第2話「揺れるネット」
陽菜が“Byte”と名付けたAIに初めて質問を投げかけた翌日、排球部の朝練はいつもより少しだけ早く始まった。
体育館の窓から差し込む春の日差しが、まだ湿気を含んだ床に淡い光の帯を落とす。部員たちの動きは相変わらず鈍い。ボールの軌道は乱れ、掛け声もどこか空虚だった。
けれど陽菜の胸の中には、小さな期待が芽吹いていた。
Byteからの提案は、意外にもシンプルなものだった。
「まずは“心理的安全性”を高めましょう。
そのために、失点後10秒以内に、チーム全員で声を掛け合うルールを導入してください。」
失点後の声掛け。そんなことで何かが変わるのだろうか――半信半疑だったが、やってみることにした。陽菜はホイッスルを首から下げ、紙に書いた「ルール」を持って部員たちの前に立った。
「えーっと、これから新しい取り組みをやってみたいと思います」
全員の視線が陽菜に集まる。中には面倒くさそうな表情を浮かべる者もいた。特に主将の凜太郎は、体育座りのまま冷めた目をしていた。
「ミスしたあと、10秒以内に、みんなで“声を掛け合う”の。『ドンマイ』でも『次いこう』でも、何でもいいから、前向きな言葉を。」
「……それ、AIの提案?」
凜太郎が皮肉混じりに訊いた。陽菜は少し躊躇したが、正直に頷いた。
「うん。Byteって名前つけたんだけど、ChatGPTっていうAIで……」
すると、藍がすかさずフォローする。
「心理的安全性ってやつ。要は、みんなが安心してプレーできる空気を作るってこと。研究でも、これでスキルの伸び率が上がるって出てるよ」
「ふーん」と鼻で笑い、凜太郎は立ち上がった。
「で、その“安心”とやらで勝てるようになったら、苦労しねえよな」
体育館の空気が、ひときわ冷えた気がした。
それでも陽菜は、ホイッスルを吹いた。
「じゃあ、練習始めよう!」
サーブ練習の途中、案の定ミスが出た。1年の矢野がスパイクを空振りし、ボールがラインの外に転がっていく。
陽菜はすかさず声を出した。
「はい、失点! 10秒以内に声掛け!」
一瞬の沈黙。次の瞬間、藍が「ドンマイ、ナイスチャレンジ!」と手を叩いた。他の部員も戸惑いながらも、ぽつぽつと声を出し始めた。
「大丈夫、次は決めよう」
「タイミング合ってたよ」
陽菜はその光景を見て、ほんの少し胸が熱くなった。
たった数秒前までは沈黙しかなかった場所に、言葉が生まれている。
ぎこちないし、演技っぽくもある。けれど、それでも“音”があることが、これほどまでに違うのかと思った。
凜太郎は無言でサーブ練習に戻ったが、その背中はどこか苛立っているようにも、迷っているようにも見えた。
休憩時間、陽菜は水を飲みながらByteに質問を打ち込んだ。
〈今日の練習で心理的安全性は高まったと思う?〉
数秒後、Byteが返した。
「会話の発生頻度とポジティブ表現率は向上傾向にあります。
ただし、自然さや継続性には課題が残ると推定されます。」
「……たしかに、そうだよね」
陽菜はひとり言のように呟いた。画面の文字に頷きながら、彼女はふと思った。
Byteの言葉には確かに正しさがある。でも、その“正しさ”は、今この体育館の温度や、凜太郎の呼吸の速さや、矢野の震える手のひらまでは、感知できない。
だからこそ、自分がいる意味があるのかもしれない。
陽菜はタブレットを閉じた。もう一度体育館に目を向けると、藍が後輩に声をかけながらトスの練習をしていた。凜太郎は一人、壁に向かってボールをぶつけ続けている。
その背中に、言葉は届いているのだろうか。それともまだ、届いていないのか。
陽菜はコートの上に漂う静かな熱を見つめながら、深く息を吸った。
ネットは、揺れている。その揺れはまだ小さく、不安定だ。でも確かに、ここから何かが変わろうとしている。
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