第3話

 午後の陽が陰り始めた都内の一角。雑居ビルの三階、薄汚れたガラス戸には『合同会社トライ・リンク』という貼り紙が雑に貼られていた。だが、その会社としての実態は曖昧で、表立った登記も見当たらない。まさにペーパーカンパニーの典型だった。


「ここですね」


 市原悠が手帳を見ながら言った。警視庁の刑事課所属の彼女は、スーツ姿に身を包んでいたが、その細身の身体からは芯の強さがにじみ出ていた。藤崎の後輩にあたるが、元は警視庁の交通部交通機動隊の警察官だ。いわゆる『白バイ隊員』だ。その頃から市原の違反の検挙率は凄まじく、犯罪を許さないという気概が刑事部にまで轟いていた。市原の今後に期待を膨らせながら藤崎は看板を見る。


「だな。中井遼平が最後に連絡を取っていた女、玲奈がいるはずだ。彼女が何を知っているかが焦点になる」


 藤崎は眼鏡のブリッジを押し上げながら、扉をノックした。一回目は反応がなかったのでもう一回ノックしようか、と手を構えたところで中から応答があった。開いたドアの隙間から現れたのは、20代後半から30代前半と思しき女。肩まで伸ばした黒髪を軽く巻き、シンプルだが洗練された服装をしていた。その瞳は何も語らず、むしろ悟っているような光を宿していた。女は藤崎と市原を顔を動かさずに、眼球だけを動かして見る。


「玲奈さんですね」


 藤崎が静かに切り出す。警察手帳を見せるも女は表情を一切変えなかった。


「ええ、あなたたち警察の方ですね」


 驚くこともせず淡々とそう返す女の声には、疲弊と諦念、あるいは過去への冷笑が混じっていた。既に事件のことはニュースなどで耳に入っているだろうが、そのせいもあるのか。


「中井という男の件でお話を伺いたい。彼はあなたの仲介でバイトに参加していた。間違いないですね?」


 玲奈は一瞬、瞳を伏せた。『闇バイトとはっきり言ってもらっていいですよ』と自嘲気味に笑う。そして扉を少し開いて彼らを中へ通した。


「座ってください。ただ、言えることは少ないわ」


 室内は無機質な空間だった。書類もパソコンも最低限。隠すべき物は何も表に出ていない。ペーパーカンパニーの事務所は警察が調べに来ても、すぐに最低限のものだけを持って逃げられる、というだけの部屋をしていた。玲奈の手際は慎重で、用意周到だった。


「あなたは闇バイトの斡旋をしている。犯罪の温床になることは理解しているはずだ」


玲奈は藤崎と市原の向かいのソファに座る。足を組み、ゆっくりと体重をソファに預けるその姿は、とても犯罪に加担してるとは思えない優雅さだった。


「温床?そうかもしれない。でも私はね、無理矢理誰かを犯罪に巻き込んだことなんてないわ。連中は『自分で』応募してきて、金のために、命を削るような仕事を選んでる。私はそれを繋いでいるだけ」


 玲奈は静かに息を吐くと、書類に簡単に目を通す。その目には見下すような光も宿っている。


「世の中には私達が想像もできないような境遇の人もいる。辛い過去や逃げたくなるような現状にいる人も。大変、辛い、私だってそれくらいは思う。でもあまり同情はしないわ。さっきも言ったけど選ぶのは自分だもの。私も含めてね」


 冷たい笑みだった。だが、嘘をついている様子はない。玲奈の声には虚無があった。それは何かを見て、失い、諦めた者にしか持ち得ない色だった。


「でも結局、それを繋いだのはあなたですよね?彼らは止めて欲しかったんじゃないんですか?闇バイトに応募する自分を、闇の世界に踏み込む手前の斡旋者たるあなたに」


市原の言葉に、玲奈はそれこそ馬鹿にするような笑みを浮かべる。


「さっきも言ったでしょ?選んだのは自分。確かに最初の文言は闇バイトを隠すようなもの。でもここに来てからはちゃんと説明するわよ?命の危険がある、それでも金が欲しいかって。みんな言ったわ。『それでも金が必要』って。私が止めたところで、結局彼らは止まらなかった」


そこまで話すと、玲奈は書類をめくっていく。やがて中井の履歴書に辿り着いた。


「中井のことは気の毒だったとは思ってる。あの男、最後は怯えてた。誰かに見られたって。『心臓が欲しいんだ』とか、訳のわからないことを言ってたって」


 藤崎の目がわずかに鋭さを帯びた。


「心臓?」


 玲奈は一度黙った。その間わずかに唇が震えていた。それは中井を止められなかった悔しさなのか、贖罪の表れなのかは分からなかった。


「……中井が言ってたのよ。『あいつは俺の写真を撮った』って。暗闇の中で、車のライトの影から。誰かが、カメラで」


「その誰かに見覚えは?」


「ない。姿は見てないって言ってた。見られてる、そう感じただけだって。闇バイトで強盗に入った住宅から出る時、仲間と一緒に撮られたって言ってた」


 藤崎は黙ってメモを取る。玲奈の話は、先に得ていた他の目撃証言と微妙に一致していた。「写真」「無言」「暗がり」。まるで執拗な観察者のような犯人像が浮かび上がる。それとも選別者とでも言うべきか。


「あなた自身は、何か見たことが?」


 その瞬間、玲奈の瞳がわずかに揺れた。動揺とも、恐怖とも読み取れる瞳。初めて、玲奈の顔に表情が現れた。藤崎はその変化を見逃さなかった。


「……一度だけ。私も狙われたのかもしれないって思った夜がある……でも、何もされなかった。姿も見えなかった。ただ、気づいたら部屋の前に……」


「何が?」


 玲奈は震える手で、ソファ横のサイドテーブルを指さした。綺麗なサイドテーブルには何やら血の跡のような赤いシミが残っていた。


「……誰かの、写真が置かれてた。血まみれで、顔が潰れてて……それが中井だったかは分からない。でも、私への警告だった気がするの」


 市原が低く息を呑んだ。


「警告?」


「お前も見てるぞ、次はお前だって。私だけじゃない。罪を犯した人に対して、隠れられないぞって言われてるような」


そこまで言うと玲奈は黙る。藤崎はもし今回の殺人が闇バイトに関連してターゲットを絞っているのなら、その対象は『実行役』だけではないかもしれない。犯人にとって、罪が闇バイトを実行したものだけではなく、それを実行に促した斡旋も対象になるのではないか。そこまで考え、市原が代わりに提案をする。


「あなたは今でも命を狙われている可能性がある。その狙った人物は、今まさに人から心臓を奪い、保管する殺人鬼かもしれない。警察の保護下に入るつもりはありませんか?」


 玲奈は静かに笑った。


「……あたしの罪は、法じゃ裁かれない。あいつ、野狗子はそういう裁かれなかった罪を見てるんでしょ? だったら、私はもうとっくにリストに入ってるわよ」


 藤崎は深く頷いた。


「なら、我々に協力してくれませんか? あなたの知ってる地下深くの闇の情報がなければ、この犯人は追いきれない」


 玲奈は黙ったまま、遠くを見つめていた。


 その視線の先には、過去の業のような、あるいはこれから起こる惨劇の影が滲んでいるようだった。

藤崎はふと、棚にある写真を見る。集合写真だろうか。少年少女に混じり玲奈が笑顔で映っている。よく見ると少年少女は外国人だ。


「過去に海外に?」


藤崎の言葉に、写真立てを見て自虐的に笑う。しかし、どこか懐かしそうな笑みを一瞬浮かべた。


「海外青年協力隊として紛争地域に行ったことがあるの。当時は綺麗事ばかり並べてたから、こういう事も恥ずかしげもなくやった。まぁ、今は犯罪の斡旋だけど」


玲奈は写真から目を離さなかった。


「結局、この子達はみんな死んだ。爆撃による退去勧告が届いてなくてね。私は見捨てたの。みんなを助ける、とか抜かして結局は死にたくなくて逃げた。だからって悲しい過去を話して同情してもらおうなんて思ってないわよ。この斡旋者を選んだのは、自分だから」


写真立てを倒す。昔のことを話す玲奈を見て、藤崎は玲奈の心にはまだ正義が残っていると感じた。


「あなたは本当は正義感の強い人だと思います」


「どこを見たらそうなるの?」


藤崎は静かに語りかける。


「ならどうして犯罪の温床であるこの事務所に、昔の善行の証である写真を置いておくんですか?まだ戻りたい、そう思っているのでは?」


藤崎の言葉に、玲奈は鼻で笑う。それは藤崎に向けられたものではなく、今の玲奈自身に向けられたものだった。


「過去に善行をしようが悪行をしようが、今は変わらない。だから偽善なのよ」



 ━━━━━━━━━━━━━━━


 午後四時。介護施設「さざなみ荘」の二階、職員用の休憩室は西日が差し込むせいで温室のような空気をまとっていた。扇風機が床の上でうなりを上げているが、湿気を巻き上げるばかりで涼しさは感じられない。


 深町優斗はプラスチック製の椅子に座ったまま、ペットボトルの水を何度も口に運んでいた。バイトとはいえ、重い入居者を車椅子からベットに移乗するのはやはり腰にくる。目の下には濃い隈が浮かび、細く開いたまぶたの奥に疲労と焦燥が滲んでいる。


「最近、眠れてないのか?」


 斜め向かいに座っていた根岸渉が、ペットボトルのラベルを器用に剥がしながら訊ねた。彼はこの施設の先輩職員で、四十手前の穏やかな男性だ。少し猫背で、話すときはいつも言葉を選ぶような間がある。


「ええ……ちょっと、夢見が悪くて」


「悪夢か」


「……まあ、それだけじゃないです」


 根岸はそれ以上は問わなかった。ただ、指先でくるくるとラベルの切れ端を丸めながら、どこか別の世界を見ているような目をしていた。


「でもな」


「……?」


「人間の脳ってのは、よくできてる。都合の悪いものは、ちゃんと見えなくしてくれる。少し時間が経てば、すぐに忘れてきっと楽になる」


 優斗はその言葉に少し違和感を覚えた。慰めるような口調なのに、言葉の端に何か確信めいた、それどころか、心の奥底から湧き上がる喜びすら宿っているように聞こえた。


 一瞬、根岸の目が優斗の瞳を捉えた。だが、すぐに逸らされた。


「まあ、身体だけは壊すなよ。あんまり食ってないんじゃないか?」


 根岸はそう言って休憩室の冷蔵庫からゼリー飲料を取り出し、無言で手渡してきた。


 優斗はそれを受け取ると、小さく頭を下げて礼を言う。根岸は「気にすんなって」と言い、聞こえてきたのは、扇風機の羽音とラベルのビニールを引き裂く乾いた音だけだった。


しばらく沈黙していると、テレビからニュースが流れてきた。


『続いて、世間を騒がせている都内での死体損壊、死体遺棄事件についてです。ネット上では遺体から心臓を持ち去っていることから、中国の短編集に登場する怪物『野狗子』の名で犯人が呼ばれています』


キャスターは台本を一度見下ろし、画面の横に映るゲストへ視線を移した。

黒縁眼鏡をかけた犯罪心理学者の顔が映し出される。それと同時にテロップが映され『帝南大学犯罪心理学教授・結城一』と表示される。キャスターの紹介を受けた結城は軽く会釈をする。


『結城先生、犯人はなぜ心臓だけを奪うのでしょうか?』


結城は一瞬、口を結んだまま沈黙した。数秒の間を置いて、低く答える。


『心臓は、象徴の器です。古代から魂の座、感情の源とされてきました。奪うことは、被害者の命だけでなく存在そのものを支配したいという欲望の現れかもしれません』


キャスターが眉をひそめる。


『つまり……これは快楽殺人、ということですか?』


『単純な快楽ではないでしょう。心臓を持ち去るのは戦利品を収集する行為に近い。犯人にとっては、一つひとつの心臓が自分の力を証明する勲章なのです。ですが……』


結城は一度言葉を切り、言うべきか迷っている表情をする。キャスターに促され、静かに口を開く。


『先程も言いましたが、心臓は魂の座、つまり多くの文化で魂は心臓に宿ると信じられてきました。愛や憎しみ、誠実さや悪意。人間を人間たらしめる感情のすべてが、そこにあると』


キャスターが小さく息を呑む。


『では、犯人は……魂を奪っていると?』


教授は目を伏せ、一拍置いてから続けた。


『あるいは善人と悪人、その心臓に違いがあるのかを確かめようとしているのかもしれません。

つまり、人の魂は生まれや行いによって形を変えるのか、それとも皆同じなのか。犯人は、その答えを収集によって求めている……そんな歪んだ実験心を感じます』


そして教授は視聴者に語りかけるように続ける。


『気をつけなければならないのは、次の犠牲者がすでに決まっている可能性が高いという点です』


そこまで聞いて優斗はチャンネルを変える。いきなりだったので根岸は少し驚いたような表情をする。


「ど、どうしたんだ?」


「え、あ、すみません……こういうニュース好きじゃなくて」


優斗の言葉に、根岸は「そっか」とだけ返す。強盗の夜に見ていた犯人は恐らく罪を見ている。心臓を奪うのは善と悪の区別をつけるためなのか。いや、あくまであの学者の予想だ、と言い聞かせる。ふと根岸が口を開く。


「でも心臓に魂が宿るか。優斗はどう思う?」


根岸の問いに優斗は少し考える。あまり考えたくない話題だが先輩の言葉を無視する訳にはいかない。


「どうなんですかね。イメージは確かに魂って心臓というイメージがありますけど」


「俺は人の命をどう見るかによるかな。人が生きているという証拠が『心臓が動いているから』だったら心臓に魂があると思うし、『脳に意識があるから生きている』と考えるなら魂は脳にあると思うかも」


優斗は考える。確かに心臓、脳はどちらも人間の生きることに欠かせないものだ。どちらがかけても人は死ぬ。たまに『本当の死は人々から忘れ去られたとき』と言われるが、そう考えるなら意識こそが人生であり、魂もそこに宿るのか。


「根岸さんは、どうなんですか?魂はどこに宿ると思います?」


根岸は缶コーヒーを飲みながら、呟く。


「さぁな。もし魂が宿っているのをこの目で見たら、どこに宿るか信じたかもなぁ」


根岸の言葉を聞いて優斗はどうしようもない

ループ迷宮に入り込んだような気分になった。


「ま、要するに分からないこと考えてたって仕方ないんだよ。お前の悪夢だって、どうせ夢なんだから。それこそやましい事なんてなけりゃ大丈夫だろ」


「そ、そうですよね」


乾いた笑いで返すと、根岸はそのまま休憩室を出ていく。もし、根岸に闇バイトのことを話したらどうだっただろうか。とりあえず話は聞いてくれたのか。それともすぐに警察に行けと言われただろうか。


だが、少なくとも野狗子の様に殺して心臓を奪うことはしないよな、と思った。次に会ったら話してみようかと思う。


「殺されるよりはマシだ……」


ゼリー飲料で栄養を身体の中に流し込むと、優斗も休憩室から出ていった。


 ━━━━━━━━━━━━━━━


 その夜。午後十一時を回った頃、優斗はいつもの帰り道を歩いていた。バスを一本逃し、次を待つよりはと歩いて帰ることにしたが、その判断を後悔し始めていた。


 人気のない住宅街。アスファルトに打ち付けるような蝉の残響と、街灯の下でわずかに揺れる木の葉。


 優斗の足取りは重く、目元には深い隈が沈んでいた。もはやまともな睡眠は数日取れていない。理由ははっきりしている。人を殺し、その心臓を持ち去る野狗子。その名を思い浮かべるたび、身体の芯からじっとりと冷や汗が滲む。あいつは見ていた。優斗の罪を。そして今も追いかけている。優斗の罪がその手によって裁かれるまで。


 ふと、背後から車のエンジン音が近づいてきた。住宅街にしては異様な静けさの中、低く唸るようなアイドリング音が耳に残る。


(……やけに遅いな)


 優斗は歩きながらちらりと背後を振り返った。


 一台の黒いバンが、十数メートル後方をゆっくりと並走していた。ヘッドライトは落とされており、街灯のオレンジの光に鈍く反射している。


 運転席の様子は見えない。窓は黒くスモークがかかり、まるで人形が乗っているかのように無反応だった。


 優斗はすぐさま顔を戻し、心臓が一拍跳ねるのを感じた。直感が警鐘を鳴らしていた。何かが来ると。


(……やばい)


 歩幅を速めると、ストーカーが相手にバレないように同じ速度で歩くように、車も同じ速度で動く。


 曲がり角に差しかかった瞬間、優斗は意を決して右に曲がった。車の動きが気になる。思わず再び振り返ると、バンのノーズがまるで生き物のように優斗の方向へぬるりと向きを変えていた。


「……っ!」


(やっぱり俺の事追いかけてきてる!)


 信じたくなかった現実を見た次の瞬間、タイヤがアスファルトをえぐるような音を立てバンが加速した。


 優斗は無我夢中で駆け出した。アスファルトを蹴る音とタイヤの唸りが背後から迫ってくる。さっきまで静かだった町の空気が、怒りに満ちた咆哮に変わっていた。


人が走る速度と車が出す数十キロの速度では雲泥の差がある。車はすぐに優斗に追いつき、その身を潰すべくボンネットが優斗の背中に触れる。


「くそっ……?!」


優斗は車に押されるように前に突き出される。鈍い痛みと共にアスファルトの上を転がると、優斗は休まずに身体を起こして走る。車は塀にドアを擦り付けると、そのままハンドルを切り道路に軌道を戻す。すぐにタイヤとエンジンが唸る音が聞こえてきた。


 次の角を曲がると、優斗はゴミ集積所の陰に身体を滑り込ませた。息を潜めながら、心臓の音が鼓膜の裏を打つ。


 キィィ……


 タイヤが止まる音が鋭く響く。

呼吸を止め、瞼の奥で世界が閉じていく感覚を味わいながら、優斗はそっと顔を覗かせた。


 バンは十メートル先で止まり、ハザードも点けず、ただそこにいた。獲物を逃した猛獣のように、そして近くにいる獲物を探すようにバンはゆっくりと動く。


 しばしの静寂。


 だが次の瞬間、バンのノーズがカクン、と優斗の方へ再び向いた。


「……嘘だろ?!なんで、わかるんだよ……!」


 足が先に動いた。今度は直線の道を全力で走る。肺の中の空気が全て吐き出され、息が苦しい。だが、それよりも後ろから迫る車の加速音が肺を掴むような恐怖を呼び起こした。脳ではなく、本能が身体を無理やり動かしていた。


 バンは再び突っ込んできた。


 優斗が路肩に転がるように避けた瞬間、車体の一部が彼のシャツを掠め、白い布地が破ける音がした。バンはゴミ集積所のゴミをボンネット等に撒き散らしながら、突っ込む。暗闇の住宅街に破壊音が響く。


「っ、くそっ……!」


 立ち上がるより先に再び背後からタイヤの音が加速したことを知らせてくる。まるで優斗が虫で、地面に這いつくばっている今こそが最も「潰しどき」だと言わんばかりに、車体が方向転換してくる。


(あいつが……野狗子……?)


 運転手は喋らない。クラクションも鳴らさない。ただ、無表情な鉄の塊が合理的かつ執拗に、命を踏み潰そうと向かってくる。


 その意志の不気味さに優斗は膝を震わせながらも、もう一度走った。


 背後の車がすぐ追ってくる。電柱に肩を打ち、看板の下をすり抜け、ついには足を滑らせて倒れ込んだ。


(終わった……)


 そう思った瞬間、車が距離を詰めてくる。


 タイヤがこちらに向いている。ボンネットが、ほんのわずか上下しているのが見えた。運転席の奥に、人の姿があるのかすら分からない。ただひとつ「殺意」だけが濃密に伝わってきた。


 車が一気に踏み込んできた。優斗は身体の痛みを忘れてただ走る。


「ダメだ……死ぬ……!殺される!」


 もう逃げられない。一直線のこの道で追いつかれればその身体は跳ね上げられ、地面に転がり、タイヤでザクロのように脳をまき散らしながら潰される。死を覚悟したその瞬間、街灯の先に人の姿が見えた。


 若者たちの集団が、深夜にコンビニ帰りか何かで談笑しながら通りに差し掛かった。


 野狗子の車は寸前でブレーキをかける。


 タイヤがギィィと音を立て、わずか数センチ手前で止まった。


 優斗は、身体を折りたたむようにして逃げた。群衆の中に紛れ込みながら、汗も涙も一緒くたに顔を濡らしていた。


 振り返ると黒いバンはすでにいなかった。霧のように消えていた。


 だが、脳裏にははっきりと残っている。あのノーズの向き、潰そうとした動き。何よりあのフラッシュとともに、無音で忍び寄ってくる殺意の気配は、強盗をした夜に見た男に似ていた。


人通りの多い歩道の真ん中に倒れ込む優斗を見て、周りの人は怪訝そうな顔をするも声はかけない。自分ではなくても、誰かが声をかけるだろうという集団心理が働いているのか。優斗にとって、それは社会から見捨てられたような気分だった。


「もうダメだ……」


 優斗はスマホを取り出し、110番の番号を打つ。

 罪を償う覚悟を決める。同時に生き延びる選択も。

 野狗子はもう優斗を見つけた。その心臓を見るために、地獄まで追ってくるだろう。警察に電話しようとしたところでスマホが鳴る。女性のような短い悲鳴をあげるが、その画面に表示された名前を見て別の焦燥に駆られた。


「玲奈」からだった。

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