霞が枯れた

ZuRien

霧が枯れた

七月の昼下がり。僕は、高校の頃から7年付き合っていた彼女のお墓参りに来ていた。一週間分の花筒の水を入れ替えて、同じ色の花束と差し替える。お線香を供えてから、彼女に謝罪の言葉をかける。でも、今日も黙ったままだった。僕はぐっと立ち上がって、柄杓で水をかける。「また来るよ」今日も、この言葉で、お墓参りを終える。僕は水桶と柄杓を返してから、その場を後にしようとした。すると、いつもは見かけない人と出会った。彼女のお母さんだ。


「あら、こんにちは」

「こんにちは。もしかして、お義母さんもお墓参りですか?」

「そうね、でも、ちょっと違うわね。」

「違うって、どういう意味ですか?」

「ほら、あの子のことから、もう随分経つでしょう?そろそろ、あの子の物を整理しなきゃと思って。」

「そんな……」

「まぁ、あの子の物だから、一言言ってからやろうと思ってね。」

「もう、全部追い出しちゃうんですか?」

「貴重品なんかはやらないけど、それ以外は全部やるつもりよ。」

「……そう……ですか」

「あなたがそうやってあの子のことを想ってくれるのは、私たちもうれしいのだけれど、やっぱり前を見なきゃいけないと思うのよ。私たちとしても、あなたがあの子のことで、進めずにいるのは苦しいの。だから、決心をして新しい人を探してほしいのよ。」


僕と彼女は幼馴染で、昔から交流があり、その頃から僕は彼女が好きだった。小さい頃に、僕が彼女に結婚を迫っていたのをよく覚えている。新しい人なんて、僕には考えられない。


「僕には、できないですよ。付き合う前から数えても、もう何年も一緒にいるんです。彼女しかいないんですよ、僕には、今も、これからも。」


僕には、彼女しかいないのだ。彼女が生きた思い出を、捨てさせはしない。僕は、彼女と生きて、彼女と死ぬのだ。


「そうね、そうよねぇ。ごめんなさいね。あなたの人生なんですもの。あなたの悔いのないようにしてね。」

「はい、こちらこそ、心配をかけてしまって、ごめんなさい。」

「いいのよ。」

「あの、1つお願いがあるんですけど、いいですか?」

「あら、どうしたの?」


僕は、彼女の遺品をすべて引き取りたいという旨を伝えた。


「本当に、全部あなたでいいの?」


翌日、部屋でお昼を食べてから彼女のご両親と一緒に、僕の家まで彼女の遺品を運んだ。実を言えば、僕と彼女は同棲していたので、彼女の私物はすでにこちらにあった。なので荷物も少ないと思っていたが、意外と量があり、三人がかりで運び入れた。


ダンボール箱をすべて部屋に入れて、ご両親を見送った後、早速荷解きをした。箱の中は、小説や、ぬいぐるみなどが大半だったが、一箱だけは違った。


「これ……」


その箱の中には、一番上に、僕が小学生2年の時に書いた彼女へのラブレターがあった。


「あいつ、ずっと持ってたのか…………ごめん、ごめんなぁ」

僕は彼女と最後に交わした会話を思い出して、途端に下腹のあたりが苦しくなった。――彼女が眠ってしまった日。それは、1年前の春のことだった。僕はその時、会社でのストレスが原因で、そのつもりがなくても、彼女に当たってしまうことが度々あった。後先考えずに行動してしまう僕の悪い癖で、あまり言葉を選ばずに言ってしまうのだ。彼女が眠ってしまった日も、そういう日だった。


「だから、なんで洗濯物ができてないんだ」

「ごめんなさい、けど、私もずっと忙しくて――」

「忙しい?そんなの僕も一緒だろ」

「そうだけどさ、」

「大体、家事の分担だって決めてるよなぁ。僕は3日に1回の掃除を欠かした覚えはないし、飯の当番を忘れたこともない。」

「だから私はそれには感謝してるって言ってるじゃん!」

「感謝してたら、なんで洗濯物をサボっていいってことになるんだよってさっきから言ってんだよ!!」

「だから――はぁ、もういい」


その日の彼女は、あまりに僕が一方的だったから、外に出て行った。彼女が部屋から出て、1人になった僕は少しずつ落ち着いてきていた。僕は、意地になっていたこと、ストレスを彼女に当たり散らしていたことを謝るために、「さっきはごめん」とメッセージを送った。


しかし、そのメッセージは一向に読まれなかった。この時は、彼女も意地になっているだけだと思っていた。でも、そのメッセージは何時間経っても読まれなかった。


これはおかしい。そう思った僕は、彼女の行きそうな所を手当たり次第に探した。帰りが一緒になった時、アイスを買うコンビニや、2人で散歩する時に立ち寄る公園、僕の分かる場所ならどんなところも回った。でも、彼女はいなかった。


その時、遠くで救急車のサイレンが聞こえた。嫌なことを想像した僕は、すぐさまそちらのほうに向かった。何本もの路地を抜けて、ようやく、その場所にたどり着いた。そこでは、街灯で淡く照らされた血だまりに、彼女の携帯が浸されていた。


彼女がいなくなった時のことを思い出していると、ふとベランダを見ると、すでに日が沈みかけていた。荷解きは、もうとっくに終わっていた。この時間の僕には、1つやることがある。


花の水やりだ。


花は「カスミソウ」。僕と彼女がガーデニングにハマっている時に、一緒に選んで買ったものだ。毎日水をやっていたものの、僕の方の花が先に枯れてしまったので、彼女の方の物を僕の家で育てようということになったのだ。


一緒に育てたカスミソウは、その甲斐あって今でも元気でいる。僕が水やりのために植木鉢まで身を寄せると、カスミソウは今朝と同じ姿勢でちょこんと座っていた。僕は視線を合わせて、カスミソウの前にしゃがむ。じょうろの先を優しく鉢へ潜ませて、取っ手を傾ける。先から伝う雫の群れが、静かに土へ落ちる。


「――あぁ、今日もか」


僕にとって、この時間は一番の癒しであり、悩みの種であった。水やりをしていると、涙が込み上げてくるのだ。

なぜそうなるのか、僕にも分からない。いくら眼科を受診しても、それは変わらなかった。「今度また別の所を当ってみるか……」そんなことを考えていると、じょうろの水が空になった。――あーっ!これじゃ水のやりすぎだよ?「しまった!うーん、とりあえず明日の朝はやめておこうか」誰もいないはずなのに、僕は夕陽に陰る色白の頬を見ながら、そう話していた。「たまには、自分で作るか」僕は遅めの夕飯の買い出しに出かけた。夕飯の材料を買って、スーパーから出ると、空にぽつぽつ星が見えていた。いつもはもっと早くに買い物を済ませるので、スーパーから見る夜空は少し新鮮に思えた。「少し急ぐか」別に誰を待たせているわけでもないのに、なぜだか、そうしたくなった。僕は、数ある帰り道の中で一番の近道で帰ることを決めた。その道は、行きで通った道とは違って、いつもは使わない。なんでも、その途中の道にはたまにお化けが出るというのだ。まぁ、僕はその道を何回か通っているので、その噂が嘘っぱちなのはすでに知っているのだが。しかし人間とは不思議なもので、理屈では分かっていても、感覚には逆らえないものなのだ。僕は、この道を選んだことを少しばかり後悔しながら、そそくさと歩いた。


「カン……カンッ、カンカン……」


しばらくすると、何か、普通では見かけないものに出くわした。フードを被った人物が、レジャーシートに物を置いて、座っていたのだ。


「カン……カンッ、カンカン……」


その人物は、電柱から伸びる街灯が点滅するせいで、消えたり、現れたりを繰り返しているように見えた。すぐさま迂回路を探したが、そのような都合の良い抜け道は存在せず、あのフードの人物の前を横切らなければならなかった。僕は、滲む手汗と一緒に買い物袋を握り直し、進んだ。そしてついに、フードの人物のところまできた。


「カン……カンッ、カンカン……」


ほんの一瞬だけ、フードの人物を見た。フードは赤く、中は暗闇で満たされており、顔は全く見えなかった。けれどもそんなことは関係なしに、その人物は異様だった。僕はわずかに足を急かして、その場を通り過ぎようとした。


「あのーーーーーーー!!」


突然、後ろから声がした。身体全体が大きく震えた後、僕の足は凍り付いたように固まった。恐る恐る、後ろを見る。フードの人物は、街灯の点滅の中で、手招きをしていた。


「カン……カンッ、カンカン……」


すくむ足を動かして、ゆっくり近づくと、フードの人物は僕に、その場にしゃがむように促した。フードの人物は腕を下すと、今度は見えない口を開いた。


「あなた様……何かお悩みになられていることお……ございませんか?」


その声は、どこか湿ったような、纏わりつくような、少し高い声だった。


「えっ……悩み、ですか?」


「ええ、そうです、あなた様が私を見られたとき、見えたのです。あなたの、奥の、心の慟哭があぁ……」


「慟哭……」


「もしよろしければぁ、あなたのその悩み、私に解決させていただけませんか?」

悩み…もちろん挙げればきりがないし、そのどれも叶わないものだが、もしかしたら、あれならどうにかなることがあるかもしれない。無論、このフードの人物にどうにかできるのならば。

「あの、悩みって、どんなことでもいいんですか?」

「ええ、ええ!どんなことでもよろしいですよお」

「じゃあえっと、僕、よく涙が止まらないことがあるんです。僕自身でも原因がわからなくて、なんとかなりますか?」


僕が悩みを告白すると、フードの人物は少し間をおいて、懐からあるものを取り出した。それは、小指と同じくらいの長さの点眼薬のようだった。

「あなたのお悩み、これで解決いたしましょう。」

「それは…」

「これは、目薬です。これを使えばあ、あなたの涙もきっとお、止まるでしょう」

「目薬…それ1つで、本当によくなるんですか?」

「ええ、ええ、それはもう!ものの一分で、あなたの慟哭は収まりますう」

僕は気になった。これで、涙が止まるのならそれでいいのだが、たかだか小指一本の薬で解決するのか甚だ疑問だった。

「それは、どんな薬なんですか?」

フードの人物は、その言葉を聞いた途端、黙った。次の瞬間、フードの人物は僕の肩をがっしり掴んで、ぐっと顔を近づけた。


「死者に会える薬です」


フードの人物は僕の耳元で囁いたあと

「まぁ、ほんの一分だけえ、ですがあ」と言って、僕に目薬を渡してきた。

「ありがとう、ございます」

「ええ…お大事にしてくださいねえ」

僕はもらった目薬を握って、その場を後にした。4、5歩足を進めたとき、自分がお金を払っていないことに気づいた。

「あ、この薬のお金…」

ふり返ると、フードの人物はもういなかった。

家に帰って、僕はもらった目薬を掲げた。もらったのはいいものの、実際に使うのには勇気がいるものだ。死者に会える薬――もし使ったとしたら、彼女が出てきたりするのだろうか。

そんなことを考えながら、僕は買い物袋をダイニングテーブルに置いた。今日は冷凍うどんを茹でて終わりにするつもりだ。買ってきたうどんを3玉ほど解凍した後、解凍した鍋で豚肉を茹でる。大皿に盛り付けて、ダイニングに持っていく。取り皿と、箸を2人分持っていく。

「いただきます」

だいぶ遅くなっていたので、僕の箸はいつも以上に進んだ。それでも、うどんは残ってしまった。

目薬を使う勇気が一向に出ないまま、次のお墓参りの日が来た。「今日なら、できるかな」

僕はカスミソウに水をやった後、目薬を持って、家を出た。彼女のお墓までは、そこまでかからない。なので週一でなくとも、もっと頻繁に通うこともできる。それをしないのは、彼女がまだ怒っているかもしれないと、考えるからだ。

「また、会えるのなら、今度はちゃんと謝ろう」

僕は目薬を握り直して、先週と同じ色の花束を買いに行った。いつも花を買う花屋から歩いて15分。そこに、彼女のお墓がある。僕は毎週そこまで歩き、彼女に謝るのだ。

ごめん――と。

墓地に着いて、自分の柄杓と水桶をとる。

水桶に水を入れて、花束と一緒に彼女のお墓まで持っていく。

お墓に来たら、まずは一週間分の花筒の水を入れ替えて、同じ色の花束と差し替える。

そして、お線香を供える。

僕はお墓の前で、彼女に謝る。

でも、今日も黙っていた。

「今日もだんまりか。まぁ、全部俺が悪いしな。」

僕はすっと立って、持ってきた目薬を取り出す。

「頼む。もう一度、会わせてくれ」

そんな願いと一緒に、僕は首を上げて、目薬を流した。

一滴、一滴、丁寧に流した。

――あれ、何で目薬なんかさしてるの?

彼女の声が聞こえる。

そう思って、僕は首を戻した。

「泣いてるの?そんなに、私に会えて嬉しかったの?」

「――どうして、怒らないんだよ」

「え?」

「だって、僕があの日君に当たらなければ、君が、死ぬことなんてなかったのに……」

「あー、あれは私も悪かったから。ごめんね?」

「どうして、君が謝るんだ」

「……あたしはあたしのことばっかりで、あなたのこと、見てなかった。」

「そんなの、僕だって一緒だよ。僕も、君のこと見てなかった。」

「そんなこと……」

「――同じだよ!僕がもっと自分を抑えて、君を思いやれば、こんなふうになることは……」

「はぁ、いい?『君を思いやれば』って、あなたは十分すぎるくらい私を思いやってくれていたよ?

小さい頃から、ずっとそうだった。あなたは私が引っ込み思案なのを知っていて、友達との会話にずっと入れてくれていた。私がいじめられそうになった時も、あなたは私に気づかれないようにいじめっ子から守ってくれた。私が会社のことで悩んでいるときは、わざわざ私の帰りを待って、コンビニのアイスを公園で一緒に食べて、話を聞いてくれたりした。何より、私はあなたと食べるご飯がとても暖かくて幸せなの。あなたは、私にたくさんのことをしてくれた。そんなあなたを、恨むことなんてできないよ。」

「それなら、僕だって……僕だって君にしてもらったこと、たくさんある。君は僕が危なくないように手をつないでくれたし、受験の時はいつも助けてくれた。僕が仕事で悩んでいるときは、君もアイスと一緒に話を聞いてくれた。何より、僕はあなたの『ただいま』が聞けるだけで幸せだった。それなのに……僕は……ごめん」

「もう、謝ることなんてないのに……」

彼女は可愛らしい手のひらを頬にかざしながら、少し考えて「いいよ」と言ってくれた。

「じゃあ、私からは……」

彼女は、僕たちの家のカスミソウのような笑顔で――ありがとう――と言った。

気づけば、彼女は僕の前から姿を消していた。

僕の涙は、いつの間にか止まっていた。

――私はずっと、あなたの隣にいるからね。

どこからか、そのような女性の声が聞こえてきた。

僕は、柄杓で水をかけた後、墓地を出た。


家に帰ると、知らない花が枯れていた。

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霞が枯れた ZuRien @Zu_Rien

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