第4話

 翌日午後六時。夜の帳が街を包み込むにはまだ少し早い時間帯だったが、駅前の喧噪はすでに引き潮のように引き始めていた。立ち食いそば屋の湯気と、行き交う電車の鉄臭い空気が入り混じるホームの片隅で、深町優斗はひとり、スマホを握りしめていた。


「一人で来て。警察には言わないで」


 玲奈からのメッセージは、それだけだった。簡潔で、余計な感情の介在を感じさせない文面。その一方で、まるで目の前にナイフを突きつけられているかのような緊張感があった。闇バイトの斡旋者。かつては闇バイト参加者として頼れる存在だったが、今や彼女もまた、優斗の恐怖の一部を構成する人間のひとりとなっていた。


人混みの音が波のように押し寄せる。駅前の広場は金属のように光る看板と広告、スマホを覗き込む顔で埋まっていた。優斗は震えるスマホを握りしめ、画面の小さなコメント欄をぼんやり眺めている。ネットニュースは東京で起きている連続猟奇殺人事件の話題で持ち切りだった。


「まさか俺が狙われてるなんて、誰も思わないよな」


この人混みの中でただ一人、殺人鬼に狙われている孤独感に襲われていた。すると、隣のベンチから声が飛び込んできた。距離は数メートル程で言葉は雑踏に溶けるはずだったのに、不意に主人公の耳に割り込んでくる。


「野狗子って知ってる?」


若い女が彼氏らしき男性にスマホの画面を見せながら話している。高い、どこか興奮した調子だ。


「うん、SNSで見た。マジでやばいって」


男が続ける。ポケットからタバコの匂いがふわりと漂った。


「最近やばい事件起こしてる殺人鬼だろ?」


別の場所からの声が聞こえてくる。低く冗談めかしている。


「でも、悪人ばっかりなんだろ? なら、みんな殺されればいいんじゃね?」


若い男が笑うように言った。周囲に笑いが返る。彼らの笑いは軽く、まるでテレビの中の話題を消費しているだけの輪郭をしていた。


優斗はスマホの画面に映された『野狗子』の文字を見る。胸の奥が締めつけられる。言葉が空気を振動させ、彼の鼓膜を何度もなぞる。悪人、正義、清算。その語彙が、目の前の広告の光のように不自然に鮮やかだった。


遠くのスタンドでは中年のサラリーマンが新聞の見出しを読み上げていた。声は冷たく、斜めに通り抜ける。


「被害者は、前科がある者や反社会的行為に関わっていたと警察は言っている。だからね、どうにもやりきれない部分はあるよ」


「そうだよ、ニュースでやってたけどさ、あの辺の政治家のこととか、不正があったらしいし。ああいうのが消えたら世の中きれいになるんじゃないの?」


年配の女性が頷く。手には買い物袋を掲げている。日常の延長線上で、彼女の言葉はまるで台所の会話のように無防備だった。


スマホの画面が揺れる。コメント欄には、匿名の罵倒と応援が混ざっている。見出しの下に貼られた動画は、被害現場のぼやけた映像をループで流し、人々がそれを再生しながら議論している。スクロールする指先に、無数の意見が流れ込む。「正義」「天罰」「怖い」「英雄」。どれも殺人鬼である野狗子を指す言葉だ。短いフレーズが刃のように交差する。


「俺は賛成だよ」


肩越しに囁く声が聞こえる。気づくと、スーツの青年がその場で相手の男性にスマホを見せている。画面には『#野狗子』のタグが並び、称賛のコメントが上にくるくる回っている。「やっとやってくれた」「清算されたな」。言葉の並びが、まるで人気投票の結果のようだ。


優斗は呼吸を止めた。心臓が、いつもより大きな音で鳴る。だがその音は、たちまち周囲のざわめきに飲み込まれてしまう。群衆は自身の驚きや恐怖を消費し、それを笑いに変え、議論し、忘れる。誰も彼を見ていない。誰も彼が明日の標的であるとは知らない。


ベビーカーに乗った幼児が母親に向かって無邪気に話しかける。母親は片手で子の頬を撫で、もう一方の手でスマホを操作している。画面には「次の犠牲者は誰?」という投票アンケートと、無数の投票が行き交っている。人々の顔は薄く青白くバックライトに照らされ、意見はリツイートのように軽やかに往復していく。


「正義ならそれでいいじゃない。私がもし被害者の家族だったら、むしろ安堵するかも」


若い女の声がどこからか聞こえてくる。声は平然としている。彼女の目は画面の向こう、自分の感情を客観視するように冷めていた。


優斗の視線は、ふと胸元にある自分の影へと落ちる。そこに確かにあるのは、鼓動だけではない。選ばれ、計算され、狙われている自分自身の生活の断片。闇バイトの募集要項に書かれていた簡潔な要求、組織の「仕事」を手伝えば報酬が得られるという約束。報酬の数字が、今更ながら滑稽に思える。人の命が、数字と同じ桁でやり取りされている。


誰かの無責任な一言が、遠雷のように頭上で鳴る。言葉は広場を一周して戻ってきて、また誰かの笑いに変わるだけだ。しかしその輪の中で、優斗だけは、静かに決断を迫られている。耳に残るのは称賛する声と、無関心な囃し立て。それが次第に、自分の内部で何かを崩していく感触だった。優斗は感じていた。今この世界で、殺人鬼に狙われている自分は悪の裁きの対象であり、世間からはつまらない日々に亀裂を入れる面白い話題でしかない。孤独だ、そう感じていた。


 数分後、改札の向こうから、黒のフードを深く被った玲奈が姿を現した。相変わらず感情を見せない表情だったが、歩み寄るその目には、どこか尋問官のような鋭さがあった。


「よく来たわね、優斗」


「ああ……」


 気まずさを隠すように優斗は曖昧に笑った。しかし玲奈は一切笑わなかった。無言のまま、近くの喫煙所脇のベンチに腰を下ろすよう促す。互いに腰掛け、しばしの沈黙が流れた。通り過ぎるサラリーマンや学生の群れが、彼らの時間とは無関係に通り過ぎてゆく。



「野狗子に、狙われてるのね」


 玲奈が口を開いたとき、その声にはいつになく抑えきれない感情が滲んでいた。優斗は顔をしかめたが、すぐにうなずく。


「ああ……仲間が、一人また一人と消えていく。最初は偶然かと思った。でも……違った。あれは、偶然なんかじゃなかった」


「あんた、あの現場で見られたのね」


 玲奈の声に冷たい確信があった。優斗は目を伏せたまま、唇を噛んだ。


「オレ……バカだったんだ。こんなことになるなんて思ってなかった。金が欲しかった。楽になりたかった。ただ、それだけだった。でも今は……ただ、生きていたい。そう思う」


「生きていたい?」


 玲奈が嗤う。感情のこもった、嘲笑混じりの吐息だった。


「ふざけないで。アンタ、罪を犯した人間でしょ。人の家に押し入って恐怖を与えて、金を奪った。被害者はその後、安心して眠れたと思う? いや、確かあんたたちは家主を殴ったんだっけ?ならその家主は殺されるかもしれないという恐怖に苛まれている。今更『生きたい』なんて、虫が良すぎるわ」


 その言葉は鋭く、まるでナイフのように胸に突き刺さる。優斗は立ち上がりかけたが、自分の中の何かを押し留めるように拳を握りしめ、ベンチに戻った。


「私も闇バイトの斡旋者だから、本当はこんな事言える立場じゃないことは分かってるわ。でも人の命を簡単に奪おうとしたあんたたちが自分は死にたくないです、なんてよく言えたものだって思って。私も……」


 玲奈の言葉が強く響く。逃げたい。助かりたい。闇バイトに参加し、挙句の果てに強盗で人を殺してしまうところまでいった。人の命を簡単に危険に晒した自分がこんな助けを求めるのは間違っているのかもしれない。

 いや、既に野狗子により心臓という形でその裁きは下されている。


「……分かってる。俺は罪を犯した。それは変わらない。どんなに反省したって、償ったって、消えないことくらい分かってる。でも、だからって――何もせずに見過ごしていい理由にはならないだろ?」


「見過ごさない、ですって?」


 玲奈の声が震えた。皮肉ではなく、感情の波が昂ぶっていた。


「私も昔、野狗子に狙われた。……あんたと同じ。自分勝手な理由で罪を犯して、誰にも助けを求められずに怯えてた。でも私は、怖くて逃げただけ。何もしなかった。だから、生き残った代わりにずっと何もできなかった」


 玲奈が目を逸らす。街灯が彼女の涙の筋をかすかに照らす。


「でもあんたは違うのね。罪を抱えながら、それでも立ち向かおうとしてる。……それが、悔しい」


 優斗は言葉を返さなかった。ただ静かに、彼女の横顔を見つめていた。


 そのとき、遠くから足音が聞こえてきた。リズムの整った革靴の音。優斗が振り返ると、そこには藤崎と市原の姿があった。


「深町優斗さんですね。……話は聞いています」


 藤崎の落ち着いた声が、まるで重しのように優斗の心にのしかかる。その横で市原が小さくうなずいた。


「玲奈さんからの連絡で来ました。あなたを逮捕しに来たわけじゃありません。ただ……協力をお願いしたい」


 優斗は立ち上がり数秒の沈黙の後、頷いた。


「俺は……終わったら自首します。全部、話す。だから、それまで……守ってもらえませんか?都合のいい事を言っているのは承知してます……ただ、このまま償えないまま死ぬのは嫌なんです……」


 藤崎は一歩前に出た。瞳の奥に、過去の痛みと現在の使命が共存していた。


「決して軽い罰では済みませんよ?何年か、何十年かも分からない。その中で償う覚悟は?」


 藤崎は冷たく言い放つ。藤崎の威圧に優斗は決して逃げることなく静かに頷いた。


「分かりました。あなたの覚悟、確かに見届けます」


 静かに、三者の協力関係が結ばれた。そのとき、どこか遠くで風が吹き、街の空気がわずかに揺らいだ。


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 午後九時、外の街灯の光が会議室のブラインドを通して差し込んでいた。捜査一課管理官・片岡は捜査会議の冒頭、資料を掲げた。


「これが現在、捜査線上に浮かび上がっているターゲット候補だ」


 壁面のホワイトボードには数人の顔写真が並ぶ。その一つに指を指したのは、刑事の市原悠だ。


「この人物——榊原誠(さかきばら まこと)、二十六歳。三か月前、闇バイトに関与し、非合法な輸送業務に加担していた記録があります。件の“深町優斗”とは組織が違ったようですが、活動地域が被っています」


 藤崎は手元の資料を確認しつつ、眉間に皺を寄せた。


「つまり、野狗子(SNS上での通称だが)に狙われる可能性が高い。彼が法で裁かれなかった罪人をターゲットにしているのなら、榊原は危険だ」


「それともうひとつ」と市原が声を上げる。


「榊原が過去に一度だけ、斡旋者と直接接触していた形跡があると、玲奈さんから情報提供がありました」


 片岡が頷いた。


「なら、まずその榊原を保護するのが最優先だ」


 藤崎は頷きつつ、テーブルに置かれた紙コップのコーヒーを手に取った。苦味の残る液体を喉に流し込みながら、心のどこかで嫌な予感がしていた。


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 榊原誠は、アパートの郵便受けに届いていた茶封筒を不審に思っていた。差出人の記載はなく、手書きの宛名だけが不自然なほど整っている。彼が封を開けた瞬間、そこに入っていたのは一枚の写真だった。


 それは彼が数か月前、ある運送現場で撮られた一枚のスナップ写真。まるで望遠で盗撮されたかのような角度——知らぬ間に、見られていたのだ。


 そしてその夜。榊原はタクシーの配車を待っていた。だが到着した車は、登録されていたものとは違うナンバープレートだった。


「おかしいな……」


 と呟きながら、スマートフォンの画面を確認していた次の瞬間。


 ——鈍い音とともに、背後から何かが榊原の頭部に命中した。


 視界が揺れ、崩れるように膝をつくと、目の前に一人の“人間”が立っていた。


 その人物は作業員風のグレーのツナギを着ていた。顔には無骨な防塵マスク、ゴーグル。そして口から一言も発することなく、機械のような動作で榊原を車の後部座席に引きずり込む。


 その間、何の音も感情もなかった。


 ——無機質。


 黒塗りの車は、ゆっくりと夜のアスファルトの中へと消えていった。


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 榊原宅前、午後九時半。

 藤崎は、マンションの外観を見上げながら、腕時計をちらりと確認した。同行する市原悠が呼び鈴を押すも、室内からの応答はない。


「……返事がありませんね。起きていない可能性も」


「いや、妙だ」


 藤崎の目がマンションの敷地を走査する。何かが引っ掛かった。視界の隅、駐車場側の搬入口。その先に見える黒いバン。

 そして、背を向けた人物が台車に載せた何かを車の後部に押し込もうとしていた。人間の身体――それも無抵抗に垂れ下がった両腕と、かすかに揺れる足首の輪郭が見て取れる。


 藤崎は瞬間的に判断した。


「市原……下へ急げ!先に車を回せ、俺が奴を追う!」


「え、藤崎さん!?」


 だが藤崎は市原の返答を待たず、階段を駆け下り始めていた。


 搬入口から黒いバンが動き出す。

 野狗子――そうとしか形容できないその存在が、静かにアクセルを踏み込む。ナンバープレートの一部は泥で覆われており、意図的な偽装が施されていた。


「そこまで時間は経ってない……まさにすれ違い……エレベーターを使われたか!」


 野狗子と呼ばれる犯人は警察が到着し、階段を昇ってきたのを知っていた。下で鉢合わせしないように、敢えてギリギリを狙って警察が榊原の部屋がある階に辿り着いたのと同時にエレベーターに乗り込んだのだ。

 藤崎は、わずかに開けたフェンスの隙間から自身の乗ってきた覆面車両へ滑り込むと、即座にエンジンを点火。ハンドルを握る手が汗ばんでいるのも気づかぬまま、車を走らせた。


「クソ……榊原を攫うとは……あのタイミングで……!」


 バンは住宅街の道幅を確実に選びながら、無理のない速度で走行していた。それは、まるで自分の尾行者の動きを確認するような、逆に余裕すら感じさせる逃走だった。


「市原、今どこだ!」


《東通りの信号を越えました。ルートからすると、工業地帯の方に向かってます》


「よし、先回りして廃工場群の北口で張ってくれ。こっちは真後ろにつける」


《了解》


 無線から市原の声を聞く。しかしその目は決して目の前を走るバンから離すことはなかった。

 藤崎はアクセルを踏み込み、バンとの距離を詰めようとしたが――次の瞬間、黒いバンが突然ハンドルを切った。

 鋭角に交差点を曲がり、車線を横切る形で逆走。藤崎の反応が一瞬遅れた。


「クソッ!」


 フルブレーキと同時にハンドルを切る。前方のガードレールに側面をこする感触。車体が小刻みに跳ねながら方向を変える。


 目の前のバンが細い路地を抜け、廃工場群へ突入していく。入り口は無人。錆び付いた鉄柵が不自然に開け放たれていた。


 (誘い込んでいる?)


 だが藤崎は迷わずアクセルを踏み込んだ。榊原の命が賭かっている以上、躊躇はできなかった。


 廃工場内部は迷路のような構造だった。途切れ途切れに照らされる外灯、積まれたコンテナ、崩れた壁の合間を縫うようにバンは獣のように滑るような動きで逃げていく。

 藤崎は車体を擦りながらも喰らいつく。


 そこへ、前方の廃倉庫の影から一台の車両が現れた。市原の覆面車だった。

 野狗子のバンが一瞬減速した。判断に迷ったようにみえたがすぐに、廃倉庫の間のわずかな隙間へ身を滑り込ませた。


 藤崎はそのまま追う。だが、その道は思った以上に狭く、出口は一方通行になっていた。


「しまった……!」


 逃げ場を誤認した藤崎がブレーキを踏んだその刹那、背後から衝撃が走る。

 野狗子のバンが方向を転換し、真後ろから突進してきたのだ。工場跡の砂利にタイヤが取られ、藤崎の車は車体を横倒しにしたまま、コンクリートの壁面に叩きつけられた。


「ぐ……うっ……!」


 エアバッグが破裂し、車内に白い煙が広がる。割れたフロントガラス越しに、藤崎は意識を保とうと必死に瞬きを繰り返した。


 ――そして、奴が現れた。


 車内で何やら蠢いたかと思えば奴は勝者のように、動かなくなった獲物を見つけたかのように、余裕の足取りで藤崎の前に立つ。

 夕闇の中に、犬の剥製のような被り物を被った異形の存在が立っていた。

 表情は見えない。声もない。ただ、そのシルエットから異様な“無”の気配が滲み出ていた。


「……何が目的だ……」


 藤崎が声を振り絞る。


「何故、こんなことを繰り返す……!」


 野狗子はわずかに首を傾げると、ゆっくりと口を開いた。


「俺は……観察者であり、研究者だ。魂という真理を、解明している」


 野狗子はくぐもった声で答える。その声は耳から心臓に届きそうな重いものだった。


「あんたはきっと善人だ。だから魂も綺麗だろう。悪人はどうだ?同じ魂の色をしているのか?」


 野狗子は遠くから来る市原の車に目をやりながら呟く。


「あんたの魂の色も気になるが……今日はやめておこう。まだサンプルが残ってるのでね」


 それだけを言い残し、野狗子は車に乗り込み、廃工場の奥の闇へと消えていった。


 間もなく、工場の反対側から市原の声が響いた。


「藤崎さんっ!!」


 彼女が駆け寄り、車体の横で崩れた藤崎を抱え起こす。顔に血が滲んでいたが、意識はあった。


「……逃げられたか……?」


「……はい……榊原も……」


 市原の言葉に、藤崎は唇を噛み締めた。


 人ひとりを守れなかった――その現実が、痛みよりも鋭く彼の胸を貫いた。

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