第3話「データの波」
春の陽射しがようやく柔らかくなり始めた午後、秋月高校のPC教室は、まるで時間が止まったかのように静かだった。
画面に映るのは、バレーボールの練習動画。上書きされていく赤と青の線は、選手たちの動きをなぞるトラッキングの軌跡。関節の角度や動作の速度がリアルタイムで解析され、目まぐるしくグラフが動く。
「サーブレシーブ成功率、56%。これが今のうちの“足元”」
藍が読み上げる。画面の前には陽菜と、チームの一部のメンバー。凜太郎は少し離れた席で腕を組み、無言でモニタを見つめていた。
「これを、どうやって伸ばすの?」
陽菜の問いに答えたのは、タブレットの中のByteだった。
「トスの平均初速を0.12メートル毎秒落とすこと。
また、トス位置のばらつきを縦横3cm以内に収めることで、予測精度が向上します。」
言葉は淡々としている。まるで無限の知識を持つ機械が、当然のように解を提示してくる。
「やってみよう」
陽菜は、口にしてから少し驚いた。自分の声が思った以上に力強かったからだ。
「……まじかよ」
凜太郎が低く唸った。
「この前も言ったよな。数字だけでバレーができるなら、スポーツじゃなくて数学の試験だって」
その言葉に空気が揺れる。
「でも、見てよ。フォームのバラつき、明らかじゃん」
藍がすぐに反論する。彼女の手には、重たいタブレットが握られていた。そこに映るヒートマップは、選手たちの姿勢の“ムラ”を浮き彫りにしていた。
「直すのは人間。使うのも人間。データに操られるわけじゃないよ」
凜太郎はしばらく何も言わず、画面を見つめていた。やがて、ゆっくりと息を吐く。
「……だったら、実際の練習で確かめよう」
その日の午後から、練習に“実験”が導入された。
凜太郎と2年のサブエース高橋、1年の矢野の3人が別々の方法でレシーブ練習を繰り返す。トスの高さ、回転、スピードを微調整するたびに、陽菜は記録を取り、Byteにデータを投げ込んでいった。
「今のレシーブ、体のどこでズレた?」
「左足の踏み出しが早かったみたい」
藍は動画を巻き戻して、繰り返し確認する。何度も、何度も。
手作業で分析する時間は長く、退屈で、地道だ。けれど、チームの中に不思議な集中力が漂っていた。
体育館の隅に設置されたノートPCには、Byteが次々と最適化された提案を投げ込んでくる。
「矢野選手の重心移動速度が平均より0.24秒遅れています。
トスを見る前にステップに入る“予備動作”を訓練してください。」
「これって、ほぼコーチじゃん……」
矢野が目を丸くする。声は驚き半分、戸惑い半分だった。
陽菜はその言葉を聞きながら、複雑な思いを胸に抱えていた。
もしこのまま、Byteがすべての指導を担うようになったら。フォームの矯正も、戦術の判断も、戦い方そのものまで最適化されたら──自分は、チームは、どうなるのだろう。
けれどその夜、部日誌をつけながら、ふと陽菜は思った。
“誰かの言葉に救われたい”と思ったとき、たとえそれがAIのものでも、心が動いたのなら意味があるんじゃないか、と。
練習の最後、凜太郎が一言だけ口にした。
「……たまには、数字も悪くねぇな」
それは、ほんの少しだけ“肯定”に傾いた言葉だった。
陽菜はそっと頷いた。データの波に乗るのは怖い。けれど、その波を見なかったふりは、もうできない。
Byteが示すのは海図にすぎない。どの方向に漕ぐかを決めるのは、あくまでも彼ら自身だ。
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