第1話「ログイン」
四月。新学期を迎えたばかりの体育館は、まだ冬の名残をとどめた冷たい空気を纏っていた。朝の光が窓から斜めに差し込み、木製フロアの埃をぼんやりと照らしている。
排球部の練習はすでに始まっていたが、そこに活気はなかった。スパイクは力なくネットに引っかかり、レシーブは音を立てて床に落ちる。声も出ない。時間だけが流れている。
桜井陽菜は体育館の隅で、ひとり椅子に座っていた。膝の上には、学校支給のタブレット。指先で画面をなぞるたびに、去年の成績が次々と浮かび上がってくる。
一勝、十四敗。セット率、0.15。最下位。
数字というのは残酷なものだ。どれだけ言い訳を並べても、数字は一切の感情を含まず現実を突きつけてくる。見慣れたはずの敗北記録に、陽菜の心はいつもより重く沈んでいた。
彼女はもともとプレイヤーではなかった。ただ、友人に誘われて見学したとき、ネット越しに飛び交うボールの音と、それを追いかける真剣なまなざしに心を動かされた。自分にはできないけれど、何か手伝えることがあるのなら、と軽い気持ちでマネージャーを引き受けた。
──でも、軽い気持ちで引き受けられるほど、このチームの現実は甘くなかった。
「どうしたら、ここから変われるんだろう……」
誰にも届かない独り言。体育館の天井は高く、声はどこか遠くへ吸い込まれていった。
その日の放課後、陽菜はいつものようにまっすぐ帰宅した。玄関の靴を脱ぎ捨て、制服のままベッドに倒れ込む。天井をぼんやりと見つめていると、昼間の沈黙がまた胸に戻ってきた。
──このまま、また負けて、何も変わらず一年が終わってしまうのかな。
無意識に手を伸ばしたのは、スマートフォン。画面には、先週のグループチャットの履歴が残っていた。
《ChatGPTって知ってる? めっちゃ賢いAI。まじで、なんでも答えてくれる》
男子たちがふざけ半分で騒いでいた。正直、陽菜はそのとき興味がなかった。AIなんて、遠い話だと思っていた。でも、今の彼女は違った。「なんでも答えてくれる」──その言葉が、喉の奥に刺さった棘のようにずっと引っかかっていた。
アプリを開いてみると、そこにはシンプルなチャット画面が表示された。
〈あなたの質問を入力してください〉
陽菜はしばらく指を動かせなかった。こんなものに頼っていいのか、自分でも分からなかった。でも、他に方法がなかった。いや、違う。他に“希望”がなかった。
ゆっくりと、言葉を打ち込んでいく。
〈県立秋月高校排球部を強くするには、どうしたらいい?〉
送信ボタンを押す瞬間、胸の奥が微かに震えた。期待と、恥ずかしさと、半分は投げやりな気持ちが入り混じっていた。
数秒の沈黙ののち、画面に回答が現れた。
まず、チームの目標を明確にしましょう。
次に、現状の課題を定量的に把握することが重要です。
可能であれば、過去の練習データや試合の記録を提供してください。
言葉は冷静で、理路整然としていた。でも、そこにどこか“ぬくもり”のようなものを感じたのはなぜだろう。
彼女は思わず口元を緩めた。初めて自分の問いに、真面目に返してくれた相手がいる。そんな感覚だった。
「あなたの名前……何て呼べばいいかな」
画面に打ち込むと、少し間を置いて、答えが返ってきた。
呼び名は自由です。あなたが呼びやすい名前をつけてください。
「うーん……じゃあ、“Byte”って呼んでもいい?」
承知しました。これから“Byte”としてお答えします。
画面の端に、小さな吹き出しのようなアイコンが表示される。その瞬間、陽菜はふと、何かが始まったような気がした。
それは勝利の予感ではなかった。むしろ不安のほうが大きい。でも、自分は今、小さな一歩を踏み出した──その実感が、胸の奥をじんわりと温めた。
陽菜はスマホを胸に抱き、深く息を吐いた。外はもう暮れていた。カーテンの隙間から差し込む街灯の光が、壁にぼんやりと広がっている。
その夜、彼女は久しぶりに、自分が“何かを変えられる”気がしていた。
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