祓録01「鏡狐の夜」第1話「視えてしまった日」
京都・東山の路地裏。町家の屋根が重なり合う場所に、うちの家『安倍堂』はある。
見た目は古道具屋か甘味処。けど裏には“祓い札”やら“塩打ち具”がズラリと並んどる。
うちの祖母──安倍美鶴は、この町で一番古い祓い屋の当主や。
「そろそろ“視える”んちゃうか? ちゃんと働きぃや」
「見たないっちゅうてるやろ」
俺は渋々、札作りやら帳場の掃除やら手伝わされてる。
けど正直、祓いの現場には行きとうない。
その日も、祓い札の下書きをしてたとこやった。
電話が鳴った。
「おばあちゃん、警察から電話やで」
「ふふ、久我くんやろなぁ。」
祖母と警察が繋がってるってのもよう分からん話やけど、久我っちゅう刑事とは昔からの付き合いやて。
今回の相談は、“伏見稲荷のそばで観光客が消えた”って内容やった。
「巫女さんが見た言うてるんよ。“鏡の中に入ってった”って」
──ありえへん。けど背中が、冷うなった。
***
夕方、俺は祖母に強引に連れ出され、伏見稲荷へ行くはめになった。
朱色の千本鳥居を抜けた裏手、観光客がめったに足を踏み入れへん参道。
そことはべつの道に黄色いテープが張られてて、何人かの刑事が立っとった。
その中に、ひときわ目立つ男がおった。
「安倍先生、またご無理を言うてすんまへん」
「相変わらずカタいわね、久我くん。元気しとったかいな」
久我圭吾。警察内でも“霊障事件”ばっかり回される変わり者や。
その目が、ちらっと俺に向いて──なんや見透かされた気ぃがした。
「……お孫さんも、今回は連れて来はったんですね」
「まあな、半人前やけどそのうち“視える”のは確かやさかい」
俺は思わず下を向いた。……また“巻き込まれる”んか。
胸の奥が、ずんと重たくなった。
「……元・社跡地や。祠が崩れたあと、観光ルートになっててな」
久我刑事は、紙コップのコーヒーを手にしながら、どこか遠くを見るような目で言った。
伏見の裏山──例の鏡社の跡地。
地元じゃ“いわくつき”で知られとった場所やけど、
社が取り壊されたあと、道が整備されてハイキングコースの分岐点として地図アプリに載ってもうたらしい。
「祠がな、今年の地震で傾いてもうて。そのあと土地整備の業者が入って、基礎ごと解体されてな。
石室だけ残って、妙に雰囲気のええ『映えスポット』みたいになってもうてたらしいわ」
「……なんでそんな場所に……」
悠真がぽつりとつぶやいた。
「立入禁止のテープも貼ってあったんやけどな。ちょうど風の強い時期で、飛ばされてたみたいや。
観光客が勝手に入り込んで、神具の名残やと思って鏡を覗き込んだらしい。
──そしたら、消えた」
久我刑事の言葉は抑揚がなかった。けど、その分だけ生々しかった。
「……“視えてる”やつならともかく、普通の人間でも、呼ばれることってあるんやな」
「あるやろな。封印が緩んでたら、ああいうもんは“隙間”を狙う。
心の弱ってるやつや、思い詰めたやつに、ようつけこむねん」
カラスが一声鳴いて、電柱の上を飛び立った。
もしかしたら、“視えるようになる”ってことより、
“視えてまう場所がそこら中にある”ってことの方が──よっぽど怖いのかもしれへん。
久我刑事が小さなメモ帳を取り出して、指でトントンと叩いた。
「ちょうどここにいた巫女さんの証言です。録音しときました」
祖母が頷くと、刑事はスマホを操作し、音声を再生した。
女の人の震えた声が流れる。
『あのとき、うち、落ち葉掃除してたんです。ほんで、観光客の女性が一人、奥に歩いていかはって──』
俺はごくりと喉を鳴らした。
『女性は、首をかしげて、笑って──そしたら、鏡の中に“吸い込まれる”ように、ふっと消えてしまわはったんです』
音声が止まった。
「……まるで、鏡が向こうに通じてたみたいな言い方やな……」
俺がつぶやくと、久我刑事が静かに頷いた。
「実際、あのあと捜索入れても、一切痕跡は出んかったんです。足跡も、髪の毛も、なんも残ってへん」
「物理的に消えた、いうことかいな……」
「鏡だけが残されてました。伏見稲荷の境内で、そんなもんが“置き去りにされてた”んですわ」
祖母は静かに目を閉じて、風の流れを読むように口を動かした。
「鏡は、“内と外”を逆に映すもんや。もしそれが“境界”やったとしたら……通り抜けることも、あるやろな」
俺は無意識に鏡の方を見た。
その瞬間、ピリッと空気が震えて、風がスッと背中を撫でた。
まるで、誰かが──
鏡の向こうから、こっちを“見とる”ような気がした。
警察との現場確認が終わったあと、おばあちゃんは問題の“鏡”を慎重に梱包した。
「これはな、本来、社ごと“結界”やったんやけど……。
ほな、一旦こちらにお引き受けするしかあらへんね」
「え、これ……持って帰るんか?」
「他のもんが触ったらどうなるか……せやさかい、“触れる資格のある者”が出るまで、うちで預かっときます」
「けど……触っただけで、あの風、感じたんやで……?」
「置いといたら、また誰か引き込まれるかもしれへん」
俺は戸惑いながらも、祖母の手際に任せて、鏡を古布に包んで桐の箱へと収めた。
警察の久我刑事も何も言わず、それを見とった。
「正式には証拠品やけどな……あんたらに預けといた方が、変なことにはならんやろ」
「ありがと。うちはちゃんと“結界”張って保管するしな」
そのやりとりが済んだあと、俺らは伏見の山道を下って、東山の町家へ戻った。
***
帰宅してすぐ、祖母は帳場の奥──“結界部屋”と呼ばれる畳敷きの小部屋へ鏡を運んだ。
その部屋には、古い陰陽五行図が描かれた掛け軸、八角鏡、そして炭壺が置かれている。
「ここやったら、鏡の“口”も開かへんはずや」
祖母が結界を貼るように、朱墨で紙札を書き上げていく。
その筆運びは迷いがなく、まるで文字自体が呪のようやった。
「悠真、この部屋には絶対一人で入ったらあかんよ」
「わかってるって……」
俺はその場を離れながらも、鏡の奥から──ふっと、何かがこっちを見てるような気がしてならんかった。
***
その夜、俺の部屋の天井に、風鈴が鳴るような音が響いた。
「……なんや?」
目を覚ました俺は、部屋の隅に吊るした“お守り札”がゆらゆらと揺れてるのに気づいた。
風もないのに。
胸が、どくんと鳴る。
──あの鏡、なんかおる。
確信めいた恐怖が、背中を這い上がってくる。
けど、今はまだ、それを確かめる勇気はなかった。
俺はただ布団をかぶり、目をつぶった。
「……見んようにしとこ……今日は、まだ……」
そして、知らん間に眠りについた。
でもそのときから──
鏡の中の“誰か”は、俺のことを、ずっと見ていた気がする。
***
次の日の朝、目ぇ覚めた瞬間、なんとも言えん“圧”が部屋中に漂ってた。
空気が重たい。
寝汗で背中がじっとりしてる。
それでも俺は、昨日から続いてる妙な感覚を引きずったまま、居間に降りた。
「ごはんできてるで。お味噌汁、熱いさかい気ぃつけや」
おばあちゃんは、何事もなかったみたいな顔で朝ごはんを並べてる。
けど、俺は黙ったまま着席して、ゆっくりと箸を握った。
「昨日の夜、風鈴が鳴った。……風なんて吹いてへんのに」
「ふふ。よう鳴ったなあ。そら“呼ばれてる”証拠や」
「……あの鏡、ほんまにヤバいんとちゃうか」
「そやろな。けど、あれは単なる霊障とちゃう。“式”の名残や」
「式……て、式神のことか?」
おばあちゃんは頷いたあと、湯気の立つ味噌汁を一口すすった。
「安倍晴明が遣わしとった十二の式神。そのうちのひとつかもしれへん」
「は? 俺、まだ“見習い”やで……そんなん扱えるわけないやん」
「せやから“お狐さん”が来てはんのやろ。あんたに会うためにな」
「勘弁してくれ……!」
俺は頭を抱えて、味噌汁に顔を突っ伏した。
けど心のどこかで、もう分かってたんや。
昨日の鏡、夢の中で見た狐──
あれは、俺にだけ“視える”もんやった。
***
その日の夕方。
おばあちゃんが客間の襖を開けて、手招きしてきた。
「悠真、ちょっと来てみ。鏡がまた動いた」
結界部屋の戸を開けると、中の空気がピリッと張り詰めていた。
まるで、冬の神社の拝殿に足を踏み入れたときのような緊張感や。
鏡は、木箱の中にあるはずやった。
けど今、そこから淡い光が漏れてる。
「……これ、開いてるやん……!」
「開いてへん。ただ“向こうから覗いてる”だけや」
おばあちゃんは、平然と言うた。
俺はその場から一歩も動けんかった。
鏡の奥に、またあの“白い狐”が浮かんどる。
目が合うた気がした。
「──こっち来いや、晴明」
「やかましいわっ……!」
思わず叫んで、後ずさった。
「悠真!」
その声で我に返ったとき、鏡の光はスッと消えてた。
部屋の温度も、元に戻っとる。
「……今、呼ばれた。俺のこと“晴明”って」
「そやろな。だんだん思い出してきたんや。あんた自身も、そしてあの子も」
「俺、ただの高校生やぞ……!」
「せやけど“ただの高校生”が、祓い札を一目で見抜いて書けるか?」
「……っ」
返す言葉がなかった。
おばあちゃんの目は、あくまで優しくて、厳しかった。
「怖いのは分かる。けど、向こうはずっとあんたを待ってたんよ。
千年の時間、鏡の中でじっとな」
「なんで俺なんや……!」
「そら──生まれ変わりやさかい」
その言葉が、ズシンと心に落ちてきた。
生まれ変わり。晴明。狐。鏡。
全部が現実味なくて、けど、俺の足元だけははっきり“今ここ”にある感覚があった。
***
その夜、俺はもう一度夢を見た。
鏡の奥。鳥居の中。
狐の声。そして、何人もの誰かが囁いてる。
「お帰りやす」「ずっと待ってた」「今度は祓えるやろ?」
汗で目を覚ました俺の手には、知らんあいだに祓い札が握られていた。
墨で描かれたのは──
五芒星の印と、白い狐の影。
「……ほんまに、始まったんやな」
誰に言うでもなく、俺はそうつぶやいた。
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