第5話 斡旋者・玲奈

玲奈は静かな部屋で、椅子にもたれかかり無機質な天井を見上げていた。模様が、天井を這う虫のように見えて気持ちが悪かった。


闇バイトの斡旋者としてこれまで生きてきた。少なからず人に危険な仕事を紹介してきたし、危険に巻き込んだ。だがその人がどうなろうと知ったことではなかった。全ては『自分で選んだ道』なのだから。

だが、こうして『野狗子』という猟奇殺人鬼に狙われ、そして深町優斗という男と出会ったことで、玲奈は心の奥にしまい込んでいた罪悪感を引きずり出す。


「はぁ……いつからだっけな……道を踏み外したのは」


玲奈は目を閉じ、遠い過去に記憶を巡らせる。


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玲奈が生まれた家は、都心から少し外れた古い団地だった。

 母は二十歳そこそこの若いシングルマザーで、仕事はコンビニの深夜シフトを中心に勤務していた。深夜帯だと、割増になるからだ。

 父の姿は、玲奈が物心つくよりも前に消えていた。母の話では「玲奈が生まれたのと同時に他の女と蒸発した」との事だった。どのみち、屑の事なんて死んでようがどうでもよかった。


 記憶の中の家は、いつも薄暗かった。

 日中にカーテンが開くことはほとんどなく、母は昼間に眠るためにリビングの光を嫌った。

 玲奈が幼いころに描いた絵を見ると太陽はいつも紙の端に申し訳程度に描かれ、家の中の色は灰色に近い鉛筆の線ばかりだ。


 母は悪い人ではなかった。ただ、余裕がなかった。いつも眠そうな目で玲奈に語りかける。


「ごめんね、玲奈……お母さん、今日も眠いの」


寝るまでのあいだだけとテレビをつけてくれたが、玲奈と話す時間はほとんどなかった。


 幼児だった玲奈にとって、母の寝顔は好きだった。働き疲れて、まつげが頬に落ち影を作っているその姿を見ていると、守らなければいけないような気がした。

 だが同時に「話したい」と思うたび胸の奥がぴりぴりする。母が寝ているから、と玲奈はいつも声を殺して遊んだ。笑い声を出すのも悪い気がして、ぬいぐるみ相手にも囁き声で話していた。


 幼稚園で他の子どもが大声で笑い合っているのを見て、玲奈は最初驚いた。声をあげて笑うなんて、家では許されないことだったからだ。


 「玲奈ちゃん、なんでいつも小さい声なの?」


 幼稚園の先生に聞かれ、彼女はうつむいて首を横に振るだけだった。

 理由は言えなかった。

 ただ、家の匂いと暗さを人に知られるのが怖かった。


――


幼稚園の帰り道、夕焼けで空が赤く染まるころ玲奈は母の働くコンビニの裏口で待つことが多かった。店の奥からかすかに聞こえるレジの音に耳を澄ませ、ドアの向こうを人が通る影を何人も見送っていた。


 母は、忙しい時は挨拶すらできない。出てこられるのは休憩の数分だけで、その数分も母はあまり玲奈とは話はしなかった。玲奈は紙パックのジュースを受け取ると、嬉しいのになぜか胸が痛んだ。


 母が戻って扉が閉まると、世界から色が抜ける。ジュースを飲んでいる間、子どもである自分を責めた。

 

どうして私は、もっといい子でいられないんだろう。


どうして私は、お母さんを笑わせられないんだろう。


 誰もそんなこと望んでいないのに、玲奈は「自分が負担だ」と思い込むようになっていた。


 夕方の冷たい風の中、団地へ戻る足取りはいつも重かった。

 帰っても誰もいない部屋、暗いリビング、電子レンジの前に置かれた母の走り書きメモがいつもの家の中の光景だった。


「レンジで30秒。おやすみ。ごめんね」


 その字を見ると、安心と寂しさが一気に押し寄せて涙が出た。


 五歳の玲奈は、ひとりでご飯を温めて食べると母の布団にもぐりこんで眠った。母の匂いが残るタオルケットに包まれながら「帰ってきたら気づいてくれるかな」と、ぼんやり思った。


 母が帰ってくるのは深夜だ。その時間を待てるほど、幼い玲奈に体力はなかった。


――


小学校に入ると、玲奈の孤独はより鮮明になった。

学校という場所は、声が大きい子が中心になる。

明るくて、活発で、みんなの前に出ることを恥ずかしがらない子が友達を多く作る。


 玲奈は、その逆だった。声が小さく、いつも教室の隅に座り、目を合わせることすら苦手で下ばかり向いていた。先生に指を差されて発表する度に、手が震えて教科書の文字が滲んで見えた。


 周りの子どもたちも、最初は優しく接してくれた。


「一緒に遊ぼう?」


と声をかけてくれる子もいた。


 けれど、玲奈は慣れていなかった。友達とどう距離を取ればいいのか分からず、いつもぎこちない笑顔でどこか上の空の返事をしてしまう。


 やがて声をかけられることも減っていった。


 昼休みは校庭の端のフェンスにもたれ、空を眺める時間が増えた。風が髪を揺らし、遠くの笑い声が聞こえる。それは別の世界の音のようで、自分には届かないものに感じられた。


「つまらないな」


――


小学四年生の冬。

 

玲奈の世界を決定的に変える出来事が起きた。


 母が、倒れた。


 深夜、働き詰めの日々が続き、疲労と栄養失調が重なった結果だった。職場の奥で倒れ、救急車で運ばれたという。


 玲奈は親戚に預けられたが、その親戚は玲奈にとって「知らない大人」だった。

 親戚の家の、生活の匂い、他人の足音、知らない家族の笑い声のすべてが玲奈の神経を刺激し、息が苦しくなるほど不安になった。

その夜、布団に潜りながら、玲奈は声を殺して泣いた。泣くのが悪いことだと思っていた幼少期の名残で、嗚咽を押し込みながら身体を震わせた。


 母はしばらく職場を休むことになった。

 だが、その「しばらく」は玲奈の心に決定的な影響を与えた。


 母が働けなくなったことで生活はさらに苦しくなり、母の気力が著しく低下したのだ。病院から帰ってきた母は、まるで別人のようだった。

 目の下には深い隈が刻まれ、話す声に力がなく、笑うことがほとんどなくなった。


「……ごめんね、玲奈。ほんと、ごめん……」


 夜、母が玲奈の頭を撫でながら呟くその言葉は泣いているような、誰かにすがっているようだった。


 その時、玲奈の胸に初めて「怒り」が生まれた。誰に対してでもなく、世界そのものに対してだ。


 なんで、私たちだけこんな目に遭うの。

 なんで他の子は楽しそうに笑っていられるの。

 なんでお母さんは、頑張っているのに報われないの。


 その疑問は、小さな心には重すぎた。

 しかし確実に芽を出し、玲奈の世界を濁らせていった。


――


小学六年生の夏、夕方の下校の時間。

 団地の階段で、玲奈は決定的に「世界を嫌う」理由を突きつけられる。


 同じ団地に住む年上の男子中学生三人が、玲奈のランドセルを覗き込んで笑った。


「おまえ、まだこんな古い筆箱使ってんの? 貧乏くさ」


 玲奈は言い返せない。

 声が喉につかえて出てこなかった。

彼らは面白がって、玲奈の持ち物を一つずつ取り上げては馬鹿にした。母が無理して買ってくれた上履きに祖母が送ってくれた安い鉛筆、学校で使うノート。


 ひとつひとつ、玲奈にとっては大切なものだった。しかし、彼らにとっては嘲笑の材料でしかない。


「こういう貧乏な家の子ってさ、頭も悪いらしいよ?」


 嘲る声が周りに響く。夕日の中で、彼らの影が玲奈を覆い隠す。

 そのとき、玲奈の中で何かが切れた。


 この世界は弱い人間を踏みつける側と、踏まれる側でできている。


 その考えが、彼女にとって初めて「現実」の形を持った。


――


中学に入ると、玲奈は変わった。

 背が伸び、黒髪はさらりと艶を帯び、整った目鼻立ちは自然と注目を集めた。


 しかし性格は変わらない。人前に出るのが苦手で、笑うときも遠慮がちだった。それでも、彼女は知らぬ間にクラスの男子から目をつけられるようになっていた。


 そんな玲奈に、初めて真正面から声をかけてくれたのは隣の席の女子生徒だった。


「ねぇ、玲奈ちゃん。今日のお弁当、一緒に食べない?」


 明るくて、天真爛漫な笑顔が眩しかった。玲奈とは正反対のような存在だった。


 最初は戸惑ったが、女子生徒は距離の詰め方が上手だった。多くを聞かず、ただ隣に座り、同じ風景を共有してくれるだけで玲奈の胸の固い部分が少しずつ緩んでいく。


 放課後には彩夏の家に誘われ、そこで初めて「普通の家庭」の温かさに触れた。母親が笑顔で「いらっしゃい」と迎えてくれ、テーブルには手料理が並び、家族みんなでテレビを見て笑う。


 玲奈は、胸が苦しくなるほど羨ましかった。

 こんな場所があるのか。自分の知らない世界が、こんなに明るいのか。


 その日の帰り道、玲奈は女子生徒に言った。


「……ありがとう。すごく楽しかった」


 女子生徒は「当たり前じゃん」と笑って肩を叩く。その一瞬の温かさが、玲奈にとっては救いのようだった。


――


友情は順調に見えた。昼休みはいつも二人で過ごし、放課後は本屋や駄菓子屋に寄った。


 しかし、歪みは突然訪れた。

 きっかけは「男子の好意」だった。


 クラスの中心にいるある男子が玲奈に話しかけるようになり、それを面白がった数人が噂を広げた。


「玲奈ちゃんさ、最近モテてるよね」

「あいつ、絶対玲奈のこと狙ってるって」


 玲奈は否定したが、噂は勝手に育っていく。中学生にとって色恋沙汰は格好のネタだった。玲奈は誰かの気持ちを利用したわけでもない。ただ、目立つだけで罪にされることがある。


 ある日、女子生徒が突然冷たい声で言った。


「ねぇ……玲奈って、そういうの狙ってたの?」


 胸が焼けるように痛んだ。

 否定しようとしても、言葉が出てこない。


「違う……私、そんなつもり……」


「でも、なんかあの男といるとき嬉しそうだったよ?」


 女子生徒は続けた。その声音には嫉妬と戸惑いと、苛立ちが混ざっていた。その瞬間、玲奈の脳裏にあの団地の階段で笑った中学生たちが浮かんだ。


結局、私は誰からも嫌われるんだ。


 友情に亀裂が入ったのは、この日だった。


――


噂はエスカレートした。


 人気者の男子生徒が玲奈に告白したという嘘と、玲奈が女子生徒の好きな男子を奪おうとしたという作り話と、玲奈が家が貧しくて、男に頼ろうとしているという侮辱が広まったのだ。


 それらの嘘が誰の口から出たのかは分からない。ただ、いつの間にかクラス中に広がっていた。そして最悪だったのは、玲奈が信じていた 女子生徒もその輪に入っていたことだ。


 昼休み、クラスの後ろで彩夏が数人と談笑していた。誰かが言う。


「玲奈、最近態度でかくない?」


「なんかさ、あの大人しそうなのが逆に計算高いっていうか」


 女子生徒が笑った。


 「まぁ、分かるかも」


 その笑い声は、ナイフより鋭く玲奈の胸に刺さった。

 世界が急に灰色に戻る。

教室の机の並びも、チョークの音も、誰かの靴音も、すべてが遠くに感じる。


 また、だ。

 また私は、踏まれる側のままなんだ。


 その日から、玲奈は誰とも話さなくなった。


――


中学二年の冬、母が再度倒れた。


 今度は精神的なものだった。コンビニの仕事は続けていたが、疲労は限界で医師からは「うつ状態」と診断された。母は布団から出られない日が増え、仕事を辞めざるを得なくなった。


 生活は一気に崩れていった。


 電気代の督促状、家賃の遅延通知が郵便受けに溢れるばかりに詰め込まれていく。

 冷蔵庫は空っぽで、朝は水だけで済ませる日も出てきた。


 玲奈は学校を休んでバイトを探した。未成年だから働ける場所は限られていたが、新聞配達や掃除の手伝いなどを片っ端から引き受けた。帰宅するころには夜になっていて、布団から顔だけ出した母がかすかに呟く。


「……ごめんね、玲奈……ほんと、ごめん……私がこんなことにならなければ……」


 その言葉を聞くのが、一番つらかった。


 母を責めたいわけじゃない。しかし母が謝るたびに、玲奈の心に黒い霧が広がる。


私は、生まれたときから間違いだったの?


 そんな考えが頭を支配していく。玲奈の思考は、もう止まりかけていた。


――


中学三年になり、進路調査票が配られた。みんなが大学進学を見据えて高校を選ぶ中、玲奈は迷うことなく「地元の夜間高校」を選んだ。


 理由はひとつ、昼間働きながら夜間に通えるからだ。担任は困った顔で言った。


「玲奈……君ならもっと上の学校を狙えるんだけど」


「いいんです……働かなきゃいけないので」


 担任は納得していなかったが、それ以上何も言わなかった。玲奈の背景を薄々感じ取っていたからだろう。授業参観にも、三者面談にも来ない母のことを担任は察していた。


 クラスメイトたちは陰でこう言った。


「玲奈ってさぁ……夜間とか落ちぶれたよね。毎回成績良くて、先生に褒められまくってたのにね」


「高校デビューすら無理そうじゃん」


「貧乏だから仕方ないじゃん?」


 笑い声が背中に突き刺さる。玲奈の心にもう痛覚はなかった。


――


夜間高校の初日は、予想以上に荒れていた。


 髪の色を明るく染めた生徒、教室の後ろでタバコの匂いをさせる者、名前すら言わない教師、玲奈は別の世界に来たような気分だった。


 しかし、意外なことにその夜間高校で玲奈は浮かなかった。皆、何かしらの事情を抱えていたのだ。家庭の問題だったり金銭的理由だったり、居場所を失った過去だったりとおおよそ人には話せない事情があった。


 玲奈は初めて「対等に話せる世界」を知った。


 だが幸福は長く続かなかった。


 バイト先である男に目をつけられた。深夜のファミレスで働いていたとき、常連の男が玲奈をじろじろ見てきたのだ。ある夜、帰り道でその男に声をかけられた。


「君さ、もっと稼げる仕事に興味ない?」


 白い息が夜気に揺れ、男の瞳が妙に冷たい。


あ、これは関わってはいけないやつだ。


 直感が警告した。玲奈は無視して走り去った。

しかし数日後、その男がバイト先に再び現れた。


「無視するなよ……いい話なんだぜ?俺さ、分かるんだよ、向いてる人とかさ。適材適所ってやつだよ。君なら絶対に上手くいく」


 男の言う仕事という言葉に、ぞわりとした嫌悪が背筋を走る。玲奈は拒絶したが、その出来事は彼女の世界観を壊した。


 結局、私は弱い。

 狙われる側の人間で、踏みつけられるだけ。


 この「弱さ」への憎しみが、後に彼女を闇の世界へ導く種になった。


――


玲奈は高校二年になるころ、さらに追い詰められていた。母は働ける状態ではなく、家賃滞納も限界だった。そして生活保護の申請も母が拒んだ。


「……迷惑かけたく、ないの」


 その言葉に、玲奈は心の底から「もうやめて」と叫びたかった。だが、母を責めないのが玲奈の悪い癖だった。何もかも母のせいにして、怒鳴り散らして母を罵ればどれだけ楽だったか。


 玲奈は「もっと働くしかない」と考え、学校帰りに新しいバイトを掛け持ちした。睡眠は3〜4時間、まともな食事も取れない。それでも母を失いたくなかった。


 しかしある日、母が泣き叫んだ。


「玲奈……ごめん……私のせいで……全部……!」


 布団の中でくしゃくしゃになって泣き続ける母を見たとき、玲奈の心がゆっくりと折れていった。


私は、何をしても報われない。

現実は、弱い人間に生きる価値なんて与えない。


 その考えは、毒のように玲奈の心を侵食し続けた。


卒業目前の冬。

 

玲奈はこれまでの人生で最も危険な選択をした。深夜のファミレスの裏口で、数か月前の「男」が再び現れた。


「やっぱ働く気あるだろ?金、必要なんだよな?」


 玲奈は、顔色を変えずに答えた。


「……どういう仕事なんですか」


 ついに言ってしまった。男はニヤリと笑い、ポケットから名刺を差し出す。


「紹介屋さ。危なくないよ……まぁ、ちょっとグレーなだけで」


 その名刺に書かれた番号と名前、明らかに偽装だがもう縋るしかなかった。それは玲奈を闇バイトの世界へ導く最初の扉だった。


 男は言った。


「やるかやらないかは自由。でも今のままじゃ生活は詰むだろ?」


 玲奈の胸に深い絶望が広がる。しかし同時に、微かな期待があった。


ここから抜け出せるかもしれない。

母を助けられるかもしれない。

弱い私を捨てられるかもしれない。


 希望と絶望が入り混じった、危うい感情が玲奈を支配した。その危うさこそが、闇に常につきまとう誘惑だ。


 玲奈はゆっくりと息を吸い、名刺を握りしめた。


「……話を、聞かせてください」


 これが、彼女の人生を決定的に狂わせる一歩となった。


――


高校三年の冬、アルバイトからの帰り道を歩いていると吐く息が白い。玲奈は、コートのポケットにしまっていた名刺を取り出した。


 紹介屋・岸谷


 白地の紙に、簡素な字体が逆に不気味だった。

 どこにでもある名刺のようだが、手に持っただけで指先がざらつくような不安を感じる。


 玲奈は団地の階段で立ち止まり、ゆっくりと息を吸い込んだ。生活はすでに限界だった。母の薬代も足りない。家賃滞納も三ヶ月目に入る。これでは法的手段をとられるのも時間の問題だった。


もう、綺麗ごとを言っている場合じゃない。


 そう心で呟き、玲奈は名刺の番号を押した。


「……はい、岸谷です」


 電話の向こうから聞こえた声は、妙に落ち着いていた。玲奈は震える声で言った。


「この前……お話いただいた仕事のことで」


「おぉ、覚えてるよ。玲奈ちゃんね。時間ある?今から少し話せる?」


「……はい」


「駅前の喫茶店、分かるか? カトリーヌって古いやつ」


「分かります」


「十五分後にそこで」


 たったそれだけのやり取りなのに、玲奈の心臓は張り裂けそうだった。この会話で全てが変わってしまう。だけどもう後戻りなんてできなかった。


 階段の踊り場に差し込む街灯の光が冷たく、世界が少し歪んで見えた。


――


カトリーヌは、昭和で時間が止まったような喫茶店だった。木製の椅子、くすんだ緑のソファ、薄暗い照明、カウンター奥から聞こえる豆を挽く音、それら全てが緊張と絶望に支配された日常から少しの間だけ解放してくれた。


 その一番奥の席に、岸谷はいた。

黒いコートをきっちり着こなし、髪は整えられ、年齢は三十代半ばほどの一見、ごく普通の会社員に見える。しかし、その佇まいは「表」の人間では無いことを醸し出していた。


「悪いね、こんな遅くに」


「……いえ」


「緊張してる?」


「少し……」


「だよな。でも大丈夫。俺は危ない人間じゃない。仕事も、危険なことは一切させない」


 その言葉は心地よかった。だが同時に、その安心させようとする声が逆に危険を感じさせる。


「君、今お金に困ってるよな?」


 玲奈は小さく頷いた。岸谷は優しく笑った。


「じゃあ簡単な仕事を紹介するよ。まずは軽いのからね」


「……軽い仕事?」


 岸谷はポケットから封筒を取り出した。中には白いスマホ用のSIMカードが数枚と、簡単なメモが入っていた。


「これを、指定された場所に置くだけ。人に渡す必要もない。顔も見られない。危険はない」


「……置くだけ?」


「うん。報酬は一回で三万円」


 三万円。それだけで玲奈の頭が真っ白になった。新聞配達とファミレスを合わせても、一週間以上かかる金額だ。それが置くだけで手に入るなんてありえない。しかしどうしても信じられなかった。


「……なんでそんなに?」


「企業の裏事情ってやつだよ。正規の経路だとバレる可能性があるから、素性の分からない人間に頼む。ただそれだけ」


 嘘だということは玲奈にも分かった。こんな仕事、高校生に回ってくる時点で「裏」に決まっている。分かっていて言ってしまった。


「……やります」


 岸谷は満足そうに微笑んだ。


「いい判断だよ。君、素質あるね」


 素質。

 その言葉が、妙に深く心に刺さった。自分はもう正しい道を歩けない、そう感じた。


――


指定場所は繁華街の裏にあるマンション、その郵便受けだった。夜の街はネオンが煌めき、酔った人々の笑い声が反響している。


 玲奈は黒いフードを深くかぶり、封筒を握りしめていた。マンションの入り口はオートロックだったが、誰かが出てくる隙を見て中に入れた。


ただ置くだけ。誰にも見られない。


 繰り返し自分に言い聞かせる。だが、郵便受けに紙を差し込むだけの動作なのに手が震えた。SIMカードの重さは数グラムなのに、指先が重くて動かない。


「……大丈夫、大丈夫……」


 自分にそう呟きながら、玲奈は封筒を指定された番号の郵便受けに滑り込ませた。


 カサッ、という小さな音が鈍く響いた。


 その瞬間、胸の奥に激しい鼓動が湧きあがり膝が震えた。まるでやってはいけないことをしているという恐怖に身体が反応している。


 だが、仕事は終わった。帰り道の途中、スマホにメッセージが届いた。


《確認完了。お疲れ。明日には約束の金を渡す》


 短文なのに、心臓が跳ね上がる。この短い文章が今の玲奈を支えていた。その夜、玲奈は布団の中で眠れなかった。罪悪感と興奮と恐怖が混ざり合い、胸がずっとざわざわしていた。


翌日、岸谷から手渡された三万円を見た瞬間、玲奈の胸に衝撃が走った。白い封筒の中の紙束は金塊のような硬さと重みがあった。手に持つとずっしりと重い。


「頑張ったね。ほら、報酬だ」


 母の薬代が払える。滞納していた電気代もすぐに工面できる。今週中に食材も買える。


 現実世界では、悩みも苦しみも『金』という一枚の紙で解決してしまう。その事実が、玲奈の価値観を一気に変える。


正しい仕事でも、間違った仕事でも、お金を得られる方が結局は人を救うんだ。

そう思った瞬間、胸の奥に黒い感情が染み込んだ。


 その日から、玲奈は岸谷の仕事を続けた。


 SIMカードの受け渡し、荷物の転送、簡単な見張り。危険は少なく、報酬は大きい。そんな夢みたいな仕事を回す日々が続いた。


 玲奈は次第に、罪悪感より生活が回る安心の方が強くなっていった。


――


「……玲奈、ありがとう……本当に助かった……」


 母が泣きながら頭を下げる。玲奈は胸に小さな達成感を覚えた。母を支えられている、母の安心を買うことができている、母の命を救えている。


 しかし、同時に胸の奥が鋭く痛む。母に手渡している金は正しい金ではない。罪悪感は確かにある。でも、それ以上に助けられたという現実が重い。


「でも、大丈夫なの?薬なんて高いはずなのに……今のバイトだけで間に合ってるの?」


「大丈夫……大丈夫だから。お母さんは何も心配しなくていいの」


私は、悪いことをしてでも母を救った。

 そんな歪んだ正義感が芽生え始める。


 人生で初めて、自分が誰かの役に立ったと感じた瞬間だった。母は、娘の全てを見透かすように言った。


「玲奈……例えどんなに苦しくても、私は玲奈が生きてくれるだけでいいのよ。親にとって……子ども以上のものは……ないんだから」


――


仕事を続けて三ヶ月が経った春が近づく頃、岸谷は玲奈に新しい提案をした。


「玲奈ちゃん、もう大丈夫そうだな。次は紹介する側に回らないか?」


「……紹介、する側……?」


「うん。君ならできるよ。今までミスもないし、頭も良い。なにより事情を聞かないタイプだ」


 玲奈は言葉を失った。事情を聞かない。まさに裏の仕事の象徴だった。

 岸谷は続ける。


「紹介者はリスクが少ない。働くのは他の奴らだ。君は連絡役になればいい」


 胸がざわ、と揺れる。


「報酬は一人紹介で五万円。実働が入れば追加で二万円」


 七万円。

 今の玲奈にとって、それは天文学的な数字に感じた。


「どうする? 君になら任せられる」


 岸谷が差し出す手は、玲奈にとって救世主のような手だった。

だが、その手は確かに闇に続いている。本当は分かっている。この男は玲奈を奈落に引きずり込むつもりだ。そこまで落ちれば、もう人としての生活には戻れないかもしれない。

 でも。


この手を取れば、母を救える。

生活が安定する。

弱い自分を捨てられる。


 頭の中で言い訳が渦巻く。


 そして玲奈は静かに、しかし確かに頷いた。


「……やります」


「いい判断だよ、玲奈ちゃん」


 岸谷の笑みは優しく見えた。だがその奥にブラックホールのような貪欲さを、玲奈は見逃していた。


最初の仕事は、ただ一人の若者を仕事へ誘導するだけだった。深夜、都市の外れのコンビニ前で玲奈は対象の青年と接触した。

 フードを目深にかぶり、落ち着いた声で言う。


「……いい仕事、紹介します。危険はありません。あなたの事情は聞きません」


 自分が以前言われた言葉をそのまま返す。青年はうつむいていたが、玲奈の言葉に反応した。


「……本当に、危なくないんですよね?」


「私もやっています。大丈夫です」


 その声は冷静で、落ち着いていて、嘘がひとつもないように聞こえた。


ああ……私、演じている。


 玲奈はその瞬間、不思議な確信を覚えた。青年が仕事を受けた後、玲奈のスマホが震えた。


《紹介成功。報酬は後日渡す》


 手の中のスマホがやけに重く感じた。人を仕事に紹介した、その先に何があるのかは知らない。だが同時に、どこか誇らしかった。


これで私は、誰にも踏まれない。


 そう思ってしまったのが、玲奈の堕ちていく始まりだった。


――


紹介者の仕事を始めてから、二ヶ月が経った。玲奈はすでに新人ではなかった。


 罪悪感は薄れ、代わりに 慣れ”が芽を出し、いつしか玲奈は自分をこう思い込むようになっていた。


私は、皆を助けているんだ。


 紹介した若者が報酬を得て「ありがとう」と言う。その瞬間だけ、玲奈は少しだけ救われた気がした。コンビニ裏の薄暗い搬入口で、青年にスマホを渡す。


「……ここに書いてある通りにやって。あなたの名前は誰にも知られません」


「わ、わかりました……」


「大丈夫。私もやってきたから」


 青年は震えていた。かつて玲奈自身が震えていたように、それでも今の自分は違うとどこかで見下していた。玲奈の声は冷静だった。心の奥にある悪いことをしている感覚も、次第に薄れていった。


 仕事が終わるたび、岸谷から来る報酬の封筒は相変わらず分厚く、白く、重い紙束がのしかかる。


 ふと指先でその封筒をなぞるたび、喉の奥で熱が生まれる。


私は、生きるためにしているだけだ。

家族を守っているだけだ。その自己暗示が、玲奈を支えていた。


「玲奈……こんなに……本当にありがとう……」


 母は薬代が払えた日、泣きながら玲奈の手を握った。玲奈は笑顔をつくった。


「大丈夫だよ、私、働けるから」


 しかし、その手に握られているのは汚れた金だ。母は知らない。知れば、どんな顔をするだろう。知られてはいけない。だから死ぬまで隠していくつもりだった。

胸が締め付けられたが、その痛み以上に母が救われている現実が強い。


正しいことなんて、誰が決めるんだろう。

私は今、唯一の家族を守っているんだ。


 玲奈は、そう思わなければ壊れてしまうほど追い詰められていた。



三ヶ月後。

 玲奈の紹介人数は十数名を超えていた。岸谷も玲奈を評価し、より大きい仕事を任せるようになった。


「本当に優秀だね君は。滅多にいないよ、こんなに筋のいい子は」


 岸谷の言葉に、玲奈の心は軽く揺れた。


 筋がいい、優秀、そんな言葉を玲奈は今まで誰からも言われたことがなかった。学校でも、家庭でも褒められることのない人生だった。


この仕事が、私の居場所なのかもしれない。そんな危険な思考が、静かに根を張っていった。


――


ある日、岸谷から急な呼び出しがあった。


「玲奈、話がある」


 喫茶店カトリーヌに呼び出され、昭和漂う店内を見回すと、奥の席で岸谷は珍しく険しい顔をしていた。


「前に紹介したやつ、覚えてるか?あの赤いパーカーの少年」


 玲奈は頷いた。


「あの子……確か、家がないって言ってて……」


「そう、その子だ」


 岸谷は指先でテーブルを叩く。


「……失踪した」


「……え?」


 耳に響く音が遠くなる。喫茶店の薄暗い照明が、急にチカチカと揺れて見えた。嫌な目眩が襲う。


「仕事先でトラブルがあったらしい。詳しくは言えないけど……戻ってない」


 戻ってない。

 その言葉だけで、玲奈の胃がひっくり返る。


「……どうして……私、あの子に……」


「落ち着け。お前のせいじゃない。こういう世界にはそういうこともある」


 そう言い切る岸谷の目は、微動だにしなかった。


私のせいじゃない?

いや、違う。

あの子に仕事を渡したのは、私だ。


 喉の奥が熱くなり、呼吸がうまくできない。


「でも……私が紹介しなければ……」


「玲奈」


 岸谷が静かに言った。


「お前は、自分が助けられる側の人間じゃなかったってこと。だから今は助ける側に回ってるだけだ」


「助ける……?」


「そうだ。あの子は……まあ、不運だった。だけど、お前が救った奴もいるだろう?」


 救った?

 誰を?

 あの子は?

 助かってない。家族も泣いているはずだ。もし事件に巻き込まれていたら、家族に問い詰められたら、自分は堂々と関係ないと言えるのだろうか。


 玲奈の心に、初めて本物の恐怖が染み込んだ。


 私は取り返しのつかないことをしてしまった。


その夜、玲奈は母が寝静まったあと布団の中で声を殺して泣いた。涙は胸の奥から溢れ出し、喉が詰まるほど止まらなかった。


(どうしてあの子だったんだろう。どうして私が……紹介なんて……あの子は私の言葉を信じて……私が……殺した?)


 考えた瞬間、胃が収縮して吐き気が込み上げた。涙で枕が濡れ、肩が震える。母が隣の部屋で寝息を立てている音が、胸をさらに締めつけた。


 守りたかったのに。

 守るために始めた仕事なのに。

 誰かの人生を壊してしまった。


「……ごめん、ごめん、ごめんなさい……」


 その言葉しか出てこなかった。


――


翌朝、玲奈は鏡を見た。ひどく腫れた目に色のない顔が映っていた。もう限界だ、そう身体と脳が警告を出しているのが分かった。それなのに学校に行かなきゃ、バイトに行かなきゃ、母の薬を買わなきゃ、家賃を払わなきゃ、そんな現実が、容赦なく襲ってくる。


 玲奈は普通の高校生ではない。ここで足を止めれば、一瞬で生活が崩壊する。もしかしたら紹介した『仕事』の被害者達が玲奈に復讐をしてくるかもしれない。今ならまだ組織が守ってくれる。


 罪悪感を抱えながら、再び岸谷へ連絡した。


「……次の仕事、ありますか」


 震える声で言った。自分でも、最低だと思った。


「玲奈……無理するな」


「やらなきゃ……生きていけないんです」


 途切れそうな声に、岸谷は苦笑した。


「……分かった。お前は強いな。次の案件を送る」


 強い?

 違う。

 本当は弱すぎるのだ。


――


その冬、玲奈の人生を完全に壊す出来事が起きた。母の薬代が足りなくなった。医師は新しい薬を勧めたが、金額が高く生活は限界に近かった。


 玲奈は焦った。


もっと稼がなきゃ。大きい仕事を受ければ、すぐに払える。危なくてもやるしかない。

そして岸谷に言った。


「……もっと大きい仕事をください」


 そのもっとが、すべての引き金だった。


「……分かった。でもこれは少し危ない」


「やります」


 迷いなく言ったその一言が、未来を壊した。

数日後、玲奈はある荷物を受け取り、指定された倉庫まで運ぶだけの仕事を引き受けた。


 しかしらその倉庫は警察の強制捜査の対象になっていた。情報が警察に漏れていたのだ。後々聞いたが、玲奈が仕事を紹介した人の中に警察に逃げ込んだ人がいたのだ。


 玲奈は倉庫に近づいた瞬間、遠くでサイレンが鳴るのを聞いた。


「……嘘……なんで……」


 逃げるしかなかった。その夜、警察が団地に来た。玲奈を探して警察が走り出していた。


 母は驚き、怯え、そして玲奈をかばうようにして階段を走った際、足を踏み外し転落した。


 救急車で運ばれたが母は意識を戻さず、翌朝、息を引き取った。


 医師の言葉が耳の奥で響く。


「搬送時点で頭部の損傷が大きく……」


 世界が静まり返った。玲奈の身体から血の気が引いていく。


私の……せい。

私が仕事をしたから。

警察が来たから。

私を守ろうとして。

お母さんは死んだ。


 膝が床に落ち、声が出なかった。母の手は冷たかった。


「……ごめ……ん……お母さん……ごめ……」


結局、組織というよりは岸谷が個人で玲奈に繋がる証拠などを全て細工をしてくれたので、警察に捕まることはなかった。



葬式のあと、玲奈は誰とも話さなかった。誰も責めなかった。誰も抱きしめてくれなかった。

団地の部屋は静まり返り、母の匂いだけが残っていた。

机の上に残った母の薬がまだ残っている。生きていたら、飲まなければいけないはずの量が残っている。ごめんねと書かれたメモ、タオルケットに残る香り、すべてが玲奈の罪の証拠だった。


 玲奈は泣き尽くし、涙が出なくなった夜にぽつりと呟いた。


「……もう、戻れないんだね」


 その言葉が、玲奈を斡旋者として完全に覚醒させた。


私は、弱い人間のまま生きることは許されない。現実は優しくない。正しい生き方は、私には似合わない。どうせ地獄なら、最初から地獄を歩くしかない。


━━━━━━━━━━━━━━━


「あれ……寝てた……」


玲奈は深い眠りから目を覚ます。時計を見ると午前五時を指していた。無機質な部屋の窓から朝日が差し込んでくる。とても長い夢を見ていた。


「これが、私の罪か」


玲奈は重たい身体を起こし、テレビをつける。ニュースではやはり、連日世間を騒がせている『野狗子事件』を報道していた。世間の人は自分には関係ないと思っている。こんな殺人鬼に狙われるなんてどんな人なんだろう、と一種のエンタメにも近い。

だが、玲奈はこの『野狗子』に近い場所にいる。玲奈は自分の胸に手を当てる。この中で鼓動する心臓が、いつ奪われるか分からない。野狗子はそこまで迫っている。


「もう止まっていられない」


玲奈は棚に立てかけてある写真を見る。紛争地にボランティアとして行ったあの日、この罪に塗れた人生の中で、たった一時の『悪』ではない時間だった。この経験が、もしこの『野狗子』というとてつもない悪を打ち倒せる糧になるなら。


「そろそろ精算しないとね。私の罪を」


玲奈はスマートフォンを手に取る。


連絡先のリストの『藤崎』を押す。

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