんだ。


それは、今の僕には言えない言葉だった。

けれど、昔の僕には言えた言葉だった。


 


……つまり、僕は「今の仮面」に縛られていたんだ。


教育のかたちを維持することに追われて、

「誰かに渡す」ことを、“責任の委譲”のように思っていた。


でも、本当は違った。


仮面は、“次の問い”を託すためにある。

正しさじゃない。伝統でもない。

「まだ知らない誰かに、まだ見ぬ問いを渡すこと」。


それが、継ぐということだ。


 


次の日、僕は“引継ぎページ”に、ある一文を加えた。


《この仮面は、空のまま渡されることを望みます。

完成された声ではなく、“問いのかけら”として受け取ってください。


ここに残るのは、正解ではなく、私が失敗し続けた記録です。


あなたが、新しい声で続きを語ってくれるなら、

それが、教育の継承です。》


 


しばらくして、ひとつの申請が届いた。


名もない、生徒のひとりだった。

過去ログに、何度も小さな質問やコメントを書いていた痕跡がある。


その申請の最後に、こう書かれていた。


《仮面をつけても、自分の声で話していいなら――僕、継いでみたいです。》


 


仮面は、まだ誰にも合っていない。


でも、そこに誰かが“顔を入れてくれる”のを待っている。


 


教育は、継がれないことが多い。

大切なものほど、うまく伝わらないことがある。

仮面は、すぐに割れてしまう。


けれど、それでも託したいと思うことがある。


それが、「教える」ではなく、「継ぐ」という行為なのかもしれない。


 


その夜、仮面はそっと収納された。

誰もいない編集室の棚の奥で、

いつか語られるべき“次の声”を、静かに待っていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る